アヤが熱を出してから三日目の朝だ。昨日の様子からすれば随分熱はひいているはずだ。私はそう思いながら彼女の部屋のドアを叩いた。すぐに彼女の返事が返ってくる。起きていたとは随分珍しいこともあるものだ。
「おはよう、ファントム」
 私が部屋に入ると彼女は微笑んで挨拶をした。今日は随分と体調が戻ってきているようだった。
「熱はどうかね? アヤ」
「やっと微熱にまで下がってきたみたい。頭もそこまで痛くないし世界も回ってない」
 よかった! 私は心からそう思った。これでまだ熱が高いままならば、私は医者を呼ぶことも考えていた。
「今日一日おとなしく寝ていれば明日には平熱に戻るだろう。喉の方はどうだね?」
「ほとんど問題はないみたい。まだちょっと痛いけど昨日に比べたらずっとマシ。…よかった」
 アヤは安堵の表情を浮かべた。私も彼女と全く同じ意見だった。彼女の声が出なくなっても彼女を愛し続けようと覚悟は決めていた。だが彼女の声が戻るならそれ以上何も言うことはない。
「そうか。だがしばらくは歌を禁ずる。後で朝食と共に蜂蜜を入れたホットミルクを持って来よう。私が許可を出すまで発声をしてもいけないよ」
 私がそう言うとアヤは素直に頷いた。そこまで熱が下がっているのならば昨日のように悪夢に苦しめられることも無いだろう。しかし、彼女も私を思ってくれていたとは…。無意識とはいえ、彼女の激しい告白を思い出し、私は一人興奮した。
「ファントム?」
 そう、私の名を呼ぶこの唇が私の唇に…。
「風邪、うつっちゃった? …熱は無いみたいだけど」
 彼女の手が仮面側ではないほうの額に触れ、私は我に返った。
「いや、…何でもない。おとなしく寝ていなさい。わかったね?」
 私はそれだけ言うと慌てて部屋を出た。あのまま彼女の横にいたら何かをしでかしてしまうに違いなかった。彼女の手・肌・髪、全てが愛しい。闇のような髪と瞳なのに彼女には光があふれている。私とは何もかもが違う彼女に、私は嫉妬し、恐れ、羨望していた。彼女を私のものにすることができたなら…! だが、もうそのような思いを抱かなくともよいのだ。彼女の心は私のものなのだから! 彼女の健康的な象牙色の肌の全てに口づけするときのことを思うと、私の胸は高鳴った。
 全ての舞台を整えて、彼女を求めるのだ。そのときぐらいはせめて人並みに、光差す木漏れ日の下で彼女に愛を語ろう。私が誰よりも強く、深く、言葉では言い表せないほどにお前を愛していると。


 私は己の夢を味わいながら朝食の用意を整えた。もちろんホットミルクには蜂蜜をたっぷりと入れて。毎日リゾットでは飽きてしまうだろうから今朝はパン粥にした。アヤの元へと朝食を持って行き部屋をノックするが返事は無かった。不思議に思い部屋に入ってゆくと、わずかな時間の間に彼女は寝てしまっていた。私はベッドの傍らのワゴンにそっとお盆を置くと、ベッドの縁に腰掛け彼女の寝顔を見つめた。昨日とはやはり違い寝汗もかいておらず顔色もいい。このままなら全快する日もそう遠くは無いだろう。
「…ん…」
 アヤがゆっくりと目を開けた。私が横にいることを認識するまでにしばらく時間がかかったらしく、彼女はしばらく固まった後、跳ね起きた。
「ぃ、いつからいたの!?」
「しばらく前からだ」
 私が笑いながら彼女にそう言うと、彼女は見る間に顔を赤くした。
「…起こしてくれてもいいのに…」
 アヤが不満顔で私に言う。
「お前があまりにも気持ちよさそうに寝ているのでね、声をかけづらかったのだよ。ここ数日は悪夢を見ていたようだし」
「…悪夢なんて見た覚えが無いんだけど…」
 なんだって? 不思議そうな顔のアヤの前で、私は内心取り乱した。
「ずっと熱があったせいかここ数日あんまり記憶が無いの」
 何てことだ…。覚えていないだろうとは思っていたがここまでとは…。ひょっとしてあの告白も彼女の本心ではないのでは? 嫌な想像が頭の中を駆け巡る。
「それに悪夢だったなら思い出さないほうが精神衛生上いいでしょ?」
 にっこりと笑うアヤに、私の心は重くなった。あれが彼女の本心ではなくただの夢だったなら…。私に対して甘い痛みを覚えていないのなら…。ひょっとして私は一人空回りをしているのではないか? 私は湧き上がる不安を抑えるように、勇気を出してアヤに問うた。
「…アヤ、私の事が好きか…?」
 いきなりそんなことを聞く私をアヤは不思議に思ったのだろう。何か言いたそうな彼女を制して、私はまた同じ問いを投げかけた。
「私が、好きか…?」
 アヤは少し悩むそぶりを見せて(!)私の問いに答えた。
「うん、好き」
 その答えを聞いた瞬間、私は天にでも昇るような心持だった。やはり独りよがりではなかったのだ! だが、答えにはまだ続きがあった。
「ご飯はおいしいし、歌は教えてくれるし…。それにここに置いてくれる。嫌いになれるわけないよ」
 それは、要するに…異性としての『好き』ではないのではないか…? あくまでその『好き』は私の人となりに過ぎなくは無いか…? ああ、彼女の『好き』は異性愛ではなく餌をやる人間に懐く子犬のような好意なのだ…。私はがっくりと肩を落とした。胸の中の猛りが急速に萎んでいった。
「…食事が冷めてしまうから早く食べなさい」
 私はそれだけの言葉をやっと搾り出すと、よろよろと部屋を後にした。自室へ戻り椅子へとへたり込み溜息をつく。一度疑い始めるとキリがなく、私の心は疑心暗鬼の沼に沈んでいった。


 昼になり、私はアヤの元へと食事を運んだ。顔をあわせるのは少しつらかったが致し方ない。ドアをノックして声をかけると眠そうな声で返事が返ってきた。今しがたまで寝ていたのだろう。猫は体調を崩すと睡眠と食事以外は何もしないというが、人間も同じようだ。
「起こしてしまったかね?」
「ん…」
 アヤが眠そうに頷いた。
「それは悪いことをした。だがデザートはりんごのコンポートだからそれを食べたらまた眠るがいい」
 りんごのコンポートという言葉を聴き、アヤの目が輝く。
「ファントムの作るコンポート、大好き」
 甘党のアヤにとって、りんごのコンポートは好物の一つだ。
「ちゃんとパン粥も食べなくてはいけないよ」
 私はアヤが食事に手をつけるのを見届けてから、朝の食器を片し始めた。いつもの量より少なめに盛っておいた朝食は、全てなくなっていた。食欲も順調に回復してきているようだ。
「朝と比べて体調はどうだね?」
 アヤはスプーンを口へと運ぶ手を止め、私を見た。
「ちょっと頭がぼーっとしてすごく暑い。でも明日には多分動き回れると思う」
 アヤがまだ熱に潤んだ瞳で私を見つめる。彼女の仕種の一つ一つが私の心に棘となって突き刺さってゆく。胸をかきむしりたくなるような苦しさを、私が抱いていると彼女は知っているのだろうか…?
「コンポート、コンポート」
 彼女が歌うような口調で皿に手を伸ばした。フォークを刺し一切れ口に運ぶ。口に入りきらなかった果実から唇を伝い蜜が滴り落ちた。
「ほら、零してる」
 私はさりげなく彼女の顎を伝う蜜を指で拭い取るとそれを舐め取った。口に甘さが広がってゆく。コンポートの最後の一切れが彼女の口に収まり、彼女は満足げにフォークを置いた。
「んー、幸せ」
 心底幸せそうにアヤが言った。このような小さなことで幸せだと言ってくれるアヤが愛しかった。目の前の少女をもっと幸せにしたい! 私の中でそんな思いが広がってゆく。そして幸せそうに笑う彼女の横に居るのは私でありたいと切に思う。
「残りのコンポートは夕食の時にでも持って来よう。今は眠るがいい」
 私がそう言うとアヤは頷き、ベッドに横になったかと思うとすぐに眠ってしまった。よほど眠かったのだろう。彼女の髪の一房を手にとり弄ぶ。さらさらと指から流れ落ちてゆくその感触を一時味わい、私は部屋を出た。


 早めの夕食を部屋に持ってゆく。食欲は問題ないようだ。コンポートまで全部平らげて彼女は再び眠りについた。
 アヤの体が治ったら上に連れて行ってオペラでも見せようか…。彼女のことだ、きっと喜ぶに違いない。着飾った彼女が私の横でオペラを眺めるのを想像すると、私はこの上なく幸せな気分になるのだった。この私が人並みにデートをすることができるのは、このオペラ座の中だけなのだから…。いつまでも地下に彼女を繋ぎ止めておけるとは思えなかった。
「せめて、それぐらいは人並みに…」
 私はそのささやかな願いをそっと口にした。