5月である。アヤが私の元へとやってきてからもう7ヶ月近くになる。早いものだ。地上は新緑の季節でさぞかし初夏の日差しが気持ちいいことだろう。私と違い闇に生きることは無いアヤをこのまま地下の鳥籠に留めて置く事はどうにもかわいそうで、私は勇気を出してアヤを外へと連れ出すことに決めた。ジュールに連絡を取り人里はなれた家を五日間だけ借り受けることにした。私の家よりもずっと手狭だが、五日間なら不便はあるまい。周りは森に囲まれ湖が近くにあるという。そのような場所でアヤと過ごすのは私の夢でもあった。
 アヤになんと言って切り出そうか。そのときのアヤの反応を想像すると、私はいっそう楽しくなるのだった。出発前日の夕食時、私はやっとアヤに切り出した。
「アヤ、明日から旅に出るから五日分の衣類をトランクに詰めておきなさい」
 そのときのアヤの顔! 何を言っているのか解らないといった顔から徐々に驚きの表情になり、しまいには満面の笑みになった。
「…ほんとに?」
 アヤが信じられないといった様子で私に聞く。その想像通りの反応が可愛らしくて、私はつい笑みを零した。
「本当だとも。明日から五日間森の中の家で暮らすのだよ。今は新緑の季節だし近くには小さい湖もある。人里はなれた山の中だからお前がどれだけはしゃごうとも苦情を言われる心配も無い」
「森を自由に散歩してもいいの?」
「もちろん。森も湖も好きなだけ見て回るといい」
「ありがとう! ファントム大好き!」
 ああ…アヤに好きだといわれるのがこれほど気持ちのいい事とは…。心から嬉しそうに笑うアヤを見て、提案をして本当によかったと私は思った。これでアヤに好きだといわれるならば安いものだ。
「ただし明日の朝は早いぞ。午前にはここを出て馬車で向かうが道のりが遠いのだ。明日は向こうに着くころには夕餉時になるだろう」
「わかった。寝る前に荷物詰めちゃうね」
 アヤはそう言うとまた食事に戻り、食べ終わるとすぐに部屋へと戻っていった。その日、アヤの部屋からは遅くまで明かりが漏れていた。きっと荷物を詰めるのに苦心しているのだろう。明日の朝寝坊しなければよいが…。


 朝、私はいつもより早くベッドを抜け出し、簡単にではあるが五日間家を空けるだけの片づけをした。昨日の夕食までに腐りやすいものを全部使ってしまったので、今朝の朝食はパンとチーズと紅茶というえらく簡単なものになった。アヤはやはりぎりぎりまで寝ており、いつものように辛そうに朝食を食べた。その後アヤが身支度をしている間にパンの残りでサンドウィッチを作る。これが今日の昼食だ。
 10時。私たちはトランクを手に地上へと出た。日光を浴びるのは久しぶりだった。秘密の玄関の前でジュールが待っていた。私たちは彼がトランクを積むのを手伝い、馬車に乗り込んだ。街から遠ざかるにつれ風景が建物から畑へと変わってゆく。アヤはずっと面白そうに外を眺めていた。  昼になり私たちは馬車を止め少し休憩を取ることにした。木陰に馬車を止め昼食を取る。ずっと馬車にのっていたアヤが疲れを吹き飛ばすように伸びをした。
「たまには外で食べるのもいいね。ご飯がすごくおいしい気がする」
 アヤが私に微笑みかける。やはり彼女には無理をさせているのだろうか…? 初夏の日差しはなかなか暑く、私はそこで耐え切れずにマントと帽子とジャケットを脱いだ。ジュールは気を利かせて馬車の向こうで何かを食べている。きっと奥方手作りの弁当だろう。初夏の日差しも美しい新緑も全て私たちのもののような気がした。
 そこでしばし休憩を取った後、私たちはまた馬車に乗り込んだ。地図によればここからがまた遠いのだ…。私の向かいに座っていたアヤが、どうにも眠そうな顔になってきた。やはり食後のけだるさは眠気を誘うのだろう。私はこのすばらしい日に、ほんの少しだけ勇気を出して言ってみた。
「アヤ、眠いのだろう? 私にもたれかかるといい。横に来なさい」
 するとアヤは頷くではないか! だがアヤはあまりにも眠そうなので、私が彼女の横に移動することにした。
「ほら、もたれた方が眠りやすいだろう」
 私はアヤの身体を自分に傾けた。アヤはそのまま動かなくなり…ぜんまいの切れたオモチャのようにすぐに眠ってしまった。
 しばらく私の耳には馬車が道を走る音ではなくアヤの寝息しか聞こえなかった。布一枚越しにまで近づいた彼女の頬の感触がする。私の眼前には彼女の睫が、頬が、唇が…。こう改めて見ると、彼女の睫はやはり長い。顔は白くその肌の肌理は細かい。そのくせ頬だけはいつも薔薇色で…。甘い果実を思わせるその柔らかそうな唇は絶えず私に対して話しかけ、歌を紡ぐ。この私の思い人と過ごすこれからの五日間を思うと、私の期待は嫌が応にも膨らんだ。もちろん彼女と接する時間が増えることに対しての一抹の不安も抱えて…。
 どれほどの時間そうしていただろうか。馬車は走りを止めず窓から見える風景は畑を過ぎて遠くに森が見える。日は傾きかけていた。アヤが目覚める。反応の鈍い彼女の寝起きは、何度見ても可愛らしい。
「ほら、髪が乱れている」
 私は笑いながら寝乱れた彼女の髪を軽く引っ張った。
「ごめんなさい、重かったでしょ?」
 アヤはようやく目が覚め始めたようだ。私がアヤを重いなどと思うわけが無いのに!
「いや、どうということは無い。それよりも森が見えてきただろう。あの奥に私たちの家があるのだよ」
 私たちの家、とは随分素敵な響きだった。本当にこのままずっとアヤと暮らすことができたならどんなに幸せだろうか。小さな家に二人だけで、毎朝朝日を浴びて一日を始めるのだ。庭には薔薇を植えて犬を飼おう。そして子供を作って笑いの絶えない家庭にしよう…。だが今の私には到底無理な話であった。アヤが私を好きなのかどうかも解らなければ、この先どうなるかも解らない。明るい家で暮らすのが叶わないのならば、せめて今のままでアヤと二人暮らしていければ私には満足だった。


 馬車が森に入ってしばらくしただろうか。ようやく私たちの家が見えてきた。少し古めかしくはあるが白い壁の小さな家。森の緑の中にぽっかりと浮き出たような家は、まさに私の思い描いていた通りだった。
 馬車が家の前の小道で止まる。家の敷地は簡単に木の柵で囲われ、柵には蔦が巻きつきかけていた。ジュールが私達のトランクを家に運びいれ、大まかな家の説明だけをしてまた戻っていった。台所には五日分の食料が置かれ、裏庭には薪が積んであった。今回のことでジュールには大変手間をかけた。この分のチップは弾んでおかねば。
 一階は水周りとダイニングとリビングで、二階が寝室になっている。リビングには古ぼけたピアノがあり、まるで私たちを出迎えているかのようだった。私たちは寝室へとトランクを持って上がった。隣り合った二つの部屋が私とアヤの部屋だった。壁一枚隔てた横にアヤが寝泊りするのかと思うと、私は少し興奮した。狭い家の利点はまさにこうゆう事だ。アヤの部屋にトランクを運び入れ窓を開ける。さわやかな風が緑の匂いを伴って部屋へと吹き込んできた。
「んー、いい風!」
 アヤが身を乗り出すようにして窓の外を見た。
「わぁ、おっきい木!」
 窓の外には大きなどんぐりの木が聳え立っていた。猫ならば窓の縁から飛び移れるだろう。私たちは次に私の部屋を開けた。
「ファントムの部屋の方が少しおっきいんだね」
 アヤの言うとおり、私の部屋はアヤの部屋よりも少し大きかった。そして壁際には簡単な階段が備え付けられていた。
「これって屋根裏部屋?」
 アヤが階段の上を見上げながら言う。私が見てみると、確かに階段の先の天上には扉があった。私はその扉を開けてみた。そこには想像の通り屋根裏部屋が広がっていた。物が雑多に置かれ、屋根にそって斜めに作られている窓の下には古ぼけたソファがあった。
「屋根裏部屋ってわたし初めて!」
 アヤが目を輝かせる。彼女はガラクタの山を面白そうに見つめていた。
「さあ、もうこれぐらいでいいだろう。今日は早めの夕食にして早く寝よう。長い旅路で疲れているからね。まだ時間はいくらでもあるのだからここを見るのは今度にしなさい」
 私はそうアヤをせかしキッチンへと向かった。ワゴンの上には丁寧にもどこに何が置いてあるか記されたジュールのメモがあった。
 二人の夕食はいつも以上にすばらしいものだった。今夜の夕食は手軽にパンとチーズとハムにした。さすがの私でもあの旅路の後に手の込んだ料理を作るほどの気力は残っていなかった。だがアヤはいつものようによく笑い、よく話す。窓の外に何かが見えるだけでこうも雰囲気が違うのだろうか。


 食後私たちはこの辺りの地図を見ながら何をしようか、どこに行こうかと遅くまで話に花を咲かせた。1キロほどの距離のところに廃村があるらしいとか湖には何が居るのだとか今森では何の花が咲いているだとか私たちの話題は尽きなかった。
「アヤ、今日は長い旅路で疲れただろう。何があるかは明日からじっくりと探索するがいい。今日はここまでにしてそろそろ寝ようじゃないか」
 話に一区切りが着いたところで、私はアヤに提案した。アヤもそろそろ眠かったのだろう。私に素直に従った。リビングの蝋燭を二つのランタンに移し、吹き消した。私たちはランタンを持って二階へと上がった。階段から向かって手前がアヤの部屋で、私が奥の部屋となっている。左右の扉の前に立ち、そっとお休みのキスをすると少々名残惜しくはあったが私は部屋に入った。
 服を脱ぎウィッグと仮面を枕元においてランタンの蝋燭を吹き消した。明日からはきっとすばらしい毎日が始まるだろう…。