誰かがドアをノックしているのが聞こえる。夢なのか現なのか判別ができない。私ではないのならアヤか…?
「ファントム、入るよ」
 入る!? その一言を聞いて私は急いで枕元においてあったウィッグと仮面をつけた。だが、まてよ? このような時間にアヤが起きているはずは無い。これはきっといつもの幸せな夢なのだ…。私の意識はまたまどろみの中に引き込まれていった。
「おーきーてー」
 アヤが私を揺さぶる。私がそっと見てみると、アヤは私のところにやって来たそのままの恰好をしているではないか。太ももの中ほどまでしか丈の無いスカートは正直少し嬉しい。今日の夢はとてもいい…。
「ファントムってばぁ」
 アヤが私を揺り起こそうとする。いくら愛しているとはいえこれは少し鬱陶しい。私はアヤの細い手首を掴むと、そのまま引き倒して抱き寄せた。アヤは短い悲鳴を上げ私の腕の中に倒れこんだ。夢とはいえ私の腕の中にアヤが居る。なんと素晴らしいのだろうか。私の右腕は彼女の肩を抱き、左手は太ももに…。ああ、なんと滑らかな肌なのだろう! その吸い付くような手触りを楽しみたくて左手を動かすと、彼女は小さく悲鳴を上げて身体を強張らせた。その可愛らしいこと! まるで甘い砂糖菓子のようだ。そしてその顔は私の眼前に…。彼女の薔薇色でぽってりとした唇が、まるで私を誘っているように見える。私はその甘い夢を堪能するべく、その唇に深く口づけた。


 小気味のよい音が響き、脳天にまで抜けるような痛みが走る。私はその頬の痛みに跳ね起きた。
「アヤ!?」
 夢ではなったのか!? アヤは夢と同じ服装で同じように私の横にいた。私は一瞬にして血の気が引いた。私はなんということをしでかしてしまったのか!
「す…すまん! 寝惚けていて…」
 私の口から咄嗟に出たのは真実ではあるが余りに嘘臭い言い訳だった。
「…舌まで入れた…」
 アヤが私を詰る。私はどうしようもなくなってただ謝るばかりだった。
「…初めてだったのに…」
 アヤが赤い顔をして私を睨む。この間お前の声が出なくなったときに何度かしてると言おうとも思ったが、きっと熱で記憶が飛んでいるのだろう。私はわざわざ墓穴を掘るような事もせず、そのままにしておくことにした。
「ばかぁ!」
「うぉっ!?」
 アヤが私を押し倒した。そのまま私の胸を軽く殴り続ける。
「…責任取ってよね」
 アヤの思いがけない一言に私の胸は高鳴った。それはやはり…?
「ごめんなさいは?」
「…ごめんなさい」
「…。…以後、二度としないように。あと…早く服着てよ…」
 アヤはそれだけ言うと私の上から退いた。私はすっかり眠気が飛んでしまった頭を軽く振り、上体を起こした。寝惚けていてもウィッグと仮面をつけることを忘れなかった自分を褒めてやりたかった。それにもう少し腰をアヤに近づけていたら、危うく私の欲望がアヤに露見するところであった。寝起きなのだから仕方が無いとはいえ、彼女にその言い訳が通用するとは思えない。今思い返しても冷や汗がでる。
「あー…それで何の用なのかね?」
 こんな朝早くにアヤが準備を済ませて私より早く起きてくるなど只事ではない。
「…いい天気だから早く起きて外に行こうと思って」
 私の部屋はカーテンを閉め切っており薄暗かったが、確かに外からは小鳥のさえずりが聞こえてくる。
「こんな朝早くにかね?」
「もちろん! あと四日しかないんだから楽しまなきゃ。それに…一人で行ったらファントム怒るでしょう?」
 確かにその通りだ。アヤが一人で家を抜け出したら私はきっと怒るに違いない。アヤに説教をする自分を容易に思い浮かべることができ、私は苦笑した。
「わかったわかった。私は身支度をするから朝食の用意をしておいてくれ」


 私はそう言ってアヤを部屋から追い出した。手早くパンツとシャツを身につけベストを着る。今日は暑くなりそうだからこれぐらいでよかろう。
 部屋のカーテンを開けると眩しい日差しが差し込んでくる。私は部屋を出て階段を降り洗面所へと向かった。そっと鍵をかけ仮面をはずして顔を洗う。あまり自分の顔は見たくは無いが、髭をそるためには仕様が無い。石鹸を泡立て顔に塗り、剃刀を当てる。ひやりと冷たい感触が皮膚に触れる。よし、剃り残しは無いようだ。
「アヤに頬擦りをしたとき痛いといわれてはいかんからな…」
 万が一の可能性にもきちんと備えをしておかなければ。私は石鹸の残りを洗い流し、再び仮面をつけた。洗面所を出て食堂に向かうと、アヤの歌が聞こえてくる。私が食堂に入ると、アヤは窓からの光を浴びながらテーブルに皿を並べていた。ああ! 思い描いていた夢の通りの光景が今私の目の前に広がっているのだ! 今なら誰が見ても幸せな家庭だと思うに違いない。光射す白い壁の家で妻と暮らす…。それは私が長年切望し、叶わないと諦めかけていた夢でもあった。実際にはまだ妻ではないが、自分の愛しい人が明るい日差しの中で私のために食卓を用意してくれている。今の私にはそれだけで満足だった。
 赤と白のチェックのテーブルクロスが置かれた丸テーブルは椅子が二つ置かれ、その上には籠に入ったパンと皿、アヤが摘んできたのだろう、薄黄色の花が一輪挿しに刺さっていた。部屋には朝日が差し込みコーヒーの匂いが漂う。まさにそれは私の幸福な夢そのものだった。
「コーヒー淹れちゃうからファントムは座ってて。後はハムとチーズ切るだけだから」
 そう言われ私はおとなしく椅子に座った。アヤも随分手際がよくなったものだ。最初は随分と包丁を握る手付きを危なっかしく見ていたが、私が心配するほどアヤの料理は下手ではない。もちろん私と比べるべくも無いが、ちょっとした細工切り程度はできるようだ。
 お盆にコーヒーとハム、チーズ、それにジャムが乗せられて運ばれてきた。もっぱらジャムを好むのはアヤの方なのだが。お気に入りは苺ジャムのようだが、最近は蜂蜜も好きらしい。他愛も無い話をしながら朝食を取る。いつもしていることだが今日はそれ以上に何もかもが素晴らしい。日の光を浴びるなど何年ぶりのことだろうか。例え外出することがあっても、この顔を隠すために帽子と襟巻きで光を遮ってきた。そのようなことをしなくてもいいということが、何にも増して素晴らしかった。


 食器を簡単に片付け、パンにジャムを塗っただけの簡単なサンドウィッチを作って私たちは散歩に出かけた。最初に湖へと向かう。道のりは思ったより荒れていて私はアヤに大丈夫かと何度も問うた。
「アヤ、本当に湖に行ってよいのか? まだまだ道のりは遠いぞ?」
 同じ問いを何度繰り返しただろう。最初は大丈夫、とだけ言ってた彼女もついに語気を強くした。
「何度も同じこと聞かないの。それに動きやすいようにこの服にしたんだから。コルセットだって締めてないんだから大丈夫!」
 ああ、だからその恰好だったのか…。確かに山道を歩くのならば私の買ってやったものよりも、アヤが日本から着てきた短いスカートの方が歩きやすいに違いない。いざとなればアヤを負ぶっていく事も考えてはいたが、その心配もなさそうだ。…少し残念ではあるが。
 30分ほども歩いただろうか。私たちの目の前から森が無くなり、視界が開けた先に湖が見えてきた。深い青と緑を湛えたその湖畔は、太陽を反射して金色に波打っていた。湖といっても一時間も歩けばその周りを回れてしまう小さなものだが、アヤを喜ばせるにはそれで十分だった。
「…素敵…!」
 アヤが小さく叫んで走り出した。歩いているのがもどかしくなったのだろう。湖畔の砂浜までアヤは一気に駆けて行き、私を呼んだ。はやく、と彼女の声が聞こえる。私はわざとゆっくり歩き、太陽の下で微笑む彼女をじっと見ていた。健康的な象牙色の肌に黒い髪。肩甲骨の上辺りまで伸びた髪は、湖からの風にさらさらと靡いていた。私の元に来たころよりも随分と伸びた髪を掻き揚げ、私に笑顔を向けるアヤ。こんな幸せな風景を見ることができるとは、一年前には考えもつかなかった。
「どうしたの?」
 ただ微笑むだけの私にアヤが聞く。
「いや、どうもお前はいつ見ても子供のようだと思ってね」
 本当のことなど言えるわけも無く、私は小さな嘘をついた。
「あ、ひどい。わたしだってもうとっくに18になってるんだからね!」
 …なんだって? 可愛らしくむくれる彼女に、私は愕然とした。
「…おまえは17ではなかったのか?」
 そうだ。確か10月に私が聞いたとき、アヤは確かに17だと答えた。
「とっくに誕生日がきてるの! 一月生まれだからもう4ヶ月も前に18になってるんだから」
 迂闊だった…。私としたことが彼女の誕生日を祝ってやることもしなかったとは! アヤも呆れているに違いない…。
「何故それを言わぬのだ?言ってくれれば祝ったものを」
 私がそう言うとアヤは微笑んだ。
「何言ってるの。この年なんだからもう祝ってもらっても嬉しくないよ」
 嘘だ。私は直感した。彼女は私に遠慮しているだけで本当は祝ってもらいたかったに違いない。彼女より年上のコーラスガール達だってパトロンに祝ってもらっただの言って騒いでいる。彼女たちですらそうなのだからアヤだってきっと本心では私に何かしてもらいたかっただろうに。一人で誕生日を祝ったアヤを思うと、私は少し悲しくなった。
「今からでも遅くは無い。今日の夕食はいいものを作ろう。それに何でもいいから欲しいものがあったら言いなさい。私からのプレゼントだ」
 アヤは少し困った顔をして私に言った。
「わたしは、何もいらないから」
「それでは私の気持ちが治まらぬ。半年以上も一緒に暮らして誕生日もわかってやれなかったのだ。せめてプレゼントぐらいは用意させて欲しい」
「じゃあ今回の旅行がプレゼントって事にしておいて。わたしにはそれで十分すぎるぐらいだから」
 私がそれ以上何かを言うのを制して、アヤは靴を脱いで湖に足を入れた。冷たい、と笑う彼女がとても愛しかった。この笑顔を守るために私に何ができるのだろう。
「うちからボートを持ってくればよかった! そうしたら湖の真ん中まで行けたのに。それか今が夏だったら泳げたのに」
 アヤが残念そうに言う。確かにボートがあれば澄んだ湖の水面から水中を眺めることができただろう。水上をたゆたうにはちょうどいい季節だ。無論泳ぐのにはまだ早すぎる。
 アヤが上着を脱ぎ、ブラウスの袖もまくって湖に手を入れる。彼女が水底から取り上げたのは、小さな石だった。太陽にかざすと石はきらきらと輝いた。水晶の類だろう。
「いいもの拾っちゃった」
 アヤが心底嬉しそうに私に石を見せに来た。胡桃よりふた周りほど小さい大きさの石は、アヤの掌の上で光を反射してきらめいていた。黄水晶のクズ石だろう。店で売れるような代物ではないが、金色に輝くそれは飴細工のようで美しかった。アヤは上着のポケットに大事そうに石をしまい、また湖の中へ入っていった。
 私は飽くことなくアヤを眺めていた。膝の辺りまで水に入り面白そうに湖を探索し、時折私の許にやってきては湖畔に咲いている花の名前を聞いたりする。彼女の白く細い腕には私の贈った腕輪が填まっている。どうやらアヤは腕輪を本当に大切にしてくれているようで、肌身離さず身につけてくれている。彼女の左腕を見るたびに、贈ってよかったと私は思うのだった。


 どれほどの時間そうしていたのだろう。私が懐中時計を見ると、正午をとっくに過ぎていた。作曲中も時間が経つのは早いと感じるが、アヤと過ごす時間はそれよりも早く過ぎていくように思う。
「体が冷えてしまうから、そろそろ上がりなさい。休憩がてら昼食にしよう」
 私がアヤを呼ぶと素直にアヤは湖から上がってきた。湖畔の柔らかな草の上に腰を下ろし、私たちは昼食にした。バスケットからサンドウィッチを取り出し二人で食べる。正直なところ、ジャムを塗っただけのサンドウィッチは本当に美味しいのだろうか? アヤはうまそうに食べるが、私にはとてもそうは思えない。ただ甘いだけのような気がしてならないのだが…。
 昼食を食べ終わると、アヤはそのまま寝転んだ。短いスカートから覗く生足は、やはり目のやり場に困る。陶磁器のように白く細い小さな足。だが清国の纏足はこれよりも小さいと言う。不思議なことをする国もあったものだ。
「草の匂いがする」
 アヤは私と視線を合わせ、そう言って笑った。初夏の風が私の頬を撫ぜてゆく。こんな平穏な気持ちを抱くことができたのは生まれて初めてかもしれない。
「おなかいっぱいだし風は気持ちいいし、このまま眠っちゃいそう」
 確かにこんな日は日の光を浴びて眠ったらどんなに気持ちがいいだろうか。だが、アヤとせっかく外で過ごせるのにただ眠ってしまうのではもったいないような気がした。
「なら眠気覚ましに湖の周りを回ってみようか。また違うものが見えるかもしれない」
 私がそうアヤを誘うと、アヤは嬉しそうに頷いて靴を履いた。
 バスケットを持った私の横をアヤが歩く。時々湖を覗いて回りながらしきりに草花の名前を私に尋ねてくる。木の幹を駆け上っていくリスがいたと言っては笑い、この森の木の何本かはリスが木の実を埋めたのを忘れて芽吹いたのが大きくなったのだと冗談を飛ばしあう。時には立ち止まって湖の中で金色に光る魚を見、森の片隅に咲いている花を愛でる。あまりにも湖に身を乗り出しすぎて、落ちそうになったアヤを必死に私が抱きとめたこともあった。


 随分と道草を喰いながら歩いたものだ。一時間ほどで回れるはずの湖を、二時間以上もかかって歩いてしまった。いつの間にか日は傾き始め、雲行きも怪しくなっている。
「アヤ、一雨来そうだから早く帰った方がいい」
 元の場所から4分の3ほど来た所で私はアヤに言った。だが、私たちは気づくのが遅すぎた。元の位置まで戻ってきた辺りでやはり降り始めてしまったのだ。ぽつりぽつりと降り出してから、大粒の本降りになるまでそう長い時間はかからなかった。まさかこんなことになるとは思っていなかった私たちは、濡れ鼠で帰路を急いだ。アヤは上着を被っていたがだんだん意味を成さなくなっていたし、私もラフな恰好であったために肌に張り付いてくるシャツをどうすることもできなかった。
 雨脚は強さを増し、雷鳴が轟く。空気を引き裂くような音を立てて、どこかに雷が落ちた。
「―――っ!」
 アヤが小さく悲鳴を上げた。私が慌てて振り返ってみると、彼女は頭を抱えて怯えていた。
「…どうした」
「…だめなの…。雷、苦手で…」
 稲光がするたびにアヤの目に怯えの色が走る。このままどこかに避難できればいいがそのような場所はどこにも無い。
「致し方ない…」
 私はアヤの前にしゃがんだ。
「私に負ぶさるがいい。早く帰らなければ風邪をひく」
 アヤはしばらく躊躇った後、私の背に身体を預けた。雨に打たれて冷え始めた身体に彼女の体温が心地いい。上着は腰に縛り付けているようで、濡れた布越しに彼女の体温を感じることができる。雷鳴が轟くたびにアヤは悲鳴を上げ私の首に抱きついてくる。首筋にかかる彼女の吐息と押し付けられた胸のおかげで、寒さなどとうの昔に吹き飛んでいた。だが首を絞めるのは止めていただきたい。


 15分ほどそうしていただろうか。私達の家がやっと見えてきた。玄関でアヤを下ろし鍵を開ける。家の扉を閉め、私たちは同時に息をついた。
「大丈夫だったか?」
「室内にいればまだ怖くないから…。ありがとう、重かったでしょ?」
 実際腕で抱えるよりも負ぶったほうがはるかに重さというものは感じない。どうせ40キロちょっとぐらいのアヤを負ぶって重いと思うわけが無かった。
「いらぬ心配をするな。それよりタオルを持って来よう。しばらくそこで待っていなさい」
 私はアヤを玄関の石畳に残し、バスルームまでタオルを取りに行った。バスタオルを3枚ほど掴み、また玄関まで引き返す。アヤは玄関で上着から水を絞っていた。
「これ着てるときに限って雨に降られてびしょ濡れになるの。何か憑いてるとしか思えないわ」
 言われて見れば確かに最初に出会ったときもその服装でびしょ濡れだった。だが今改めて見ると、肌に張り付いたブラウスが何とも艶かしい。胸を覆っているものはなんなのだろうと思いながら私はアヤにタオルを渡した。
「ある程度水気を取ったら先に湯を使うといい。早く身体を温めないと風邪をひく」
「それはファントムだって一緒でしょ。わたしを負ぶって疲れてるんだから先に入って」
 私は溜息をつき、アヤを抱きかかえた。
「何するの!?」
「いいから先に入れ」
 抵抗するアヤをそのままバスルームへと連行し、バスタブへ放り込む。
「先に入るまでバスルームから一歩も外へは出さんぞ」
 私はそう言ってバスルームから出た。
「ちょっと! …もう…。解ったから出てって! 脱げないから!」
 その言葉をきき、ついにアヤに勝ったのだと思いながら私は脱衣所を出た。程なくして水音が上がったのを聞き届け、私は部屋へと戻った。バスタオルで水気をふき取る。すると階段を上ってくる足音が聞こえた。アヤが風呂から上がったのだろう。私はドアを開け声をかけた。
「今日は随分と早い――…」
 私は固まった。バスタオルを巻いただけの恰好で立っているアヤを、私は呆然と見ていた。
「あ、上がったよ。わたしは着替えるから入ってきたら?」
「あー…いや…その恰好は…」
「仕方ないでしょ。着替えの用意もできないままファントムが無理矢理お風呂場に連れてくんだから。湯冷めしちゃうから着替えてくるね」
 アヤはそう言って部屋に入って行き、私は独り廊下に取り残された。楽屋のコーラスガールたちも随分あられもない恰好をしていると思ったが、あれはあくまで同性同士の場だからなのだろう。では何故アヤは私に肌を見られても平気なのだ? 私を男性として見ていないということか? 痛む頭を抱えて、私はバスルームへと歩いていった。


 考え事をして長湯をしすぎたせいでのぼせた頭をタオルで擦る。結局何故アヤが肌を見られても平気なのかという答えは出なかった。できる限り髪から水気をふき取り、ウィッグと仮面をつける。夕食の支度をするためにキッチンに向かうと、そこではすでにアヤが調理に取り掛かっていた。
「何をしている。今夜は私が作ると言った筈だ」
 何か言いたげなアヤを私は無理矢理キッチンから追い出した。アヤは少し文句をいい、リビングへと向かっていった。シチューを作るため野菜の皮をむいていると、リビングからピアノの音がした。たどたどしい『月光』の第一楽章は、間違え、つっかえ、ループして途中で終わった。インベンションは2〜3度止まりながらも何とか終わったので、私は少しほっとした。
「本当にピアノは苦手なのだな…」
 あれでは弾きたがらないのも無理はない。だが私に隠れて弾いているときはあるので嫌いというわけではないのだろう。私がシチューを作っている間、アヤはずっとピアノを弾いていた。時々知らない音階を用いた曲が私の耳に入る。あれはきっとアヤの故郷の音楽なのだろう。アヤの弾く曲や歌う曲を聞いていると彼女がモール系を好むのだということが解ってきた。この間ドゥアーとモールどちらが好きなのか聞いてみたら、やはりモールという答えが返ってきた。どうやら感情移入がしやすいらしい。一番苦手なのはドゥアーのイタリア歌曲だという。『あんな相手にメロメロで夜も昼も君がいないとやってこないみたいな曲はどうも歌いづらいの』と言っていた。気持ちはわからなくもない。
 鍋に全ての材料を入れて煮込む。このまま蓋をして1時間も置けば肉も柔らかくなるだろう。私は弱火にしてアヤのいるリビングへと向かった。
「月光は完結しそうかね?」
 私がそう声をかけるとアヤは一気に顔を赤くした。
「…聞いてたの?」
「こんな狭い家では聞くなという方が無理だ」
「どうしても思い出せなくて…。…よかったら弾いてくれると嬉しいんだけど」
 私はアヤに微笑んでピアノの前に座った。背後から覗き込んでくるアヤに微笑んで鍵盤に手を置く。軽く息を吸い込み、私は弾き始めた。右手は湖面を滑る小波のように5度の和音を、左手は水底で水草が揺れるような低音を。誰かが聞いていてくれるということはこんなにも嬉しいことだったのだろうか。第一楽章を弾き終わった私に、彼女から惜しみない拍手が贈られた。たった一人のための音楽会は素晴らしいものだった。その後もアヤのリクエストで何曲か演奏した。もちろんピアノだけに限らず歌もねだられた。


 ふと演奏の手を止め一息ついてみると、私の耳には窓を打つ雨音しか入ってこなかった。ひょっとしたらアヤが居なくなっているのではないかというどうしようもない恐怖感に駆られ、私はおそるおそるピアノに映った私の背後を見た。アヤは先ほどと同じように私の背後におり、私に優しげな視線を向けていた。私は心から安堵した。何事もなかったように席を立ち、懐中時計を見ると、鍋を火にかけてからちょうど一時間ほど経っていた。頃合だろう。私はアヤを促して食堂へ向かった。シチューは程よい感じに煮立っており、私は少し水を足して作り置きしておいたクリームソースを入れた。手伝おうとするアヤを手で制し鍋を軽くかき回すと火を消した。鍋から舞い上がる湯気に皿が少し曇る。私は皿にシチューを注いでテーブルへ運んだ。シチューの他はパンだけでその他には何もない夕食であったが、私が作ったということにアヤは嬉しそうだった。
「美味しい! ソースから作ったクリームシチュー食べるのなんて初めて!」
 ソースを作らずにできるクリームシチューがあったことに驚いた。130年後の世界はいろいろと便利になっているようだ。アヤは猫舌のようで随分と吹いて冷まさなければ食べることができないようだった。
「デザートにはりんごを剥こう。…誕生日祝いのはずなのにこれだけしかできなくてすまないな」
「気にしないで。ファントムが作ってくれた料理を食べてるだけで幸せだから」
 アヤは本当に美味そうに物を食べる。ついついそれが嬉しくてまた何かを作ってやろうと思わせる。チョコレートも何軒か店を替えて与えてみたが、やはり一番好きなのはリヨンの店のようだ。この間の話ではあるがチョコレートボンボンのウィスキーに酔い、ほんのりと頬を上気させたアヤは真に可愛らしかった。
 最後の一すくいまでパンできれいにふき取り、アヤはスプーンを置いた。
「美味しかったぁ…。…幸せ」
 アヤが満面の笑みを向ける。私は皿を片付けりんごを剥いた。何に邪魔されることのない二人だけの時間がゆったりと流れてゆく。時々聞こえる雷鳴にアヤが少し怯えることを除けば、本当に安らかな時間だった。


「さて、寝るのには少々早いがどうする? またピアノでも弾くかね?」
 皿の上のりんごがなくなったのを見計らって私は言った。
「ううん、今日は早起きしたし疲れたから早めに寝るね。ピアノも聴きたいけどこう雷が鳴ってちゃせっかくの演奏も台無しだし」
 アヤがそういったのを皮切りに、私たちは部屋に戻ることにした。灯りを消してランタンを持つ。窓を激しく打つ雨の向こうで時折稲光がした。扉の前に立ちお休みのキスをする。私の唇が彼女の頬に触れようとしたときだった。近くに雷が落ちた。
「――っ!」
 アヤが雷から逃れるように私の胸へと身を寄せた。髪の甘い匂いが鼻腔をくすぐる。子犬のように私の腕の中で怯えるアヤの頭を撫でる。
「何の心配もない。ここは屋内なのだから雷が原因で山火事にでもならない限り危険はない」
 私がそう言うとアヤがやっと顔を上げた。よほど怖いのだろう。涙目になっているアヤに私は苦笑した。
「このようなときはすぐに寝てしまうことだ。…それとも眠るまで傍にいて欲しいかね?」
 私としてはほんの冗談のつもりだった。だがアヤは頷くではないか! 私は思いがけない幸福に胸をときめかせながらアヤと部屋に入った。ベッドの横に椅子を持ってきてアヤの手を握る。それだけで安心したのだろう。昼間の疲れもありアヤはすぐに寝入ってしまった。私はアヤの布団を直すと、そっと部屋を出た。