昨日からの雨は今日になってもやむ気配を見せなかった。アヤもその気配を察知したらしく、昼近くまで起きては来なかった。
「今日はどこにも行けないね」
眠気覚ましのミルクティーをすすりながらアヤが溜息をついた。
「どこにも行けないのがそんなに残念なのか」
「やっぱりいつもと違うところに来たんだからいろいろ見て回りたいの。でも、雨は嫌いじゃないよ」
窓を打つ雫を見ながらアヤは微笑んだ。
「雨の日は時間がゆっくりになるから物事を考えるのに向いてるよね。それに雨が上がった後の空はきれいで好き」
「雨が上がった後に空が美しく見えるのは大気中の汚れを雨が吸い取って洗い流してくれるからだ」
「ファントムって何でも知ってるね」
マグカップを両手で持ったアヤが笑う。そんな仕種の一つ一つがとても可愛らしい。
「今日は何をしようか。昨日の音楽会の続きでもするかね?」
「うん。ファントムの音、もっと聴きたい」
「私もお前の歌が聞きたい」
アヤはスコーンを一つ手早く口に入れると、嬉しそうに席を立った。
ピアノの前に座り蓋を開ける。地下の私の部屋とは違い、白鍵が輝いて見える。
「こんな日にぴったりの曲をプレゼントしよう」
私は鍵盤を叩き始めた。弾いているのはショパンの前奏曲、第15番 変ニ長調 作品28の15。通称『雨だれ』だ。繊細な旋律が部屋に響く。まだショパンが死んで半世紀も経ってはいないが私はこの音楽家の紡いだ音は嫌いではない。
「左が窓に当たる雫の音みたい」
アヤが鑑賞後の感想を言う。
「これを雨だれと名づけたのはショパン本人ではないのだよ。昨日の月光もそうだ。月光はあの第一楽章を聞いた詩人が『まるで湖面に映る月の光のような曲だ』と言った事から月光と呼ばれるようになったのだ。まあ諸説はいろいろあるらしいが」
「そうなんだ」
「世間に浸透している名前なんてそのようなものだ。ベートーヴェンの交響曲だって本人が名前をつけたのは『英雄』と『田園』だけなのだよ」
「えっ、じゃあ『運命』は?」
「あれはベートーヴェン本人が第一楽章の冒頭を『運命はこう扉を叩くのだ!』と言った事に由来していると聞いたが」
アヤは私の講釈を面白そうに聞いている。
「アヤはベートーヴェンは好きなのか?」
「交響曲第九番は好き。コンサートホールに聞きに行った事もあるよ。ピアノは難しくて弾けないけど好きな曲は多いな。歌は知らない」
「歌曲も無いわけではないがね。有名どころでは『君を愛す』だろう。他にも『アデライーデ』や『無くした小銭への怒り』などがある」
「…ベートーヴェンでも小銭落として怒るんだね」
「世の中に妙な題名を冠した曲は以外に多いものだ」
「例えば?」
「シューベルトの『結婚式の焼肉』とかハイドンの交響曲『校長先生』や『火事』。ベートーヴェンは他にも変な題の曲が多い。『ファルスタッフ君、登場しろ』、『作品が出来上がった、金を調達しろ』、『これがその作品だ』、『お願いです、変ホ長調の音階を書いてください』」
「…すっごく世知辛い題名だね。わたしのなかで楽聖ベートーヴェンのイメージが粉々に砕けたよ」
アヤが心底微妙な顔をして言う。
「ベートーヴェンが世知辛いならモーツァルトは変態だな。『俺の尻を舐めろ』とか『俺の尻を舐めろ、綺麗にな』とかがある。まぁ彼は実際スカトロ趣味があったらしいが」
「すかとろ?」
…しまった。アヤはスカトロの意味を知らなかったのか! アヤは私の心配どおりスカトロの意味を尋ねてきた。
「スカトロってなに?」
私は言葉に詰まった。本当の意味など教えられるわけもない。だがアヤのまっすぐな視線はいつものように好奇心を溢れさせて私を見つめてくる。
「…うっ…それはだな…」
「…それは?」
「口にはできない危ない趣味だ。無論私にそんな趣味はない」
苦し紛れの説明だったがアヤはなんとか納得してくれたようだ。私はばつが悪いので話題を変えた。
「アヤ、何か歌ってくれないか」
「何を? あんまり暗譜してるのは無いんだけど…」
「ならイタリア歌曲でいい。それなら大丈夫だろう?」
アヤは笑顔で頷きピアノの横に立った。アヤが体勢を整えるのを待って私は弾き始めた。最初は『私の偶像である人の周りに』だ。アヤの好きなモールの曲だから準備運動に丁度いいだろう。秘めた恋心を語る歌詞が今の私の心情にぴたりと一致しているような気がした。
伴奏を弾きながらもアヤの顔を盗み見る。歌っているときのアヤは本当に嬉しそうにしているし、歌も最初のころよりも随分と上手くなっている。柔らかくハリのある高音は彼女にしか紡ぎ出せない響きを持っているし、技巧もついてきた。ただ問題があるとするならば曲想を出すのが苦手というところだろうか。ドイツリートはともかく、イタリア歌曲やオペラアリアなどは大抵恋愛がらみのものが多い。『色も恋も歌の肥やし』とはよく言ったもので、純真なままでは技巧だけあっても心の篭っていないものになりがちだ。アヤももう妙齢な訳だが、私と出会うよりも前に身を焦がすような恋は経験していないようだ。それがあれば彼女の歌は完璧になるのに、という芸術家としての思いと、彼女の心に他の男という染みがないのを喜ばしく思う一人の男としての思いが私の中でいつもぶつかり合う。できることなら彼女の歌に翼を与える相手が私であって欲しいものだ。
「高音がよく出ていたな。まあまあといったところか」
私の評価にアヤが微笑む。
「そろそろフランス歌曲はどうだね? もう歌ってもよいころよいだと思うのだが」
「でも歌詞読めない…。イタリア歌曲は簡単だしドイツ語も法則は簡単だけどフランス語はどうしても読めないの…」
確かにその二つの言語と比べたら読み書きは格段に難しい言語だろう。
「耳で覚えればいいではないか」
「…一度聞いただけで音階が解るようなあなたと一緒にしないで」
それは最もだ。それに歌詞というものは韻を踏んであるため、母国語でもない限り覚えるのは少し難しい。
「まあ無理はしなくていい。ドイツ物とイタリア物だけでも随分と曲数があるのだから」
私はそう言うとまた伴奏を弾き始めた。
5、6曲弾いた頃だろうか。私はふと窓打つ雨音が小さくなっているのに気づいて伴奏の手を止めた。
「どうやら明日には上がりそうだな」
窓の外を見ながら私が言うと、アヤは窓の元へ歩いていった。
「そうだね、随分小降りになってきてる。道のぬかるみを気にしないなら明日は遠出できるね」
アヤは出窓に手をかけて外を見つめている。雨天の柔らかな光が差し込む風景はまるで一枚の絵のようで、私はこの風景を切り取ってしまいたいと思っていた。いつか彼女がいいと言ってくれるなら、アヤをモデルに絵を描いて見たいものだ。
「そろそろお茶にしようか」
懐中時計は4時を指そうとしていた。鍵盤を拭き蓋を下ろす。アヤがついてくる気配を感じながら、私は食堂へ向かった。
アヤお気に入りのオレンジペコーを淹れ、スコーンとジャムを皿に盛る。朝私が焼いたスコーンはアヤのお気に召したようだ。スコーンに苺やベリーのジャムをつけ、オレンジペコーにはたっぷりのミルクを。やはり私には甘ったるくて食べられそうにもない。
「なんでこんなにしっとりふわふわに焼けるんだろ…」
苺ジャムを塗ったスコーンを齧りながらアヤが呟く。
「本当にファントムって何でもできるんだね」
まるで私が完璧な人間のようにアヤが言う。この醜い顔さえなければその通りに違いない。神が気まぐれで造形をやめたとしか思えないこの顔! 美しい顔であれば、とは言わない。せめて人並みであったなら何の心置きもなくアヤに愛を語ることができただろうに! 人間としてありえないほど引き攣れ、歪んだ顔…。私のたった一つの悩みであり、どうすることもできない大きな壁! 仮面の下の素顔をアヤに暴かれるのが私は一番怖かった。
「ねえファントム、一日目に見せてくれた地図をまた見せてくれない?」
アヤの言葉で私は我に返った。心の乱れを悟られないようにワゴンから地図を引っ張り出し、机の上に広げた。
「この家がここだから…。明日はどこに行こうか」
アヤがうきうきしながら地図を眺めるのを見て、私の心はほんの少し軽くなった。この幸せが続けばそれでいい。
「湖では散々な目にあった。湖とは真逆の方向に廃村があるようだ。行ってみればなかなか面白いかも知れぬ」
病か過疎かは判らないが朽ちかけた村を見るのも一興だ。
「ここからどれぐらいのところなの?」
「大体1キロちょっとだな。道もなんとか残っているようだしそんなに辛い道のりではないだろう」
「楽しみ! 廃墟になんて行った事が無いからなんだかどきどきする」
…正直アヤは変わり者だと思う。
その後私たちは夕食に昨晩の残りのシチューを温めた。デザートにりんごをつまみながらトランプで簡単な手品を見せるとアヤは事の外喜んでくれた。
「今のもう一回! 早すぎてよく見えない…」
「だからこれをこうすると…ほら、消えただろう?」
「何で…」
アヤにトリックを見破られない程度の速さで私はもう一度カードを消す手品をやって見せた。トリックを暴こうと躍起になっているアヤが子供のようで可愛らしい。
「あー、どう考えても解らない…。でもそれだけ手が大きければカードもいっぱい隠せるよね」
そう言ってアヤが私の手に自分の手を重ねてきた。
「やっぱり大きいよね。私より関節二つ以上違うもん。掌も大きいし指も長くて太いのに形が綺麗で羨ましいと言うか。男性の手って言うか音楽家の手って感じ」
アヤの小さな手が私の無骨な手の上に重ねられる。そう言う割にアヤの手も造形は美しい。白く長い指に細い手首。とても女性らしい手だと思う。指など少し捻れば折れてしまいそうだ。
「爪の形が綺麗でうらやましいな。私なんて丸爪だから子供っぽく見える…。楕円形で…どんぐりみたい」
今度は指を握りながら爪を見ている。私にとってアヤの爪先などほんの少しも気にしない程度のものなのに。
結局その手品のトリックは暴かれること無く、他に見せた何種類かの手品のトリックもアヤにはわからなかったようだった。もちろん簡単に解ってしまうようなトリックなど私が作るわけも無い。
いつの間にか夜が更けかけていたので、私は少々不満顔のアヤを促して寝室へと行った。扉の前でそっとおやすみのキスをする。
「明日は早く起きるのだぞ。昼前にはここを出たいからな」
「わかってる。さすがに明日は昼まで寝てるようなことはないよ」
そう言ってアヤは部屋へと入っていった。それを見送って私も部屋に入る。明日という日が待ち遠しいと思ったのは随分久しぶりのことだと感じながら私は床についた。