一昨日からの雨は夜中には上がったらしく、私が起きた頃にはもうすっかり青空が広がっていた。私がシチューを温めていると、アヤが下りてきた。
「ちゃんと起きれたようだな」
「もちろん。寝坊なんてするわけ無いでしょ! …まだ眠いけど」
「顔を洗っておいで。朝食はすぐできるから」
アヤは目を擦りながら洗面所へと向かった。その間に私はパンを切りりんごをむく。アヤが戻ってくる頃にはすっかり朝餉の用意ができていた。
「今日はきちんと履きやすい靴をはきなさい。そうでなくては足を痛めてしまうだろう」
「うーん…それはもっともなんだけど…。まだ乾いてないの」
「それでは仕方が無い。ゆっくり行くしかないだろう」
私たちは朝食を食べながら今日の打ち合わせをした。アヤの一番動きやすい恰好というのは日本から着てきた服装のようで、一昨日の雨がまだ乾いていないという。そうなるとコルセットを締めて丈の長いドレスを着、ヒールのある靴を履くことになる。これでは私が歩調をあわせるほかに手はあるまい。
「さあ、準備をしてくるがいい。私は昼食を詰めるから」
皿を片付けながらアヤに言う。女性の身支度とはともかく時間がかかるものなので早めにさせておいたほうがよい。アヤが部屋に戻った後、私は昼食の用意をした。アヤ用のジャムサンドと私のハムサンドを作る。パンを切って挟むだけなのでアヤの支度よりも早く終わる。
アヤが部屋に戻り三十分ほどした頃だろうか。私が自分の支度も昼食の支度も終えリビングのソファに座っていると、アヤがやっと下りてきた。いつぞや気に入っていると言っていた黒のベルベットのドレス姿だ。髪は珍しく上でまとめている。こうきちんとした恰好をしていると、私の知らない女性のように見えて何だか不思議な気分になった。
「どのくらいかかるの?」
「さてね。お前がどのくらいの速度で歩けるかによるだろう」
私たちは連れ立って家を出た。昨日の雨のおかげでぬかるみが随分とできてはいたが、雨に濡れた草花は意外と爽やかなものなのだと実感する。アヤはぬかるみにスカートの裾が触れないように随分苦心していたようだったが、それはそういうものなのだと言って聞かせた。
「コルセットだけで歩いた方がマシかも…」
アヤが呟く。そんなことをされては目のやり場がなくて堪ったものではない。
「もう…!」
ついにアヤはドレスの裾を持ち上げた。
「お、おい…!」
ボタン留めのブーツに、ストッキングを履いたふくらはぎが露になる。
「現代の洋服がいかに機能重視か実感できるわ。こんなかさばって歩きづらい服が流行ってたなんて信じられない」
そう言ってスカートをたくし上げたまま、アヤが歩いてゆく。アヤの足なんて見慣れているはずなのになんだか嫌にどきどきして、私は無言で後を付いていった。
「いい天気」
左手で日差しを遮りながら、アヤが笑う。こんな木漏れ日の下で笑う彼女を見るのは、次はいつになるのだろう…。
「明日で帰っちゃうなんてもったいないね」
「まだここに居たいかね?」
「もちろん!」
それは、私と居たいということだろうか? それともただ単に地下ではなく地上に居たいということだろうか。どちらにせよ、私には叶えられない望みである事は間違いなかった。
「あと、どのくらい?」
目をくりくりさせて、アヤが訊く。私は地図を出して道を確かめた。
「地図に寄ればあまり距離は無いはずだが」
「あ…あれかな」
アヤが指をさす先に、高い塔が見える。
「ああ、多分…。あれは教会だな。村で一番大きな建物が教会のはずだから」
「よし! 行こ?」
アヤが私の手を握り、走り出した。あまりの唐突さに私はただされるまま、つられて走り出した。森の木々が私達を避けていくように見える。唐突に森が開け、昔は人がいたのであろう村が見えた。
「本当に誰もいない…」
「当たり前だろう、廃村なのだから」
誰かいたとしたら私の姿が見咎められる。外に行っても誰にも遇いたくないがためにここに来たのだ。仮面を付けた私と東洋人の組み合わせなど目立つ事この上ないだろう。
「さみしいけど、きれい…」
村の建物は朽ち、蔦が這いまわり、昔道だったところも草が生い茂っている。昔は白かったのであろう漆喰の壁は、今はもう面影もない。
「どうして人がいなくなったんだろう」
「大方若者が街に行ってしまって過疎になったのだろうね」
「よかった、病気とかじゃなくて」
アヤが胸を撫で下ろす。
「…怖いのかね?」
「う…。…そんなわけないでしょ!」
そう私に噛み付いて、アヤは手を振りほどいた。…余計な事を言ってしまった。そして一人でずんずん中に入ってゆく。
「あまり離れると危ないぞ。本当に過疎で廃村になったのかも判らないのだし」
私がそう言うと、アヤの歩みが止まる。私は追いついて、今度は自分から手を握った。
「おいで、まずは教会を見よう」
アヤの手を引き、村で一番大きな建物に向かう。
「鍵とかかかってないのかな」
「…問題は無いようだ」
教会の扉は片方壊れ、用を成していなかった。埃っぽい教会の中は屋根の一部が抜け落ち、陽の光が差し込んでいる。昔は美しかったであろうステンドグラスも一部が欠け、床に散らばった破片が色とりどりに輝いていた。
「教会って初めて」
そうだ、アヤはカソリックでもエヴァンゲリストでもないのだ。私としては教会に行ったことがないというのも不思議な気がする。
「日本にはカソリックは布教されていないのかね?」
「ううん、でもやっぱり仏教の方が一般的。日本古来からの宗教は神道だけど。でも日本は宗教も自由な国だから…」
宗教闘争の歴史のあるヨーロッパでは考えられないような話だ。昔ほど教会の権力がなくなったとはいえ、今でも宗教の力は強い。
「でも昔…今の時代からちょっと前はキリスト教の弾圧があったけど、わたしがいた日本では本当に自由だった」
「どれぐらい?」
「うーん…どの宗教でもいいところは取り入れてる。子供が生まれたら神道だし、クリスマスはあるし、でもお葬式は仏教、みたいな?」
「それは、確かに…」
取り入れるというよりもごちゃ混ぜの気がしてならない。
「だから教会なんて結婚式ぐらいでしか普通は使わないかも…」
結婚、という響きにどきりとする。そうだ、私には縁の薄い場所であるがためにそんな事は考えもしなかった。
「赤い絨毯が敷いてあって、神父さんがいて…」
アヤが十字架の方へ歩いてゆく。
「ここで誓いの言葉を言うんだよね?」
ステンドグラスを通した鮮やかな光がアヤを包む。私は導かれるようにアヤの元へ歩いていった。
「なんだっけ…『病める時も、健やかなる時も』…」
「『死が二人を別つまで、生涯愛と誠実を尽くすことを誓いますか』」
その神聖な言葉が思わず口をついて出た。アヤがまっすぐな瞳で私を見上げる。このまま神の御前で誓ってしまえるのなら、私はなんだってするだろう…!
「白い服だったら、ちょっと雰囲気出たのかな」
そう言って、アヤが微笑んだ。それは、つまり、私の花嫁になる、という意味なのだろうか? 私はこの場所…神の御前で勇気を出してアヤに心の内を…、
「そうだ、ファントムって誕生日いつなの?」
………。何でいつもこう私は機会に恵まれないのか。
「…確か、六月だったかな…」
昔、たった一度だけ祝ってもらった誕生日の思い出…。それは確かに六月だった。
「日にちは?」
「さてね…もう忘れてしまったよ」
あれ以来人に祝ってもらう事などなく、この世に生れ落ちた事を呪っている私自身が祝う事もない。あの頃は母がもう一度私を身籠ってくれたなら、とすら思ったものだ…。
「…じゃあ、来月だね。どこかでお祝いしようね!」
ああ…。本当に何故、彼女は私ができないと思っていた事をすぐにやり遂げる事ができるのだろう。誰も私に向けることのなかった笑顔で、誰も知ろうとしなかった私の生れ落ちた日を祝うという。そう言ってくれるだけで私には十分だった。
「そんなこの年で誕生日と言うほどでも…」
「だめ。わたしのときはあれだけ言ったんだから。…それに、いいでしょ? それぐらいさせてくれても…」
アヤが少し拗ねたような口調で言う。
「…ありがとう」
私は十字架の下で、アヤの額にそっと口付けた。
「これ、弾けないのかな」
教会に備え付けられた質素なオルガンをアヤが指差す。埃が積もり何年も人の手が入っていないのがすぐ見て取れる。
「どれ…」
パイプオルガンをざっと見回してみる。昔は音を奏でたであろうオルガンのパイプは、人の手が入らなかった年月の間にもう音を奏でる事ができなくなっていた。
「無理のようだ」
「そっか…」
アヤが残念そうにパイプオルガンを眺める。
「なんだか寂しいね。昔は使われてたんだろうに…」
「人に見捨てられたら、朽ちていくのは早いものだ」
そう、誰も見向きもしない寂しさを私は知っている。そしてこの場所自体がもう誰からも忘れ去られた場所なのだ…。
「昔はここも人が居たんだよね」
「そうだね。教会を中心にして多くの人が生活を営んでいたのだろうね」
「じゃあこの教会は人がいた頃も、いなくなってからもずっと見てたんだね」
アヤはそう言って聖堂を見回した。ロマネスク様式の聖堂は、屋根の一部こそ無くなり随分古くなってはいたが、その威厳をまだ残していた。
「…そろそろ、出ようか」
私が促すと、アヤが従う。壊れた扉をくぐる時、アヤはちらりと後ろを振り返った。
「どこかで食事にしよう」
教会の前が広場になっている。石造りのベンチも風化が進み、石畳の広場にも随分と草が生えていた。
「この辺が一番きれいだと思うけど…」
教会を左手に見るそのベンチに座ると、在りし日の村の風景が見えてくるようだった。教会前の広場に人々は集い、いろいろな店が出、村の中心となっていたのだろう。だが今は私とアヤの二人しかおらず、口うるさく騒いでいるのも小鳥ぐらいのものだ。
「…静かだね」
ジャムサンドを一口齧ったところでアヤが呟いた。
「そうだな」
「いい天気だし、空気もおいしいのに何でこんなに寂しいんだろう。おかしいね、二人なのはいつものことなのにね」
少なくとも私といれば寂しくはないということだろうか。私はアヤに寂しい思いをさせているのが一番嫌なのだ。ただでさえ不便な生活を強いているのだから…。
「食べ終わったらもう少し見て回ろう。他にも何かあるかもしれない」
私たちはあまり喋る事もなく、昼食を終えた。
村の中心部からほんの少し行くと、荒れ果てた住居が点在している。もはや家だったものが緑に侵食されているといったほうが正しいのかもしれない。土壁が取れ、柱がむき出しになった家を蔦が多い、屋根にまで雑草が生えている。
「こうやって自然に還ってくのかな」
アヤが家であったものを覗き込みながら言う。
「人間だってそうだ。死んだら肉体は土に還り魂は天に召されるのだから」
「死んだら…」
アヤが感慨深そうに呟く。だがそうは言ってみたものの、罪深い私とアヤが同じところに行けるとは思えない。きっと私は死んでも一人、アヤのことを思い続けて冥府を行くのだろう。
「お前にはまだ遠い話だろう」
「ファントムにだって遠い話でしょ?」
「さてね。人間、いつ死んでしまうかなんて判らないものだ」
「…いなくなっちゃうの?」
気づけばアヤがまっすぐに私を見ていた。
「ファントムは、いなくなっちゃうの…?」
その不安げな口調は、酷く動揺している。私は慌てて取り繕った。
「そんなわけないだろう。手のかかるお前を残してはどこにも行けそうにない」
「あ、ひどい」
一瞬見せた不安げな表情が嘘だとでも言うように、アヤの頬が膨れる。その様子に、私はつい声を立てて笑ってしまった。
「もう…ファントムなんて嫌い!」
アヤがそう言って私に背を向ける。私はそんな彼女に意地悪がしたくなって、気づかれないように物影に身を潜めてみた。
「だいたいファントムはいつもそうやって…」
アヤが向き直る。だがそこに私は、いない。
「あれ…?」
狐につままれたような顔で今まで私がいた場所をアヤが見つめる。
「どこかに隠れて見てるんでしょ? …絶対見つけるから!」
その通り。だが私はかくれんぼが得意なのだよ、アヤ。誰も私を見つけられない。あの場所での私は『生きた幽霊』なのだから。
「今の一瞬だからだいたいこのあたりに…」
アヤが私の隠れている場所に近づいてくる。私は気配と足音を消して、そっと別の場所に移った。
「あれ、いない…」
アヤの声が後ろから聞こえる。こんな隠れる場所の多いところで、見つかるとは思えなかった。
「ちょっと…」
アヤが家であったものから離れていく。
「どこ…」
私はそっと後ろから後を追った。アヤは今まで通った場所全てを見て回りながら教会の方へ戻ってゆく。
「…やだ…」
そして広場の真ん中で歩みを止めた。
「ファントム…!」
肩で息をしながらアヤが私の名を呼ぶ。
「……ほんとに、いなくなっちゃったの…?」
アヤの呟きが風に乗って私の耳に入る。そして溜息をついたかと思うと、アヤはその場に座り込んだ。……意地悪もこのぐらいでいいだろう。私はそっとアヤに近寄った。
「アヤ」
私が名を呼ぶと、アヤがすぐに振り返った。…その顔は、泣き顔だった。
「ファントム…」
アヤがそのまま私の胸に飛び込んできた。
「ひどい! ひどいひどいひどい!」
そう叫びながら私の服を強く握る。
「…ほんとに、ほんとに、いなくなったかと思ったのに…」
「…すまなかった」
まさかここまでの反応を見せるとは思ってもいなかった。まさか、私がいなくなったくらいで泣いてしまうとも思っていなかった。それだけ、私を大切に思ってくれているということだろうか…?
「…悪かった、やりすぎた」
私の胸で泣くアヤの頭を撫でる。お前の事があまりにも好きだから、という続きの言葉は飲み込んだ。
「もう、二度とこんな事はしないから…」
「ほんとに…?」
アヤがしゃくり上げながらそう訊いた。
「約束しよう。もうお前を一人にはしないと」
そうだ。これからも共に、ずっと一緒にいて欲しい…。ああ、何故私にはその一言を付け足す勇気が出ないのだろう…。
「ほら、もう泣くのはお止め。あっちに苺が生っているのを見つけたからそれを見よう」
泣き続けるアヤに私はどうしていいか判らなくて、先ほどのかくれんぼの間に見つけた苺の事を言い出した。崩れかけた石垣の間から誰が食べるわけでもないのに赤く色づいていた苺は、アヤを泣き止ませるのに十分だった。
「すごい! 生ってる苺なんて初めて見た!」
摘まれた苺しか見たことがないというのも不思議な気がするのだが。
「…食べてもいいのかな」
「この苺に所有者があるとするならば、家ごと置いておきはしないだろうね」
そんな判りきった事を訊くアヤが可愛らしい。
「ほら」
一つ苺を摘んでやり、アヤの口元に持ってゆく。アヤは少し躊躇して、私の手から苺を食べた。
「…酸っぱい」
「ジャムにどれだけの砂糖が入っていると思っている? ジャムに比べれば酸っぱいのは当然だろう」
「…想像してたよりもずっと酸っぱい。でも、これが本当の苺の味なんだね。わたしの知ってる苺はもっと大きくて、もっと甘かった」
100年以上先の苺は何故そんな風に変わっているのだろう。どうすればこの小さな苺を大きく、甘くできるのか少し知りたくなった。
「やっぱり畑とかも今はただの野原になってるのかな」
「だろうね。探しに行ってみようか」
「うん。もっとめいっぱいいろいろなものを見ておきたい」
私たちは連れ立って畑だったであろうものを探しに行った。最もそう広くはない村の事だから、すぐに見つけることができた。
「やはり、もう野原との区別は付けがたいな」
小さな家の跡と、家畜小屋の跡。その前に広がるようにして在ったであろう畑の跡。中心部からほんの少し歩いただけで、もうほぼ野原といってよかった。森との境目も随分なくなってきているのだろう。人の手が入らなくなった森は、野原の奥に昼間でも鬱蒼と生い茂っていた。本当に静かに時の流れる中で、この村だけが時間に取り残されてしまったように思える。
「ここにはどんな人が住んでたのかな」
アヤが家の跡を見回す。
「さてね。今となっては誰にもわからんだろう」
「でもここには誰かがいて…」
アヤが家の跡から何かを拾い上げた。
「…確かに暮らしてたんだね」
もう錆びてしまって使い物にならないスプーンだった。アヤが指先で少しつつくとスプーンの先が折れ、地に落ちた。
「一つだけ判った事があるよ、アヤ」
そう、私は一つ見つけたのだ。
「何が?」
「この家の住人は花が好きだったようだ」
この家の住人が丹精していたであろう花壇。石で囲われたそこからは、花が我が物顔であふれ出していた。雑草も随分混じってはいたけれど、色とりどりの花が花壇からはみ出し、広がっている。
「…本当だ」
アヤが家を抜け、花壇の方へ歩いてゆく。
「大切にしてたんだね、きっと」
錆びたスプーンの柄を花壇の縁石に置く。
「ねえ、ファントム。ここの人たちは引っ越しても幸せだったと思う?」
花壇の前に座り込んだまま、アヤが私に訊いた。
「お前は、どう思う?」
「うん…きっと幸せだったと思うよ。引っ越した先でも花を植えて、幸せに暮らしたんじゃないかな」
「私も、そう思うよ」
私達の間を柔らかい風が通り抜ける。
「…帰ろうか」
「うん」
そう返事をして振り返ったアヤの顔は微笑んでいて、私は心の底からアヤが好きだと思った。