「結構遅くなっちゃったね」
 洗った皿を片付けながら、アヤが言った。あの後ゆっくりと森を歩いてきたせいで随分夕食が遅くなってしまった。私達の最後の晩餐はいたって普通で、はずむような会話もあまりなかった。
「明日は何時にここを出るの?」
「向こうに着くのを夜にしたいから、ここを発つのは昼過ぎだな」
 荷物もあることだし、あまり人目につくようなことは避けたい。できればオペラ座周辺から人がいなくなるような時間が望ましい。
「本当にあっという間だったね。まだ昨日ここに着いたみたい」
 名残惜しそうにアヤが言う。
「もっといっぱい見たい事もしたい事もあったのにな」
「例えば?」
「森だって湖だってまだ見て回りたかったし、星だって見たかった」
 確かにそれでは五日では足りないだろう。移動に時間が取られるから実質見て回れるのは三日しか無い。
「じゃあ今夜、星を見ようか。それならまだ間に合うだろう?」
 私がそう言うと、アヤが満面の笑みで頷いた。


 最低限の明日の支度をし、酒と果物とチョコレートを持って屋根裏に上がる。狭い屋根裏部屋は、天窓からの月明かりで意外と明るかった。
「夜は冷えるから毛布を被っていなさい」
 そうでなくとも屋根裏部屋と言うものは冷えるものだ。天窓の下の古ぼけたソファに座って空を見上げると、パリの夜空よりもずっと多くの星が見える。
「冬に見たときもきれいだと思ったけど、こっちの方がずっときれい…!」
 アヤが感嘆の声を漏らす。
「こちらの方が空気が汚れていないからね。やはりパリとは違うのだろう」
「なんだか、空を独り占めしてるみたい」
 確かに天窓で切り取られた夜空は一つの風景画のようで、この絵画を眺めているのが私達二人きりなのだと思うと贅沢な気分ではある。それから私達は食べたり騒いだりしながらずっと星を見ていた。
「やはり冷えてきたな」
 月明かりで懐中時計を見ると、既に夜も更けていた。
「そろそろ寝ようか。明日もあるのだから」
 私がそう言ったときだった。
「…やだ」
「やだってお前…そんな事を言っても仕方が無いだろう。明日には帰らなければならないのだから」
 アヤがそんな事を言うなど珍しい。
「ねぇ…ここにいちゃダメ? ずっとここで暮らしちゃダメ?」
 こんな聞き分けの無いことを言うアヤは初めてだ。それともこの数日の地上の暮らしで、あの地下には戻りたくなくなってしまったということだろうか? …私は勇気を出してそれを問いただした。
「…もう、あの薄暗い地下に戻りたくないという事か?」
 もしアヤの本心がそうであったなら私はどうするのだろう。あの閉ざされた牢獄に一人で住まう事など今更出来やしない。そうなれば私は力づくでアヤを連れ帰り、二度と外に出しはしないだろう…。仄暗い思いを抱きながら、私はアヤの答えを待った。
「違う、そうじゃないの。でも…」
 アヤは節目がちに力なく首を振った。とりあえず安堵はしたがその答えははっきりしたものではない事に気づく。
「でも?」
 アヤが何かを言いかけ、止めた。
「なんでもない…。ごめんなさい、変な事言って」
 私はやはり、アヤに無理をさせているのだろうか? そうだ、それならばいっそはっきりさせてしまったほうがいい…。
「アヤ、お前は…」
 何度も何度も言いかけて止めた言葉を搾り出す。私達の関係をはっきりさせてしまえば、私にも諦めがつくかもしれない。
「…お前は…」
 そうだ、今しかない…!
「お前は、私のことが好きか…?」
 アヤが顔を上げて私を見る。私はもう一度、同じ問いを繰り返した。
「お前は、一人の男として私のことが好きか…?」
 もう、戻る事はできない。私は今まで頑なに開ける事ができなかった最後のドアを開けてしまった。
「なんで…」
「何でもいい。とにかく答えて欲しい」
 自分でも卑怯だと思う。愛しているとはいえ、私は自分の過去や悪事を語っていないどころか仮面の下の素顔すら見せていないのだから。アヤは私のことが嫌いではないとは思う。だが、そんな男をそこまで信用してくれるだろうか…?
 永遠とも思えるような一時の後、アヤはゆっくりと、微かに頷いた。
「…わたしも、好き…」
 本当に聞き取れるか聞き取れないかというほどの小さなその言葉を聴いた時、私は死んでもいいと思った。誰からも愛された事の無い私を、愛していると言ってくれた人がいる。それだけでもう十分だった。
「どうしよう…。………嬉しい…」
 ああ! ああ! ああ!! そう言ってまた横を向いたアヤに触れようとしても、身体が思うように動いてはくれない。震える手でやっとアヤの肩を掴むと、その華奢な身体がびくりと強張り、毛布がソファへと落ちた。そのままゆっくりとアヤを抱き寄せる。小さな身体の温かさに、思わず息を吐いてしまう。私はそのまま何も言えずに、ただアヤを抱きしめていた。アヤは私にされるがまま、腕の中にいる。顔を伏せているのでその表情を窺うことはできなかった。
「あの…ファントム……」
 アヤが小さく呟く。
「ちょっと、苦しい…」
「うん? …ああ! …すまない、つい…」
 アヤに言われるまで、自分がそんなに力を込めている事も忘れていた。少し照れくさそうに顔を上げたアヤの頬に手を添える。
「お前に、口付けてもいいだろうか…?」
 少し面食らったような顔をしたアヤが、はにかみながら頷いた。彼女が目を閉じたのを合図に、私は生まれて初めて、恋人に口付けた。


「私は今なら死んでもいいと思うよ」
 アヤを膝に抱きかかえ、優しく抱きしめる。アヤはそんな私を睨みつけ、言った。
「だめ、絶対だめ」
「何故?」
「さっき、一人にしないって言ったばかりなのに…」
 アヤがまたそっぽを向く。
「ああ、そうだった。すまないね。確かに私はそう言った」
 そんなアヤの頬に手を添え、また私の方を向かせる。
「だがね、アヤ。それだけ今の私は幸せなのだよ。解るかい?」
「わかんない、そんなの。だってこれからもっといいことがあるはずなのに」
 ああ、確かにアヤの言うとおりだ。私は何でも物事を後ろ向きに捕らえすぎるのかもしれない。今まで期待なんてしたことも無かった。それが裏切られるのを知っていたからだ。だが、アヤはきっと裏切らない。いつも私の傍にいてくれるに違いない…。
「じゃあ反対に、お前は私を一人にするかい?」
「しない。わたしにはファントムしかいないんだから…」
 そう言ってアヤが私の首に腕を回す。他人のぬくもりとは、なんと心地のいいものなのだろう。それが好きな女のものであるのなら尚更だ。
「私にも、お前だけだ」
 アヤの細い腰を抱き寄せ、また口付ける。後ろ髪をかき上げたときの、さらさらとした感触が気持ちいい。舌をねじ挿れると、アヤが鼻にかかったような声を上げた。身体を引いて逃げようとするアヤを押さえつけ、咥内を蹂躙する。この温かさも柔らかさも、全てが私の物…。
「そろそろ、寝ようか」
 熱に浮かされた様な顔のアヤに言う。アヤは素直に頷いた。屋根裏部屋の片付けは朝に回し、階下に下りる。アヤを誘って部屋を出、アヤの部屋のドアを開ける。
「おやすみ。…また朝に」
 額ではなく唇に口付けて、私達は別れた。ベッドに入ってもまだ胸の高鳴りが収まらない。アヤは他の誰でもなく私を選んでくれたのだ! だが、私はアヤに隠している事が多すぎる。もしそれが露呈したとき、それでもアヤは私を恋人として見てくれるだろうか…? 興奮と不安で、私はいつまでも眠る事が出来なかった。


「もう、お別れだね」
 全て荷物を馬車に積み込み、最後に見落としが無いか見て回る。玄関を出るときにアヤがそう呟いた。
「また来ればいい」
「うん、また、いつか…」
 またね、とアヤが言い、扉を閉める。その扉に施錠をすると本当に全てが終わってしまったのだという気分になる。いや、終わったのではない。これからが全ての始まりなのだ。
 早く、というアヤの声に急かされながら、私は木漏れ日の下で微笑む恋人の顔をずっと見ていた。