昨夜の事だった。


「ねぇ、明日お誕生会しよう?」
 夕食後、リビングでゆったりと過ごしているとき、唐突にアヤが言い出した。
「それはまた、随分急な話だね」
「うん、この間言ったでしょ? お祝いしようって」
 この間の旅行でアヤにそんなことを言われたのを思い出す。本当にあの旅行は随分と実りの多いものだった。
「別にいい。私はお前とこうしているだけで…」
 膝の上のアヤの首筋に、そっと唇を寄せる。
「もう…。だめ。絶対にするの! 料理だってケーキだってちゃんと作れるんだから!」


 という訳でアヤに押し切られ、アヤは今キッチンに篭っている。何度か心配で様子を見に行ったが、『心配しないで!』と追い出されてしまった。こんな思いはあの夏の日以来だ。あの日私はまだ子供で、プレゼントのことしか頭に無かったっけ…。あの日と同じ思いを大人になった今でも抱いている事に気づき、私は苦笑した。ただ、時々キッチンから聞こえてくる悲鳴が気にはなるが…。
「やっぱり、様子を…」
 もう何度目になるのか。酒を注ぎに行くという口実を見つけ、私はキッチンに向かった。入り口からこっそり覗く私をアヤが目ざとく見つける。
「もう、ダメだって言ったでしょ!」
 エプロンを付け怒る様子は大変可愛らしいのだが、右手に握られたナイフが少し怖い。
「ブランデーを注ぎに来ただけだから…」
 そう言いながらちらりと見回すと、鍋に油が張ってある。使う直前にやった方が酸化しなくていいのだが…。ものすごく手伝いたい気分になるが、私はまたキッチンから追い出された。
「決して下手と言うわけではないのだが…」
 確かに焦がすし火加減もなっていない。しかし味が悪いわけではないので、ただ単に手際が悪いのだろう。まだまだ教えることは多そうだ。キッチンの方からケーキを焼く甘い匂いが漂ってきて、私は本当に嬉しくなった。本当に、誕生日ぐらいで何故こんな気分になるのだろう。…ああ、そうか…。祝ってくれる人がいる、それが嬉しいのだ。


 夕方になり、やっとアヤがリビングに顔を出した。
「あの…夕食なんだけど…。それに、せっかくだから着替えてくるね」
「そのままで構わん。料理が冷めてしまうだろう?」
「じゃあ、そうする」
 そうはにかみながら言うアヤに、不安と期待を入り混じらせてダイニングに向かう。テーブルにはクリーム色のテーブルクロスが敷かれ、あの幼い日の光景がまざまざと蘇る。そうだ、あの日のテーブルクロスも確かクリーム色だった…。
「あの…あのね?」
 さっさと私を席に座らせて、アヤが少し泣きそうな顔をした。
「やっぱり、焦がしちゃったの…。…ごめんなさい」
 それぐらいとうに覚悟の上だ。
「気にする事はない、お前の気持ちが嬉しいのだから。…それにお前の手料理には慣れている」
 私がそう言うと、アヤに笑顔が戻る。私の左頬に軽く口付けて、アヤが料理を並べ始めた。鶏肉らしい少し焦げた揚げ物。クロケットらしいが衣の色が少々不安なもの。唯一見た目の綺麗な肉料理らしきもの。そしてサラダとケーキ。今のところ及第点をやれるのは肉料理とサラダだろう。ケーキも見た目は大丈夫ではあるが、甘さの点で食べてみなければ判らない。
「あの…食べてみて?」
 そう言われ、私は料理に手をつけた。とりあえず見た目のいい肉料理から…。
「…どう?」
 味は悪くない。塩胡椒もナツメグもいいと思う。だが、肉汁が抜けてぱさついている。焼き方さえ覚えれば問題無いだろう。中のみじん切りになった玉葱は、もう少し火を通した方が甘みが出て私は好きだ。さて、クロケットは…。衣に少々火が通っていない気がする。中身次第では大丈夫だと思うのだが。ナイフを入れるとさくり、と音がして中からポテトが出てきた。少し具が緩いようだ。だがこれなら最初から火が通っているから問題無いだろう。
「…あ!」
 そのとき、アヤが小さく叫んだ。
「ソース作るの、忘れちゃった…」
 確かにソースが無い事に気づく。
「いい。それぐらいは問題無い」
「本当に、ごめんなさい…」
 仕方が無いのでそのままクロケットを口に運ぶ。ソースがやはり欲しい気もするが、塩と胡椒でなんら問題は無い。さて、問題はこの鶏肉だ。見た所肉に小麦粉をつけて揚げてあるようだが…。
「それ、焦げちゃったの…」
「…大丈夫だ、見た目ほど悪くは無い」
 彼女の料理がビターなのはいつもの事だ。やっぱりその鶏肉もいつも通りビターではあったが、衣がさくさくとしていて美味い。
「あの…」
「美味しいよ」
 私がそう言うと、ずっと心配そうに横に立っていたアヤが、ほっとしたように微笑んだ。
「美味しいから、お前も食べなさい」
 アヤが頷いて、私の向かいに座る。
「お誕生日おめでとう」
 満面の笑みでそう言ってくれたことが嬉しくて、アヤが本当に愛しかった。誰かに祝ってもらう事がこんなにも幸せだなんて忘れていた。あの幼い日の誕生日は最終的には嫌な思い出になってしまったけれど、途中までは本当に楽しいものだったのだ…。


「ねえ、結局ファントムの誕生日は何日なの?」
 紅茶を一口飲んだところで、アヤが訊いた。やはりケーキは甘かった。
「…今日だよ。お前が今日だと言うのなら今日が私の生まれた日だ」
 本当は日にちなどとっくの昔に忘れてしまった。六月だと言う事さえ思い出さなければいけなかったのだ。
「ふぅん。…じゃあ来年もこの日に、六月六日にお祝いしようね」
 アヤはそれ以上訊く事は無かった。必要以上のことは訊こうとせず、掘り下げる事もしないこの適度な距離感が本当に好きだ。アヤはよく笑い、よく喋る。だがそれを煩わしいなんて一度も思ったことがないのだから、恋愛とは不思議なものだ。
「あ、そうだ。……プレゼントは、後で渡すね?」
 心の底から、今日という日が幸せだと思う。この世に生を受けたことを後悔していたのに、たった一人恋人に祝ってもらえただけでそう思えるなんて随分現金だとは思うけれど、事実なのだから仕方が無い。
「お誕生日って本当に、『あなたが生まれてきてくれてよかった、ありがとう』っていうのを祝うんだね」
 アヤが唐突にそう言った。
「本当によかった。あなたが生まれてきてくれて」
 …その言葉を聴いたとき、私はもう少しで泣いてしまいそうだった。涙が溢れそうになるのを必死で堪えて、私は何事も無いようにケーキを口へ放り込んだ。ラム酒の香りが鼻腔をくすぐる。そして気づいた。私は誕生日を祝ってもらう事が嬉しかったのではなく、私がこの世に生れ落ちた事を肯定してくれる事が嬉しかったのだ! 今まで誰一人として私の存在を肯定したことはない。だが、アヤは違う…!
「……ありがとう」
 もっといろいろ言いたいことはあったのに、私の頭にはこの言葉しか浮んではこなかった。