「遅いな…」
 もう何度そう言って懐中時計に手を伸ばしたことだろう。時刻は既に8時を過ぎていた。夏のパリを見てくる、そう言ってアヤが外出したのは昼過ぎだった。少し買い物をするのには困らない程度の金を持たせ、秘密の玄関まで送り、そこで別れた。迷ってしまったのか? それとも何か犯罪にでも巻き込まれてしまったのか…? 私はどうしようもなく不安になり、煮込んでいたシチューの火を止め、玄関へと向かった。
 前にもこんな事があった。あの時から比べて私達の関係は随分と変わってしまった。自分がどうしてもアヤに甘くなってしまうのは、やはり惚れた弱みというものなのだろう…。だが、男として怒るときは怒らなければ。不安に駆られながらも半年ほど前のことをぼんやりと思い出す。
 道のりの半ばまで来た所で、上のほうから跳ねるような足音が聞こえてきた。無事だったという事にほっとしつつ、これはきちんと叱ってやらなければと決意を固くする。螺旋階段の上を見上げると、駆け下りてくるアヤと目が合った。
「ファントム!」
 満面の笑みでアヤが私の名を呼ぶ。私は踊り場でアヤを待った。アヤはすぐに下りてきて、階段の何段も上から私の胸に飛び込んだ。
「お前、いったい今何時だと…」
「あのね、あのね! 聞いて欲しいの!」
 私に向かって降ってきた恋人を受け止めて、文句を言う。だが私の言葉は、嬉しそうなアヤの声にかき消された。そんな顔をしているアヤを叱れるわけも無く、私は大人しくアヤの『あのね』を聞く羽目になった。
「どうしたんだ、そんなに興奮して」
「あのね…久しぶりに日本語で会話ができたの!」
 興奮気味に話すアヤの話を纏めてみると、どうやらアヤは街で日本人に声をかけられたらしい。日本語を話すのは久しぶりだというアヤが嬉しそうに笑うのを見て可愛らしいと思うのと共に、何とも言いがたい気分が胸中に渦巻いてくる。だがそれが何と言う感情なのかは判らなかった。


 食卓についてもアヤはずっとその話をしていた。私は先ほどの不快な気分が何だか判らないまま、それを悟られないようにアヤの話を聞いていた。
「それでね、日本から勉強しにパリへ来たんだって!」
「…相手の方は何と言うお名前なのだね?」
 冷静に。そう自分に言い聞かせアヤとの会話を繋げる。
「えっとね…M.サカガミって人」
 M.? MmeやMlleでなく? 男? そういえばずっと主語が『彼』だったような…。
「JaponaiseでなくJaponais?」
「この時代の日本に女性でパリに留学できる人なんて滅多にいないよ」
 そう言って笑ったアヤを見て、私の中で負、としか言いようの無い感情が湧き上がった。
「それでカフェで話し込んじゃって…ごめんね、遅くなって」
 …私がアヤの身を案じていた時間、アヤは私ではない男と話し込んでいたというのか。私がアヤのことだけを考えていた時間、アヤは別の男の事を考えていたというのか。
「住所も教えてもらったから、また明日行ってくるね」
 そこまで聞いて、私はついに席を立った。向かいに座っていたアヤの手首を掴み、無理矢理リビングまで引きずっていく。
「いたっ…痛い! ねぇ、離して!」
 ソファへ突き飛ばし、座らせる。
「行く事は許さん」
 アヤが少しむっとした顔で、私を見上げた。
「何で? 初めてできた友達なのに!」
「どうしてもだ」
「今日遅くなっちゃった事は謝るけど…でも、明日はもっと早く帰ってくるから」
「それでも駄目だ」
 私以外の男を見るな。
「大体男の部屋に行くなんて何を考えているんだ? そのようなこと許可できるわけがないだろう」
 アヤが少し拗ねたように眉間に皺を寄せた。
「ファントムって…何だかお父さんみたい」
 父親? 私が? ………確かに15も年が離れているのだからそう見て見えないことも無いが…。だが私の心配は恋人のためのものであって娘のものではない!
「…とにかく、駄目なものは駄目だ!」
 私以外の男の事を考えるな。私以外の男にその笑顔を向けるな。
「絶っ対行くもん。約束したんだから!」
 私以外の男に会いに行くと言うのか。―――させるものか―――!
「赦さない」
 その細い肩を掴み、アヤをソファへと押し倒す。明日その男の元へ行けないようにしてしまいたかった。ずっと、ずっと私の手の内に置いておきたかった。
「ちょっと…やだ……!」
 アヤが慌てて私の肩を押した。私は構わずに服の前を開け、私の物だという証をつけた。
「行かせない。…行かせるものか…!」
「やだ…やだ…!」
 私から逃れるように、アヤが身を捩る。そんなに、その男の方がいいというのか…?
「嫌っ!」
 アヤが私の肩を突き飛ばした。一瞬しまった、という顔をしたが、そのうっすらと涙を浮かべた目は明らかに怯えていた。
 ―――アヤが私を拒んだ―――。


 今思えば、何故あのような事を彼女に言ってしまったのか。
「…出て行け」
 私を拒んだ事への怒りと悲しみしかそのときの私には無かった。
「お前などもう要らぬ! 何処へなりと行ってしまえ!」
 私の怒号に、アヤがびくりと震えた。私を見つめる目に、すぐ涙が溜まっていく。そして何も言わずに彼女の部屋の方へと走り去って行った。
 ソファの背に身体をもたせ掛け、怒りを和らげるように溜息を吐く。つい怒鳴ってしまったが、あれぐらい怒っておけばアヤの方から謝ってくるだろう…。


 しばらくして、アヤがまたリビングへと戻ってきた。…その手に鞄を持って。
「今まで本当にお世話になりました。どうもありがとうございました」
 そう言ってお辞儀をしたアヤの目は、もう泣いてはいなかった。静かに怒りを燃やし、今までに見たことが無いような冷たい目で私を見据えている。
「洋服の類はまた返しに来ます。では、Au revoir!」
 それほどまでにその男の方がいいのか…! ほんの少し和らぎかけていた私の怒りも、瞬時に煮えたぎった。
「返しに来る必要など無い。…勝手に何処へでも行くがいい…! …Adieu!」
 アヤはすぐに踵を返し、出て行った。
 私はアヤがすぐに頭を冷やして帰ってくると思っていた。アヤが一言謝れば、もうその男の元へ行かない事を条件に、彼女を赦すつもりだった。だがよく考えてみれば解るはずだった。ずっと手中の珠を愛でる様にアヤを愛してきたのに、一時の感情に任せて無理矢理その純潔を奪おうとしてしまったのだ。そんな男を誰が赦そう?
 本当に、私は何て事をしてしまったのだろう。今更後悔しても遅すぎる。あれほどまでに愛し、手に入れたいと切望した宝物をこの手で粉々にしてしまったのだから―――!


 アヤはその晩、ついに私の元へと帰っては来なかった。