今日、珍しい事に日本人に会う。僕と同じ留学生らしい。それも女性の身で単身巴里とは豪気なことだ。面立ちが妹の咲に似ていたので思わず声を掛けてしまった。人懐こい笑顔の彼女とすぐに打ち解け、珈琲をご一緒する。彼女は仏蘭西語がとてもうまく、少し羨ましい。だが文字の読み書きはできないらしく、僕が教えた品書きを彼女が注文してくれた。
 僕は珈琲を、彼女は紅茶を。やはり日本のものよりも巴里の大通りで飲む珈琲の方が何倍も美味く感じる。彼女は仏蘭西人の家に間借りをしているらしく、家主と二人で住んでいると言っていた。僕が仏蘭西語を褒めると、『二人きりだから覚えざるをえなかった』と、笑いながら。
 お互いの事を色々話していると、あっという間に時が過ぎる。随分と遅くなってしまい、叱られないかと少し心配そうな彼女を送る。オペラ座の辺りで彼女に僕の住所を書いた紙を渡し、そこで別れた。また明日、そう言って。明日も日本語で会話ができるということが少し嬉しい。同じ日本人同士、仲良くなりたいものだ。


 そこまで日記を書いていた僕の耳に、部屋の呼び鈴の音が聞こえた。時刻はもう夜の11時過ぎ。日本ではこんな遅くまで起きている事は滅多に無かったのに、こちらへ来てからと言うもの、つい宵っ張りになってしまう。昼とはまた違った顔を見せる巴里が僕は好きだった。暖かな瓦斯灯の光、遠くで聴こえる酒場の喧騒…。何もかもが日本には無いものばかりだ。
 こんな時間の呼び出しはあまりいい気がしない。折角今日一日の素敵な気分に浸っていたのに…。
 返事をし、扉を開ける。そこに居たのはつい何時間か前に別れたばかりのその人だった。
「…どうしたんだい?」
 僕が声を掛けると、泣きはらした不安そうな目が、ほんの少し和らいだ。見れば大きな鞄を一つ持っていて、何か只事ではない様子が伺える。
「とりあえずお入りよ」
 扉を開き、彼女を招き入れる。彼女は少し項垂れたまま、大人しく室内に入ってきた。
「何かあったのかい?」
 誰がどう見ても何かあったに違いないのだけど。僕がそう尋ねると、彼女の黒目がちな目にはまた涙が溜まってきた。
「家主さんとケンカして、追い出されちゃって…」
 泣き声でそれだけを言う。オペラ座からこの時間に、ここまで女性一人で歩いてくるにはさぞ心細かったに違いない。それでも僕を頼ってくれた事が少しだけ嬉しかった。
「出て行けって言われて、出て行くしかなくて…」
 何度も涙を拭ったであろう頬に、また一筋雫が流れる。
「意地を張って出てきたけどどうしようもなくて…」
 ついに彼女が顔を手で覆った。
「謝れば許してはくれないの?」
 彼女が首を振る。
「鍵も全部置いてきたから、もう会えないの…。それに、あんなに怒ったあの人を見るのは初めてで…絶対、許してくれない…」
 やはりあんな遅くまで引き止めたのがいけなかったのだろうか。でもこんな時間に女性を一人で追い出すなんて、それにしても酷すぎる。
「…しばらくは、僕の家においでよ」
 彼女が顔を上げる。少しの罪悪感と心の底からの同情で、僕はそう言った。こんな異国で困っている女性を放っては置けないし、日本人同士、助け合いたいと思った。
「つい数時間前に出会ったばかりの方に厚かましいお願いをしているのは重々承知しています。でも、明日から仕事も探しますから…!」
「うん、僕は構わないし、同じ日本人同士助け合う事は必要だろう?」
「坂上さんさえいいのなら、わたしをここへ置いてください…」
 そう言って僕を見つめる瞳が、柴の子犬を彷彿とさせる。咲が父上に叱られた時も、僕がこう慰めたっけ…。
「明日にでも大家に『妹が来た』と言っておくよ。僕の妹は君より少し年下だけど、大家はそこまでわからないだろうしね」
「妹、ですか…」
 彼女が少し微笑んだ。
「だから僕の事は『坂上さん』じゃなくて『透悟さん』と呼んで欲しい。いくら大家でも実の妹が苗字で呼んでいたら怪しむだろうからね。…もっとも大家に日本語が解れば、の話だけど」
 僕がおどけてそう言うと、彼女がやっと笑ってくれた。やっぱり誰だって泣き顔より笑い顔の方が、ずっといい。
「これからよろしくね、綾さん」
「本当にありがとうございます、…透悟さん」
 涙を拭く綾さんと僕は、そう言って笑い合った。


「生憎僕の部屋に寝具は一つしかないから、ベッドは綾さんが使うといい。僕はソファで寝るよ」
 綾さんが落ち着くのを待って、僕らは床に入ることにした。だが訊ねてくる友達も誰も居ない僕の部屋には、僕一人が暮らせるだけの家具しか置いていない。
「ダメです! わたしが押しかけたんですからベッドは透悟さんが使ってください。わたしはソファでも十分ですから」
 そう言ってさっさとソファに向かう綾さんを、僕は引きとめた。
「女性にソファを使わせて一人ベッドで寛げる男なんていやしないよ。幸い7月で風邪の心配も無い」
「でも…」
「いいから」
 渋る綾さんを押し留め、僕はソファに陣取った。本当に咲だったら同じベッドでも構いやしないのだけど。
「明かりを消すよ」
 ランタンを吹き消すと、綾さんも仕方なくベッドに入ったようだった。
「…妹さんて、幾つなんですか?」
 暗い部屋の向こうから、綾さんの声が聞こえる。
「僕と一回り離れているから、10月で14になる」
「それじゃ、日本を発つときに泣かれませんでした?」
「大騒ぎだったよ。横浜の港で僕を送るときにも大泣きして…」
 冬の海風吹きすさぶ横浜港で、僕に泣きながら手を振る咲の顔がありありと思い出される。咲はその少し前から風邪を患っていて、あの日も熱があるからと止める父上と母上を振り切って僕を見送りに来てくれたのだった。父上も兄上も母上も身体にだけは気をつけろと僕に言い、母上はそっと涙を拭っておられた。出国の少し前に起こった虎列刺騒ぎの事もあり、僕を本当に心配していらした。
「それから2ヶ月近くも波に揺られて、馬耳塞に着いて…。それからはずっと手紙でのやり取りをしているよ。妹の…咲の書いた手習いや、紅葉の葉、桜の花弁なんかがよく封筒に入っている」
「仲のいいご家族なんですね」
「うん…そうだね、母上は後妻だけど僕と兄上にとっては叔母に当たるし」
「えっ…」
 綾さんが驚いたような声を上げた。
「別に死んだ姉の嫁ぎ先に後妻に入るなんて珍しいことじゃないだろう? 今の母上が嫁いできたときなんて、亡くなった母上が帰ってきたと思ったぐらいだし」
 綾さんの返事は無い。
「僕が十のときに実母が死んで、すぐに今の母上が後妻に入ったんだ。それでしばらくして咲が生まれて…。父上も一人娘だから咲には甘いんだよ」
 幼い咲を満面の笑みであやす父上を思い出す。咲はあまり身体が強くない事もあり、父上も母上も、無論僕たちも咲のことは大事にしていた。
「何か複雑ですね…。あ、そうだ。明日『求人募集』って綴りを教えてもらえませんか? わたしはフランス語が読めないので…」
 確かにそれでは職探しもままならないだろう。
「うん、詳しい話は明日にしよう。今日はもう、おやすみ」
 色々あって綾さんも疲れているだろう。早く休ませてあげたほうがいい。
「あ、はい…。おやすみなさい」
 すぐに綾さんの寝息が聞こえてくる。本当に疲れていたのだろう。僕が寝入る直前に、綾さんが仏蘭西語で何かを言った。僕にはそれを聞き取る事はできなかったけど、彼女が夢の中で誰かに呼びかけているのだけははっきりと聞き取れた。綾さんは何度も何度もその人の名を呼んでいた。…『ファントム』と。