朝食にシチューを温める。そろそろアヤを起こしに行かないと…。これからの動きをそこまで思い浮かべて、もうアヤが私の元にいないという事を思い出した。そうだ、アヤは私を裏切り、出て行ったのだ…。私を拒絶し、私を恐怖し、私の元を去っていったのだ…。苦い思いが胸の中を支配する。だが、よくよく考えてみれば最初から一人だった私が、また一人に戻っただけなのだ…! この一年ほどの日常は全て幻に過ぎなかった。私は生れ落ちたときから独りで、また独りで死んでゆく。ただそれだけのことだ…。
シチューを温める火を消したが、とても朝食を摂る気分ではなかった。グラス一杯のワインで朝食を済まし、オルガンの前に座る。誰が聴くとも知れない音楽のため、己のレクイエムのような旋律を弾く。
天使の喇叭のような明るい高音をストップで調節する。ここはトランペットのパートにするのがいいだろう…。ふと横を見ると、楽譜が一つ置いてある。何気なく手にとって見ると、それはベッリーニのオペラ『カピュレットとモンテッキ』の楽譜だった。私がアヤに渡した初めてのオペラアリアだ。真面目に譜読みをしていたのを思い出す。アヤの伸びやかな高音を聴きたくて、このアリアを渡したのだった…。
「くそっ…!」
思い切り拳を鍵盤に打ち付ける。不協和音がパイプを伝わり、部屋を振るわせた。彼女に歌を教えて何になった? 固く閉じていた蕾をもう少しで花開かせるところまで愛でてやり、そしてどうなった? 私はまた独り、この牢獄に取り残されただけじゃないか! 私はアヤを愛していた。アヤも私を愛してくれていると思っていた。だがそれは全て、私の思い込みに過ぎなかったのだ…! ユダめ! デリラめ! 誘惑者が悪魔の姿をしていないことなど解りきった事なのに! こんなに苦しいのなら愛など要らぬ! 二度と…二度と人を愛したりするものか…!
「勝手に何処へでも行くがいい…!」
私の見えないところへ。
「日本でも何でも行ってしまうがいい…!」
私の手の届かないところへ。
「…くそ…っ」
ついに苦い思いが溢れ出て、私は顔を覆った。愛しているのに。こんなにも私はアヤを愛しているのに。なのに何故、アヤは私を拒絶した? 何故私を裏切った? この世界の全てが私の敵に回っても、アヤだけは私を受け入れ、愛してくれると思っていた。アヤだけは私を受け止めてくれると思っていた。
「何故私の元を去っていったんだ…」
本当にアヤが一言謝れば全てを水に流すつもりだったのに。アヤが私だけを見ていればそれでよかったのに。どれだけ思い悩んでも、その答えは出なかった。
「もうこんな時間か…」
アヤに夕食を…そこまで考えて、私は頭を振った。結局今日は2小節も進まなかった。やはり食事をする気にはならない。アヤの笑顔で満ちていた食卓に、独りで座っている事など耐えられない。
「あんな女など、もう要るものか…」
だがそう呟いた横から、今夜もアヤが帰らないのかと心配になる。それとももう、日本大使館にでも行って帰国の手続きをしてしまったのだろうか?
「最初からこの世界には私だけしか存在していなかったのだ」
私の世界に入り込んだ人間などいやしない。東洋人で、それも未来から来た人間なんていやしない。私は今までも、そしてこれからもずっと独りなのだ。
「…何処へなりと行ってしまえ…」
アヤとの別れを何度想像しただろう。今日がその別れの日ではないように、何度祈ったことだろう。夜中にアヤが居なくなっている気がして、部屋まで気配を窺いに行ったこともある。何度も想像した別れが、こんなにも辛くて、こんなにも最悪な形で訪れるなんて…! 忘れればいい。全て忘れてしまえばいい。あの蜜月は、つかの間の幻でしかなかったのだ。
いくら忘れようとしても、脳裏に浮ぶのはアヤの笑顔。
「…アヤ―――!」
溢れてきた苦い思いが、とめどなく私の頬を濡らしていった。