朝、僕が目を覚ましてみると、綾さんはもう起きていた。泣き腫らした目は昨晩よりずっとましになってはいたけれど、それでもやっぱり腫れぼったい。簡単に朝食を済ませたところで、綾さんが僕に『求人募集』の綴りを訊いてきた。
「『Offer d'emploi』で『求人』だから、こう書いてある張り紙を探すといいよ」
「英語の『Offer』とつづりは同じなんですね?」
「…僕も一緒に探すよ。一人より、二人だろう?」
「でも…」
一人で大丈夫だと言う綾さんを押し切り、二人で家を出た。昼間とはいえ、雑多なパリの街を女性一人で歩かせるのは心配だ。最初は僕の家の近くで飲食店や販売店を探したけれど、日本人だという事で見向きもされない。『求人募集』の張り紙を探しているうちにセーヌ川に行き当たり、ノートルダム寺院を横目に僕たちは川沿いを歩き始めた。
「やっぱりノートルダム寺院は大きいね」
「あれがそうなんですか…。この間も見たけど名前がわからなくて」
綾さんはずっとフランスにいたはずなのに、ノートルダム寺院を知らないのだろうか。昨日出会ったときも、あの有名なサン・ミッシェル広場の名前を知らなかった。あれだけフランス語が話せるのならそれに見合うだけフランスに居たはずなのに、彼女は街の事に詳しくないようだ。…いったい、どういう暮らしをしていたのだろう。
サン・ミッシェル広場を通り過ぎるとき、綾さんがちらりと橋の向こうに目をやった。それは何かを探すような、求めるような、そんな遠い目で、咲ならまだする事のない大人びた横顔に、僕は一瞬どきりとした。
広場の横の飲食店でもまた断られる。できるだけ表通りの店を、と思っていたがそううまくは行かないようだ。懐中時計を見ると正午過ぎを指している。僕たちは一旦職探しを諦めて、昼食にする事にした。広場を過ぎ、セーヌ川沿いに少し歩いたところで道を曲がる。大体こういった裏通りの方が安い飲食店が多い。僕たちは昼食時である程度混んでいる大衆食堂に入ることにした。
「よかった…やっぱり安い。僕の目に狂いはなかったようだ」
品書きを見ながら言うと、綾さんが僕に謝った。
「ごめんなさい………仕事が見つかったら、お金は払いますから…」
「うん、見つかったら、ね。そのときでいいよ」
それから僕たちは食事を頼み、他愛も無い話をしながら昼食にした。値段の割りに量も多く美味しい。僕の部屋からそう遠くもないし、また来てみたいと思えるような店だった。
ふと、綾さんが会話を止める。綾さんの視線の先を見ると、壁に貼られたチラシがあった。
「…あれ、求人って書いてないですか?」
そう言われよくよく見てみると、確かに壁の張り紙には『Offer d'emploi!』と書いてある。
「僕の目が読み違えていなければ、確かにそう書いてあるね」
「…訊いて見る価値はありますよね」
正直なところ、綾さんは逞しいと思う。
「あの…働き手を捜してらっしゃるんですか?」
と、綾さんが訊いたはずだ。僕はあまり聞き取りに自信がないので、なんとか聞き取れた単語から予測するだにそんなような内容だったと思う。食後の珈琲を持ってきた女将は、そう話しかけた綾さんを見ると少し困ったような顔をした。
「確かにうちは手伝いを探してるけど…まさかあんたが働こうってんじゃないだろうね?」
「そのまさかというか…今、仕事を探してるんです。よければこちらで雇ってもらえませんか?」
女将が呆れたように息を吐いた。
「外国人を雇う気は無いよ。フランス語だって出来るかどうか怪しいもんだ」
「…確かに喋る事はできても書けませんけど…。それなら、メニューを一晩貸してください。覚えてきますから!」
綾さんの威勢に気圧されたかのように、女将が言葉に詰まる。
「お願いします。どうしても働き口が欲しいんです…。誰か他の人が見つかるまでのつなぎでも構いませんから!」
必死で頼み込む綾さんに、女将はついに降参したかのように溜息をついた。
「まったく…。…そこまで言うんなら試してみようかねぇ。とりあえずうちのメニューを全て覚えておいで。話はそれからだよ」
険しい顔で女将を見ていた綾さんの頬が緩む。
「ありがとうございます! 絶対覚えてきます!」
「誰か他にフランス人の働き手が見つかったら、あんたはお払い箱だよ」
「はい、それでも構いません。ありがとうございます!」
僕は正直驚いた。綾さんがそこまで自活力があるとは思っていなかったからだ。女性と言うものは男性が護ってやらなければいけないもので、家の中を護るものだと思っていた。確かに職を持つ女性はいるが、それは産婆だったり廓の中だったり、専門職か制限つきの物だ。実際のところ、そのとき僕には綾さんがまるで違う時代の人のように見えた。仏蘭西で暮らすと女性も変わってゆくのだろうか?
「…ところで、あんた幾つだい? あんまり年端も行かない外国人を雇いたくはないんだけど…」
「一応18歳です。この人はわたしの兄で、一緒に暮らしてます」
いきなり話を振られて内心慌てたが、会釈で返す。確かに身元引き受け人がいた方が雇い主も信用しやすいだろう。僕を兄だと紹介したのは得策だ。
明日から、という事で僕と綾さんは店を出た。行きよりもずっと軽い足取りで、僕たちは家に戻った。家から少し距離はあるが、贅沢は言っていられないだろう。
「よかったです、お仕事が決まって」
本当に嬉しそうな笑顔で綾さんが言う。やはり綾さんと咲はどこか似ていると心の片隅で思う。
「夜遅くまでやってるお店だから、帰りが心配だよ。お店が終わる時間になったら僕が迎えに行こう」
僕がそう言うと、綾さんが思い切り首を横に振った。
「ダメです! そんな迷惑かけられません!」
「お店からここまでは距離もあるし、夜になれば物騒だろう? 女性を護るのは男の役目なのだから気にしなくていいよ」
まだ何か反論したげな綾さんを制して言葉を続ける。
「家主は僕だ。僕がいいと言っているのだから気に病む事はない」
…僕は卑怯だ。そんな事を言えば綾さんが反論できないと知っているはずなのに。そして僕の思ったとおり綾さんは黙り込み、僕たちの間にはなんとも言えない空気が流れ込む。僕は咲と同じように綾さんを庇護したいだけなのだろうか? それとも綾さんを支配してしまいたいのだろうか? その答えを出せないまま、僕は開け放した窓から夏の風が僕の頬を撫でるのを感じていることしか出来なかった。