アヤの声が聞こえたような気がして、浅い眠りから現実に引き戻される。部屋に戻る気力も無く、居間のソファで眠ってしまっていた。昨晩は少々飲みすぎたようで頭が痛い。もう少しここに居たらアヤが水を持ってきてくれそうな気もしたが、そんなことはもうありえないのだと思い返し、重い頭を振った。
 昨日全くと言っていいほど進まなかった作曲をしようと思っては見たものの、椅子に座るだけで何の旋律も浮んでは来ない。いつもならどこかにアヤの気配を感じる事ができたのに。あの軽い足音も、よく響く歌声も、何も聞こえてはきはしない。ただ音を立てるのは私のみ。音の無い空間と言うものがこれほど虚無なものだとは知らなかった。アヤと出会うまでずっと、私はこの無音と言う音を聴いて生きてきたはずなのに。今はただ、アヤの声が聞きたかった。
 そのとき、後ろでばさりと楽譜が落ちる音がした。反射的にアヤの姿を探して振り返った私は、次の瞬間勝手に楽譜が落ちたに過ぎないという事を理解した。―――本当に私は、この世界に独りになってしまったのだ―――。
「…っ……!」
 耐え切れずに乱暴に椅子から立ち上がった私は、無駄だとは知りつつアヤの姿を探した。キッチンも、居間も、風呂場でさえも、アヤの痕跡を見つけることしかできない。あらかた家の中を見てしまった私は、勇気を出してアヤの部屋に入ってみた。いつも通り整頓された部屋に一歩入ると、懐かしいアヤの香りが仄かにする。クローゼットからは数枚服がなくなっており、他にも数点当座必要なものは持ち出したものだと思われる。
 そして、私が見つけてしまったもの…。それは、机の上に置き去りにされたアヤの腕輪。ハンカチの上に置かれたそれは、いつもよりも曇って見えた。前もこんな事があった。そのときも絶望的な気持ちになってアヤを追いかけた。だが、今はそれよりも酷い気分だ。どれだけ私が追いかけようと、私の手の届く場所にアヤがいないのだから―――。
 腕輪を手に取り眺めているうちに、また涙が溢れ出す。他人の事を想って泣くだなんてアヤと出会う前には考え付きもしなかった。落ちた涙の雫が紅い石に当たり、鈍い光を拭うように流れていった。


 小さな腕輪を手に、アヤを想う。だが、アヤの部屋はアヤの気配が色濃くて、とても耐え切れそうに無かった。何とはなしに足の赴くまま、家の外に向かう。水のたゆたいでも見ているほうが幾分ましに思えた。
 扉を開けようとした私の目の端を、何かが掠めた。それを認識した瞬間、私は愕然とした。それは鍵だった。私がアヤにやった金色の鍵。外界と私の世界を繋ぐ小さな鍵。本当にアヤは、私の全てを捨て去って行ったのだ…! 扉の脇の花瓶立ての上に無造作に置かれた鍵。アヤと私を繋ぐ最後の砦。アヤは本当に、私の元に戻らないつもりで…。
 もう、とても耐え切れなかった。アヤが何と言おうと、戻ってきて欲しかった。魂の半分を抉り取られたような胸の痛みで、私は気が狂わんばかりだった。アヤを探して、説得して、戻ってきてもらおう…。アヤ無しで、この先たった独りでこの牢獄に暮らすことなどできやしないだろう。アヤが居なければ駄目なのだ。アヤの居ない世界など、恐ろしくて考える事もできない。私の命が尽きるときまで独りで居るくらいなら、大罪を犯してでも命を終わらせた方がましに決まっている。
 この一年で私が得たものは話し相手ではない。それよりももっと大きい、大切なものを私はアヤから貰ったのだ。アヤを迎えに行こう。アヤが日本に帰らない限り、私たちはきっとまた、出会うことができるだろうから。


 もう一度アヤと会えることを願って、私は鍵を握り締めた。