綾さんが出かけてゆき、僕は部屋に一人になった。昨日あんな事を言ってしまった僕を責めようともせず、何事も無かったような朝だった。綾さんは本当に店の品書きを全て覚え、読み書きもできるようになっていた。
 なんとなく手持ち無沙汰に椅子に腰掛けた僕は、ここ数日の事を思い返した。ただ懐かしさと珍しさから彼女に声を掛け、それがきっかけで今彼女と暮らしている。人生とは…いや、人の縁とは不思議なものだ。だがふと考えてみると僕は綾さんのことを何も知らないと言うことに気が付いた。彼女が何処の出身なのか、何処に誰と住んでいたのか。綾さんの心の傷は随分深いらしく、今朝も少し目を泣き腫らしていた。夜中も泣いていたようだ。それでも僕の前で涙を見せないようにしているのが、なんともいじらしい。そんな彼女に例の大家は何て酷い事をしたのだろう。身一つで追い出すなんて…。綾さんはまだそのことについて触れようとはしないが、いつか僕に語ってくれるのだろうか?


 一昨日途中掛けになってしまった日記を再開し、細かく記憶を手帳に書き写す。僕が日本に帰ったらきっとこの手帳が役に立つだろう。いい文章を書くにはその場所の空気を、情景を、人々を、知っていなければならない。いつか僕が文学者として身を立てられるようになったとき、少しでも人々に巴里の街並みが伝わるように。文を書くのが好きだ。人々と情景を作り上げるのが好きだ。それで食べていけたらどんなにいいだろう。少しでも夢に近づけるように、今できる事を一つずつ積み重ねていこう。
 ふと気付けば、日記と言うよりも綾さんのことばかり書いていたことに気付く。咲とどう似ているか、何が似ていないのか、二人で交わした他愛も無い会話に、彼女がするちょっとした仕草…。いや、きっと僕は日本語を話すことの出来る相手がいて嬉しいのだ。だから綾さんがどんな表情をしていたのかも仔細に思い出せるし、綾さんの所作まで覚えているのだろう。だが、よく笑う綾さんの、時折見せる寂しげな表情が気にかかる。寂しげで、何かを探すように遠くを見ている目。日本を想っているのだろうか? それとも、誰かを想っているのだろうか…?


 気付けば夕刻だった。もう夕闇が色濃くなり始め、落ちゆく太陽は薄気味悪いほど赤く染まっている。軽食程度にパンをかじり、ぶどう酒を飲む。夕餉は綾さんが帰ってきてからでいいだろう。夜の帳が落ち始める頃の巴里は美しい。いや、どの時間、どの季節でも巴里が美しい事には違いないのだけれど、僕は夕刻の巴里が一番好きだ。子供たちが帰路に着く道すがらに歌う童歌、夕餉の準備が出来たと子供を呼ぶ母親の声、妻子が待つであろう家へ向かう労働者の靴音。色々な人々の、様々な音が聞こえる。それが全て巴里の風景の一部になっている。目で見たものだけが風景ではない。僕がこの身で感じたこと、その全てが風景なのだ。
 綾さんも数日前まではあの風景の一部にいたのだろう。僕の知らない綾さんが、僕の知らない誰かと一緒に…。何とも言いがたい感情が湧きあがってきたのに気付き、僕は頭を振った。綾さんが何処で誰と何をしていようと、僕には関係の無い事のはずだ。だのに何故僕は綾さんの事がこんなにも気になるのか。いや、きっと妹に…咲に似ているからだ。咲に似ているから心配になるのだろう。そうだ。咲に似ているから…。


 考えがまとまらないまま随分と無駄な時間を過ごしたようだ。時計を見ると随分と夜も更けている。迎えに行く、いい頃合だろう。僕は帽子をかぶり、頭の中から絡まった思考を追い出すように早足で店へと向かった。
 夜中の巴里を歩くのは気が進まないが、綾さんのためだ。やはり僕の家から少し遠いということが悔やまれる。遠くに明かりを消した店が見えた頃、扉が開き、ちょうど綾さんが出てきた。店の中へ何かを言い、僕を見つけると嬉しそうに駆けてきた。朝は持っていなかった籐の籠には、白いハンカチが掛けられていた。
「本当に迎えに来てくれたんですか?」
 少し息を切らした綾さんが言う。
「こんな物騒なところでご婦人を一人で歩かせられる訳がないじゃないか」
「…迎えに来てもらったのなんて親以外に無かったので…」
 綾さんの年齢なら相応だと思う。僕が親なら迎えに来るような男がいたらそれ相応の責任を取らせるだろう。
「その籠は?」
 綾さんが持っていた籐の籠の中が気になる。
「あ、これは…。おかみさんがくれたんです。残り物で捨てるだけからって。すっごくいい人なんですよ!」
 ハンカチをめくると、卵焼きやパンが入っている。これから夕餉をどうしようか考えていた僕には、とても嬉しい贈り物である事には違いなかった。
「随分乱暴な口調の人だったと思ったけど…」
「でも、いい人ですよ? おかみさんも、旦那さんも。旦那さんはあんまり話す人ではないですけど、必要な事はちゃんと言ってくれますし」
 初めての労働だというのに、しんどい事や辛い事は無かったようだ。そんな綾さんの様子に少し安堵しつつ、僕らは家路に着いた。


「それで、食事時は本当に忙しくて…」
 嬉しそうに今日一日のことを話す綾さんが可愛らしい。やることなすこと初めてで、一生懸命に接客をする綾さんが目に浮ぶ。それにしても店の女将も亭主も人がよさそうで本当によかった。遠い異国の地で頼れる人間なんて数えるほどしかいないのだから。だが、僕の知らない綾さんがいるということにも気付く。今度は店に客として行ってみよう。
 数日前まで一人だった部屋に溢れる綾さんの笑い声と美味しい食事に、何だか僕はとても嬉しくなって、一人それを祝うようにぶどう酒の杯を空けた。