もう昼になろうとしている。結局昨日は私もアヤも夕食をとらずに寝てしまった。私はアヤの頭の下からとうに感覚の無くなった腕を抜き、食事を作ろうとキッチンへと向かった。アヤの熱は依然として高いままだった。
 アヤがいつ起きてもいいように今日はリゾットにすることにした。鍋にかけた水がそろそろ沸騰してくる頃合だ。するといきなり後ろで物音がした。私が振り向くとそこにはなんとアヤがいたのだ!
「行っちゃ、いや…」
 喉は昨日よりも治ってきているようだった。いや、そんなことよりも彼女は、私が居ないことに気づいて私を探しに来たのだろう。この寒さだというのにガウンも羽織らず裸足のままだった。
「一人にしないで…」
 そう言って倒れこんだアヤを、私は慌てて支えた。私は彼女を椅子にもたれかからせ、自分のガウンをかけた。かなり寒いが仕方が無い。私は急いでリゾットを作ると部屋へと運び、次にアヤを連れて行った。
「アヤ、食事を持ってきたよ」
 私がそう言うとアヤが目を開ける。今私を見ている彼女は夢と現とどちらの彼女なのだろうか…。
「…いらない」
「食べないと体力が無くなるばかりだ。ここに置いておくから好きなときに食べなさい」
「…それよりも、水が欲しい…」
 会話が成立する。いつものアヤのようだ。私が吸い飲みを口元に持っていってやると、彼女はゆっくりと水を飲み干した。
「頭、痛い…」
 私はアヤの額にタオルを乗せてやった。
「迷惑かけてごめんなさい…」
 アヤの表情が暗くなった。このような殊勝なことを言う彼女に私が見たすべての事を教えたらどんな反応を示すだろうかと、少々意地の悪い気分になる。
「気にすることは無い。それよりも今は体を直すことを考えなさい。少々眠った方がよい」
「眠りたく、ない」
 アヤが俯く。
「嫌な夢ばかり見るの。すごく悲しくてすごく切ない夢ばっか…。眠るのが怖いの」
「…どんな内容なのだね?」
「思い出したくも無い。あれが現実になったら怖いから。あの夢が本当になったらわたしはきっと死んじゃうわ」
「夢の中に行けたのなら私が原因を追い払ってやるのに」
 まさか内容を知っているとは言えず、私はそう返した。
「そうだったら、いいのにね」
 彼女は寂しげに笑った。
「さあ、もう寝なさい。私がずっと傍にいるから」
「ありがとう。…ごめんなさい」
 彼女は再び目を閉じた。


 眠り姫の横で私は本を読んで過ごした。彼女があまりにも静かに眠り続けるので、彼女がこのまま死んでしまったらという恐怖に駆られ、そのたびに私は思わず何度か手をかざして彼女の呼吸を確認したほどだった。
 そろそろ夕方という頃合だろう。私がリゾットを温めようと思ったときだった。
「…や…。いやぁ…!」
 アヤが激しくうなされ始めた。もがく様に彼女の両の腕が空を切る。
「待って! 行かないで! …お願い、捨てないで…」
 彼女の両の瞼からとめどなく涙が溢れ出る。私はその姿を見るに忍びなくて、彼女の頬を軽く叩き彼女を起こした。
「ファントム!」
 目を覚ました彼女は唐突に起き上がり私に抱きついた。私の体に手を回し、すすり泣くアヤ。ああ、また彼女は幻惑の虜になっているのだ…。
「行かないで…。ここに居ていいって言って…。…お願いだから…」
 ああ、私に彼女をこの苦しみから救い出す手立ては無いものか…。私に身を預けてすすり泣く彼女は、あまりにも憐れで、あまりにも愛おしかった。
 彼女が私の顔に手を伸ばす。反射的に私は彼女から右顔を背けた。
「ファントム…」
 彼女の目が私を見つめる。ああ、彼女の幻影の中の私はどのような顔をして彼女にどのような酷い言葉を吐いているのだろうか…。
「何でもするから…。…どんな酷い事でもして構わないから…」
 彼女の顔が私の顔へと近づき、彼女の手が私の体を這い上がる。腕は私の首へと回され、彼女の泣き顔は私の眼前だった。彼女からこのように近づいてきてくれるとは! 彼女の瞳に映っているのは幻影の中の私だと解っていても、私は胸の高鳴りを抑えることができなかった。
 ゆっくりと、だが確実に彼女の唇が私の唇へと近づいてくる。彼女が目を閉じたのを合図に私も目を閉じた。
 ついに唇が触れ合う。彼女の体温が直に伝わってきてとても熱い。そして彼女の暖かくて柔らかい舌が私の唇を割り、たどたどしく遠慮がちに口内へと侵入してきた。
 私はアヤの体に手を回し彼女を抱きしめた。ああ、夢にまで見たこの感触! 少し力を込めれば砕けてしまいそうに細く、私の腕の中にすっぽりと納まってしまう小さな身体。私が彼女の舌を吸うと、彼女は小さく喘いで身体をぴくりと痙攣させた。その彼女のなんと可愛らしい事か! 私の胸は砂糖菓子のような甘い痛みで一杯になった。
 彼女の舌が私の舌との絡まりを解き、彼女は口を離した。彼女と私の混ざり合った唾液が唇と唇の間で糸を引いて煌いた。
「あなたが、好きなの…」
 彼女は泣きそうな顔で私に呟くと、また夢幻の世界へと意識を落としていった。
「ああ…!」
 私は思わず溜息を漏らした。この思いを抱いているのは私だけではなかったのだ! 甘く鈍いこの痛みを胸に秘め、彼女も私を見ていたのだろうか…。涙で世界が霞む。私が…この化け物のような私が愛される日が来ようとは! あまりの幸福に私は軽いめまいを覚えた。
 私の腕の中でぐったりと眠るアヤの身体をベッドに戻す。深い眠りについた彼女を眺めながら、私は静かに泣いた。母からも誰からも愛されず初めて身に着けたものはこの仮面だった。疎まれ蔑まれ人目を避けるように生きてきたこの人生についに日が差すのだ! 人を愛し人に愛される喜びが私の体中に満ちて行く。だが、アヤは未だに私の素顔を知らない。彼女にありのままの私を見せても、彼女は私を愛してくれるだろうか…? いや、しかしそれならばこの仮面を取らなければいいだけの事だ。彼女に隠しとおせるとは思わないが、真実が暴かれるまでに私から離れられなくしておけばよいのだ。もしこの顔が白日の下にさらされる前に子供でもできてしまえば…。
 ほの暗い思いが私の胸に満ちてゆく。今すぐにでも彼女を自分の物にしたかった。


「ファントム…」
 彼女の呟きで私は素に戻った。アヤがまた目を覚ましたようだ。
「どうかしたかね?」
「お水取って…。あとお風呂に入りたい…」
 いつものアヤだ。私は吸い飲みを取り彼女に水を飲ませた。
「熱の方はどうだね?」
「随分楽になってきた。でも暑くって汗かいちゃって…。だからお風呂入りたい…」
「まだ駄目だ。暑いと感じるのは熱が下がってきているからだ。しかしそこで風呂に入って湯冷めをしたら、また熱を出してしまう」
「そんなこと言ったって汗べたべたで気持ち悪い…。ほら」
 彼女が寝間着の前を少し肌蹴て私に見せた。白いデコルテに私はどきりとした。
「日本より湿気が少ないとは思うけど、ここは湖の横だからやっぱり湿気が多いの。それに熱が出てるからどんどん汗になって水分は出てっちゃうし。だからさっぱりしたいんだけど…。だめ?」
 彼女が上目遣いで私を見る。私が彼女のこれに弱いのを知ってか知らずか…。だが今回は彼女の願いだからと聞き届けるわけには行かない。
「駄目だ。今髪を濡らすのは身体のためによくはない」
「だって…触ってみてよ。気持ち悪いから」
 彼女はそう言うと私の手を取りデコルテへと導いた。指先に汗が冷気で冷えた冷たさがまず伝わり、その後すぐに熱を帯びた彼女の体温がわかる。彼女の鼓動が指先へと伝わり、私の胸も同じように早鐘を打った。
「ほら、べたべたしてる。入ってもいいでしょ?」
 そう聞いてくる彼女に私は溜息をついた。結局のところ敗者はいつも私なのだ。
「…仕方がない。今リゾットを温めてくるからそれを食べたら入りなさい。お前が食べている間に私は湯を用意しよう。それと絶対にシャワーで済ませずにきちんと温まること。風呂から出たら何もせずにすぐにこの部屋へ戻ること。髪は私が乾かそう。あと、お前が寝ている間に荷物をこの部屋に運んでおいた。これからはここを自室として使用するがいい」
 私はそう言うと、また溜息をついて席を立った。リゾットを温めアヤの元へと持って行き、風呂に湯を張る。アヤが少しでもリラックスするようにと湯には薔薇の香油を混ぜておいた。アヤが食べ終わるのを待ってバスルームまで付き添う。アヤの足取りは思ったよりもしっかりしており、このままなら数日中に身体は癒えそうだと感じた。
 アヤが風呂から上がるまで半刻程だっただろうか。アヤがバスルームから出るのを待ち伏せ、すぐに彼女の部屋へと連れて行った。大丈夫だと言い張る彼女を無理やり寝かせ、用意したタオルで彼女の髪を拭いた。
「こんな風に髪を触られるなんて随分久しぶり」
 アヤは気持ちよさそうに私に言った。私はタオルでできる限り髪の水気を吸い取ると、櫛で梳きはじめた。彼女の髪に残った薔薇の香りが鼻腔をくすぐる。ほんのりと水気を残した彼女の黒髪は、まるで極上の絹糸のようにまっすぐで柔らかだった。
「髪を触られるのって気持ちいいよね?わたし大好き…」
 同意を求められても私には返すことのできない事だった。よほど心地よかったのだろう。アヤはそのまま眠ってしまった。私は彼女の髪の一房にそっと口づけると、蝋燭を消して部屋を後にした。