昼、私はアヤの部屋の前に居た。朝にも来たのだが、心労と疲労が相まって睡眠薬が少々効きすぎたらしく、彼女が起きることは無かった。
「アヤ、入るよ」
念のためドアをノックして言う。返事は無い。とりあえず部屋に入り彼女の様子を伺う。私が寝ている彼女の頬にそっと触れると、彼女はようやく目を覚ました。
「おはよう、気分はどうだね? 茨の森の姫君」
アヤはゆっくりと口を動かした。
「ぁ…ぁ、ぃぁ…」
そのときの衝撃が私と彼女のほかにわかるだろうか。彼女の口からは音が…声が再び戻っていたのだ! まだそれは音ともいえぬ小さなもので、彼女の声とは思えないほど枯れている。だが、紛れも無く彼女の口から発せられた声だった。
「アヤ…声が…」
私は安堵でもう少しで泣きそうだった。私が微笑むと、アヤも力なく私に微笑み返した。
「ぁ…ぁ、ぃぁ…」
彼女がまた同じ言葉を繰り返す。私は音にだけ気を取られて唇の動きを見ていなかった。私は彼女の口の動きを必死で思い出した。
『頭、痛い…』
私が導き出した答えはこれだった。
「頭? どうかしたのかね?」
私は手袋をとり、彼女の額に手を置いた。…熱い。かなりの高熱のようだ。私のところにはじめて来たときにも熱を出したが、前回よりもはるかに額が熱い。
「待っていろ、すぐに冷やしてやる」
私は急いで水を汲み、タオルを持って部屋へと戻ってきた。タオルを水につけ絞ってからアヤの額に乗せる。彼女はただ荒い息を吐いてぐったりと横たわるだけだった。
私はその日、アヤの横に居てやることにした。何より私自身、心配で横を離れることができなかった。本を読みながらも時折アヤを見ると、彼女は熱に浮かされ悪夢を見ているようだった。大半は聞き取れなかったが、きっと日本語なのだろう。
いや、いや、と彼女の口が動いているのがわかる。私が彼女の夢の中へ入ることができたなら、その悪夢から守ってやるのに!
彼女は時折浅い睡眠の間に目を覚まし、私の存在を確認するとまた悪夢へと戻っていくのだった。
「…ファントム…」
彼女が私を呼ぶ。きっと彼女は夢の中で私の助けを待っているのだろう。私は彼女の助けになればと彼女の傍らに行き手を握った。
「…ファントム…ゃ…。ぃゃ…」
私? 私が悪夢の原因なのか? 彼女の閉じたまぶたから涙が零れ落ちる。そして彼女は目を覚まし、起き上がった。
『捨てないで…』
彼女が私を見ながら呟く。ああ! 彼女は私に捨てられる夢を見ていたのだ!
『行かないで…』
アヤが私に手を伸ばす。悪夢と現実の区別がついていないのだろう。
『一人は嫌なの…』
私はアヤの手をつかんだが、それでもまだアヤは私に手を伸ばしてくる。
『抱きしめて…お願いだから…』
一瞬の躊躇の後、私はアヤを抱きしめた。アヤの熱を帯びた吐息が私の胸元をくすぐる。彼女は私の名前を何度も繰り返した。彼女が顔を上げ、私の顔を見る。熱のせいかそれとも泣いていたせいか、彼女の潤んだ瞳に私はどきりとした。
『なんでもするから、ここに置いて…』
アヤが私に懇願する。ああ、これが彼女の本心なのだ! 昨日のように強がっていても、どんなに心細かった事か! 本心を隠し続けた彼女のことを思い、私の心は痛んだ。私が本心を口に…いや、もう少し態度に出していればアヤがここまで思い悩むことは無かったに違いない。可哀想なアヤは自分がここに居るのは歌を学ぶためだけなのだと思っていたのだろう。私に抱きついていや、いやと繰り返すアヤに、私は告白することに決めた。熱が下がったときには彼女は覚えていないであろう。だが、今彼女を安楽にするためにはこれしかないのだ。私とていつまでも悪夢の虜になっているアヤを見るのは忍びなかった。
「アヤ、よくお聞き」
私はアヤの涙をそっと拭うと言った。これはただの手段なのだとわかっていても私の胸は高鳴った。
「私がお前を手放すことは無い。私はお前を……愛している」
私はそのまま、そっとアヤに口づけた。熱を帯びた彼女の舌はとても熱かった。あまり無理をさせないように、ほんの軽く口付ける。
唇を彼女から離すとアヤはふっと微笑み、私に何事かを言ってまた意識を手放した。私は我が目を疑った。彼女の言葉がにわかには信じられなかった。
『…嬉しい…』
私の見たものが間違っていなければ、彼女は私にそう呟いた。嬉しい? 本当にその言葉が彼女の口から発せられたのか、私には自信が無かった。頭が混乱する。熱に浮かされた彼女の言葉が全て本心だったとするならば、彼女も私の事を…? いや、何かの間違いだ。美しい彼女が醜い化け物のような私を愛するはずが無い。ひょっとしたら今のは私の願望が作り出した幻影ではなかったのか? だが、現にアヤは私の腕の中に居る。確かに私は彼女の心が欲しいと切望している。しかしこれはあまりに私に都合のよい夢ではないか!
考えがまとまらないまま、私はアヤを寝かせようとした。しかしアヤの手は私のシャツを掴んだままだった。
「…ぃゃ…」
彼女の呟きが聞こえ、私は仕方なく彼女の隣に陣取り、彼女の頭の下に腕を差し入れた。彼女の涙が私のシャツの袖を濡らしてゆく。彼女の吐息が荒いのは、熱のせいなのか泣いているせいなのか私には解らなかった。