今、私はアヤの部屋のドアの前に立っている。昨日の一件から一夜明け、アヤの声が戻っていることを祈るばかりだった。もし今日もそのままだったらどうしようといろいろと思い悩み、いつもよりも遅い朝食…もうブランチになっていた…を知らせに来ていた。
「アヤ、入るぞ」
私は意を決して部屋のドアを開けた。そこに居たアヤは、昨日よりもやつれていた。顔は青白く睫と頬は涙で濡れていた。
「まだ…駄目なのか?」
私がそう言うと、アヤは枕に突っ伏して泣き始めた。昨日からの不安が私の中で波紋のように広がってゆく。
「とにかく原因がわからないことには治しようも無い。私の質問に答えなさい」
アヤが泣き顔を私に向ける。
「何か兆候はあったかね?」
アヤが首を横に振る。
「喉の痛みは?」
これもNonだ。
「熱などの体調不良は? 思い当たることは?」
こちらも駄目だ。声が出ない以外に体調に何の変化も無いようだ。これでは私もお手上げだ。
「まずは食事を採りなさい。体力が無くては何もできないから」
私は泣き続けるアヤにそう言い、部屋へとブランチを運んできた。アヤはあまり食欲が無いようだったが、私が無理をして食べさせた。
「今日も無理をせず寝ていなさい。今は体を休めることだけ考えて」
私はアヤにそう言い、部屋を出た。私の中で昨日からの不安がどんどん広がってゆく。このままアヤが喋ることができなくなったら、私はそれでもアヤを愛せるだろうか。いや、彼女の声はただのきっかけだったに過ぎない。今の私は彼女の全てを愛している。だが、このまま直らなかったら…。私の中で悪循環が始まる。結局結論が出ることは無かった。
夜になり私はアヤに夕食を持って行った。だが、アヤの部屋はもぬけの殻だった。手にしていたお盆から食器が滑り落ち、派手な音を立てて砕けた。
私が慌てて部屋を探すとアヤがこちらに来たときに身に着けていた服がなくなっており、アヤの鞄と楽譜もなくなっていた。そしてただ、机の上に私が彼女に贈った腕輪だけが残されていた。クリスマスに私が贈って以来、彼女が肌身離さず身に着けてくれていた品だった。冬の冷気にさらされたそれからは、すっかり彼女の体温は無くなっていた。
私は急いで秘密の玄関までの螺旋階段を登った。彼女が外に出る道はこれしかないからだ。はやる気持ちが抑えられない。ここで追いつくことができなかったら、アヤは私の元から去ってしまうだろう。アヤが私の元から居なくなるなど考えも及ばなかった。
私が彼女に追いついたとき、彼女は玄関のノブに手をかけようとしていたところだった。私が贈ったものは何一つ身につけず、彼女は来たときのままの恰好でこの寒いのにとても短いスカートに裸足だった。
「アヤ!」
荒い息を必死で押さえ、私は彼女の名を呼んだ。彼女の手がノブの手前で止まる。
「…このように寒い中、どこへ出かけるつもりだ?」
アヤは私に背を向けたままだ。私は彼女に近づいていった。
「帰るのだ、アヤ。このように寒いところにいつまでもいてはいけない。さあ、一緒に戻ろう」
アヤが振り向いた。その顔はやはり泣き顔だった。アヤがゆっくりと首を横に振る。
「…何故だ? 私が嫌になったのか?」
アヤがまた首を横に振る。
「それならば、何故私の元を去ろうとするのか理由を教えてくれないか?」
私がそう聞いても、アヤは俯いたままだった。
「アヤ…」
私の手が彼女の肩に触れる。彼女は顔を上げ深い悲しみに満ちた目で私を見つめた。
『日本に、帰らなきゃ』
アヤの唇がそう動く。
「何故?」
『もう受験だから…。私立はもうだめだけど公立の試験が残ってるの』
「…それは何かお前の居た時代の日本に帰る手立てが見つかったということかね?
アヤはまた頭を振った。
「それで何故ここを出て行こうとする?」
『…歌えないわたしは、いらないでしょ?』
アヤの声無き言葉が私の心に突き刺さる。彼女は私と音楽だけでつながっている関係だと思い込んでいるのだ!
「そのようなことは無い。歌えなくてもお前はお前だ」
『嘘!』
アヤの瞳に怒りの色が映る。
「嘘ではない。なぜ行き場のないお前を私が投げ出さなければならないのだ」
『嘘、嘘、嘘! 歌えないならあなたの元に居る資格なんて無い!』
アヤが肩に置いた私の手を振り払う。
『同情ならかけないで! そんなものいらない!』
「アヤ」
私が彼女の手首をつかむと、彼女は激しく抵抗した。
『女一人だってなんとでもなるんだから!』
「アヤ」
彼女の声無き慟哭の息遣いが、石造りの回廊に響く。
『女なんだから娼婦にだってなんだって…』
「アヤ!」
そのあとの言葉を彼女の口から聞きたくなくて、私は咄嗟に自分の口で彼女の口をふさいだ。その瞬間彼女の体は強張り、抵抗をやめた。私はそっと口を離すと彼女を抱きしめた。
「…手荒な真似をしてすまない。だがそれ以上は言うな。私もお前も悲しくなるだけだ。例えば…例えばだ。お前の声が戻らなかったとしても、私はお前が思っているようなことは全く思わない。いつまでも私の館に留まって欲しいと思っている。…その気持ちには一遍の偽りも無い」
彼女に伝えた言葉は、全て私の本心だった。彼女は私の腕の中で、再び静かに泣き始めた。私はそっと彼女の冷えてしまった手を己の手で包んだ。
「さあ、館へと戻ろう」
私はアヤに自分のマントをかけると抱き上げた。アヤはいつまでも私の胸で子供のように泣き続けていた。
私は館に戻るまでの間に覚悟を決めた。このまま彼女が唖者になっても私は彼女だけを生涯愛し続けると。私たちはそのままゲストルームへと行き、私はそっとベッドの上に彼女を降ろした。アヤは泣きつかれたのかぐったりしていた。私は彼女に布団をかけ、夕食を持ってくるからと言い残して部屋を出た。
――アヤに夕食を食べさせて落ち着かせたら、アヤの部屋の片づけをしなければ…。
私が先ほど夕食を派手にこぼしてしまったため、アヤの部屋を移動させなければならなかった。
アヤの部屋に二人分の夕食を持ってゆく。アヤはやはり食欲が無いようで、半分ほど残してスプーンを置いた。
「とにかくゆっくり眠ることだ。必要以上にベッドから動いてはいけないよ」
私はそう言うとそっとアヤの頬を手の甲で撫でた。彼女は力無さげに頷くと、横になった。私はそれを見届けるとそっと部屋を出た。食事の中に混ぜておいた睡眠薬が効いてきているようだった。
「また、抜け出されてはかなわんからな…」
私はそう独り愚痴って、酷い惨状になっているアヤの部屋の片付けに取り掛かった。幸いカーペットにまで汚れは広がっていなかったので、食器と昼食の残骸の始末だけで済みそうだった。次に私はアヤの荷物の移動に取り掛かった。一番多かったのは洋服で、私はこのためだけに3往復するはめになった。
睡眠薬が効いているのか、アヤは私が少々音を出しても起きることは無かった。私は彼女の腕にそっと腕輪を填めると、その小さく白い手に口づけた。