その日のアヤは朝から様子がおかしかった。朝、私が朝食だと呼んでもドアを開けようとしない。具合でも悪いのだろうか? それとも私の顔など見たくないとでも言うのだろうか…。何度呼んでもドアの鍵を開けようとしないし返事もしようとしないアヤに私は根負けし、一人でブランチを取った。夕方になってもアヤは部屋から出てこようとしない。ドアの向こうにアヤの気配はする。聞こえるのは衣擦れの音と彼女の溜息ばかりだった。
「アヤ、いい加減にでてきなさい」
私は夕食を知らせにアヤを呼んだ。だがアヤはやはり返事をしようとはしない。何か様子がおかしいようだ。
「アヤ、あけないのなら合鍵で開けてしまうよ」
そう私が言ったとたん、アヤが慌ててドアへと向かってくる足音が聞こえた。そしてついにドアの鍵が開いた。そこにいたアヤはやはりおかしかった。寝間着なのはいつものこととしても、目が嫌に赤い。泣きはらしたようだ。
「どうしたというのだ? 何かあったのかね?」
私が聞いてもアヤは何も答えない。ただ黙って私から目を背けるばかりだった。
「私が何かしたのかね?」
アヤは激しく首を横に振った。
「ならばなんだと言うのだ。黙っているばかりでは理解ができぬ。ちゃんと私に話すがいい」
私もだんだん焦れてきて、ついつい語調が荒くなる。それでもアヤは口を割らない。
「アヤ! いつまでも黙っていないできちんと話せ!」
ついに私は手元にあった机に向けて拳を振り下ろした。その瞬間アヤはびくりと怯え、目にはみるみるうちに涙が溜まっていった。
彼女が口を開く。だがその口からはいつもの彼女の声ではなく、ただ息が漏れるだけだった。とても嫌な予感がした。
「アヤ…まさか…」
私の問いかけにアヤはただ力なく首を振り、唇の動きを見る限りではごめんなさいと繰り返しているようだった。彼女の両頬を幾筋もの涙が伝い落ちてゆく。
「声が出なくなってしまったのか…?」
私がそう言うと、アヤは顔を両手で覆い、床に座り込んで泣き出した。私も呆然と立ち尽くし、ただアヤを見ているだけだった。
どのくらいの時間が経っただろうか。私はふと我に返り、アヤに話しかけた。
「何か思い当たることはあるのかね?」
アヤは顔を覆ったままただ首だけを振った。私はアヤに読み書きを教えなかったことを後悔した。これでは筆談をすることもできない。
「ひょっとするとただの風邪かもしれぬ。今日はおとなしく寝ていた方がよい」
私は座り込んだままのアヤを立ち上がらせると、手を取ってベッドへと連れて行った。アヤはまだ泣き止まず、私にされるがままになっていた。アヤを寝かせ布団をかける。夕食を持ってくると言い残し私は席を立った。だが、服の裾をアヤにつかまれる。
『捨てないで…』
アヤの唇は、そう私に向かって言葉を紡いだような気がした。涙に潤んだ目が私の視線と絡み合う。
「私はどこにも行かぬ。今日はここで一緒に食事をしよう」
私がそう言ってアヤの頭を撫でると、アヤはやっと私の服の裾から手を離した。
アヤも随分腹が空いていたのだろう。夕食を全て平らげると、また泣き始めた。
「そんなに泣くものではない。あまり泣くと体に悪い」
『でも』、と彼女の唇が動く。これなら何とか口話でも問題は無いだろう。
「そのうち直るのだからそんなに心配することは無い」
また、彼女の唇が動く。
『そのうちっていつ? このまま、戻らなかったら? 出たとしても歌えなくなったら? …そうしたら…わたしを捨てる?』
彼女の言葉を理解した瞬間、私の心には太い杭が刺さったような痛みが走った。彼女は私に捨てられると思い朝からこんなにも悩んでいたのだ! 可哀想なアヤ! 私がどうしてお前を嫌いになれようか! だが、私の心に一抹の不安が残る。私はそんな不安を振り切るように、アヤに話しかけた。
「心配は要らん。ただの風邪だろう。明日にはきっと声が戻っているよ。だから安心してお休み」
そう私が言うと、アヤの唇が『一人にしないで』と動く。私は彼女に微笑みかけ、彼女の手を取って子守唄を歌い始めた。