ぬくぬくと温かな毛布の中で、ぼんやりと目を覚ます。何とはなしに胸元に手をやれば、同じく温もりから離れがたいのか、アヤがしっかりと私に抱きついていた。幸せな温もりを優しく抱き締めると、私が起きていることに気づいたのかアヤがぼんやりと目を覚ました。
「…朝…?」
まだまだ眠そうな声。
「そうだよ、お寝坊さん。もう日も出てしまっている」
私も今起きたばかりだが、そんな無駄なことは教えない。
「エリック…」
アヤが眠たげに私の胸にすり寄る。
「うん?」
「もう少し、このままで…」
私が苦笑しても、アヤは気づかない。だがこう寒くてはベッドから出るのが億劫になるに違いない。
「どれくらい?」
「…もう少しでいいから…」
身を縮込ませたアヤの耳元で、私はそっと囁いた。
「あまり起きずにいると、また悪戯してしまうよ」
「それは…」
アヤが眠そうな顔を上げたが、またすぐに瞼が閉じていく。
「…じゃあ、何かお話して…」
「どんな?」
気だるく眠たげな声がおかしくて仕方がない。
「…聞きたいことがいっぱいあるの…」
眠たげではあるが、それでもアヤが私に甘えてくる。
「ここでの話? それとも他の場所での話?」
「…どっちも」
私は苦笑いしながらアヤをまた抱きしめた。
「そうだね、それじゃあ…」
アヤを抱きしめたまま、ぽつりぽつりと話をしだす。いくら話しても話し足りない。私もアヤに話したいことがいっぱいある。どんな小さなことでもアヤは聞いてくれるし、それが嬉しい。話せば話すほど私とアヤの絆が強くなり、私の心も軽くなるような気がするのだ。
「―――シャンデリアに飛び移った時は悲鳴を上げられて…」
「…シャンデリアってあそこの?」
まだまだ眠そうな目に、いくらか驚きの色が浮かぶ。
「そうだよ。私がどれだけ思い切ったことができるのか見せてやりたかった」
「…そんな危ないことして、何かあったらどうするつもり?」
咎めるようにアヤが言う。
「何もないさ。そんなへまはしないからね」
「もう…」
アヤが呆れたように溜息を吐く。どうして女性と言うものは同じ反応を見せるのだろう。
「ずいぶんやんちゃな子供だったんだね」
「シャンデリアだけじゃないさ。家の前に木があっただろう? あれにも飛び移ったことがある」
私がそう言うと、アヤが信じられないとでも言うかのように目を見開いた。もう眠気など欠片も見えはしない。
「…だって、あの木は家から離れて…!」
「やってできないことじゃない。窓から少し下にいい枝があったから、そこに向かって思い切り飛ぶんだ」
外には出してもらえなかったのだから、仕方がない。
「夜の森は面白かったよ。子狐が遊ぶのを見たり梟の鳴き声をずっと聞いていたり」
「…じゃあ、戻るときはどうするの?」
「簡単さ。今度は窓より少し上の枝から飛ぶんだ。そうすればちゃんと部屋に戻れる」
アヤがまた溜息を吐く。
「…そんな場所から出入りするなんて、猫くらいだと思ってた」
「猫だってそんな高い場所には行かないさ」
「………」
「とにかく、それぐらいのことは朝飯前だったんだ」
眉間に皺を寄せたまま、アヤは私に文句を言った。
「そんな危ないことしたら怒られるに決まってるでしょう!? わたしだって怒るよ」
「怒られたのは私が外に出たからだ。危ないことをしたからじゃない」
「…いくらあなたが身軽でも、危険な事には変わりないでしょう? 何かあってからじゃ遅いんだから」
まさかあんな昔のことで、今アヤに説教をされるとは思わなかった。
「今はしないさ」
「当たり前!」
アヤが私の首に抱きついた。
「今そんなことされたら、心配しすぎて病気になっちゃう」
私の恋人は随分と可愛いことを言ってくれるものだと思う。
「ではお前を病気にしないように、気を付けて過ごすとしよう」
「もう…!」
笑いながらアヤの髪を撫でると、アヤが口付けをねだる。愛らしい薔薇の蕾のような唇に応えてやり、シーツの中でじゃれ合った。
「…ずっと一緒にいたいんだから、危ないことなんてしちゃだめ」
「ああ」
頬を染め、目を潤ませてアヤが言う。
「もし一人になんかしたら許さないんだから」
そう言って口をとがらせるアヤの唇に触れ、私は言葉を返した。
「何処にも行きやしないよ。お前みたいなのを残してはおけないからね」
「何それ!」
アヤが今度は頬を膨らませ、私はつい笑ってしまった。
「エリックなんて嫌い! そうやってすぐ子ども扱いするんだから!」
「悪かった悪かった」
アヤを抱きしめると、私の腕を振りほどこうとアヤが暴れる。
「子供っぽいのが嫌なら他の人を探してよ!」
「誰も嫌だとは言っていないよ」
むしろこの子供っぽさが愛おしく思えるほど可愛らしい。私にありのままで接してくれることが、何よりも愛しいのだ。
「そうやってすぐ頬を膨らませるのも、チョコレートを食べると必ず口の端に付けているのも、あまり寝相がよくないのも、全て好きだよ」
私がそう言うと、アヤがより一層暴れだした。
「もういい! 今夜から違う部屋で寝る!」
「あんな寒いメイド部屋でなど寝たら、すぐに風邪をひいてしまうよ」
「じゃあ居間で寝るもん! 暖炉があるから寒くないもん!」
「夜中には薪が燃え尽きてしまうよ」
「………」
ついにアヤが反論できなくなる。
「だから、私の傍にいるのが一番いいのだよ」
「エリックなんて……嫌いなんだから…」
アヤが私から顔を背ける。
「私は、お前が好きだよ」
顎に触れ、こちらを向かせてから、私は柔らかな唇に優しく口付けた。
「この世界で誰よりも、お前を愛している」
唇へ、首筋へ、絹のような髪へ、何度も口付ける。
「Aya, mia bella, Non credi, o del mio cor dolce desio, d’esser tu l’amore mio?」
アヤが驚いて顔を上げる。頬が見る間に赤く染まり、林檎のように輝いた。
「Credilo pur: e se timor t’assale, dubitar non ti vale. Aprimi il petto e verdrai scritto in core: Aya e’l mio amore!」
おどけて私が言うと、アヤが深く溜息を吐く。古いイタリアの詩。原題は『Amarilli』であるが少し詩を変えさせてもらった。
「………何でそんな恥ずかしい事が言えるかな…」
「恥ずかしいことなど何もない。詩と同じように私の心にはお前への愛が刻まれている」
「………」
赤い顔をしたままアヤが私を睨み、もう一度溜息を吐いて起き上った。
「何処へ行く?」
「…もう起きる」
そそくさとベッドを出ていくアヤを追い、私も階下へと向かう。
「ちゃんと暖かくしていなさい」
「…ありがとう」
アヤの肩にショールを掛けると、まだ赤い顔をしたアヤが私の方を見ずに礼を言う。その様が可愛らしくて私はアヤの頭を撫でた。
「フライパンで昨日のパイを温めて、昼食にしよう」
アヤの頭をぽんぽんと叩き、台所へ向かう。アヤは何も言わず、私の後を付いてきた。
「熱いから気をつけなさい」
昨日より硬くなってしまったパイを出し、アヤの前に置く。夜の分までパイは残っているが、こうも硬くなってしまったらもう一品スープでも付けた方がいいだろう。蒸して温めればパイ生地が崩れてしまうし、オーブンやフライパンでは水気が飛んでぱさついてしまう。フライパンに蓋をして温めるのもいいが、やはりオーブンで温めるのが一番ましな気がする。
昼食を食べながら夕食の思案をし、どの材料をどう使おうかいくつかの可能性を探る。余っていた肉が外に出してあるので、それを使うのならば部屋に置いて解凍しなければいけないし、兎の骨で出汁を取ってもいいだろう。アヤには好き嫌いがあまりないので、食事の内容に気を使わなくてもいいのが嬉しい。
「暇だね」
ぽつりとアヤが呟く。
「こんな雪じゃ出かけられないし、家の中も片づけちゃったし、何もすることがない」
確かに外は大雪だが―――それを差し引いてもアヤを外出させるつもりはない。アヤから目を離したくないというのもあるし、この村で目立つようなことはしたくない。こんなに雪が降るとは思ってはいなかったが、それでも最初から私はずっとこの家の中だけで過ごすつもりだった。
「私と二人きりでいるのは不満か?」
「そうじゃないけど…でも雑誌ぐらい持ってくればよかった」
アヤが不思議な事を言う。
「お前は字が読めないじゃないか」
そうだ。アヤはフランス語を喋る事はできても、読む事も、書くこともできないのだ。そんなアヤが雑誌に何の用があるのだと言うのだろう。
「字は読めないけど雑誌は絵がいっぱいだもん。風刺画だったりファッション記事だったり見てるだけでも楽しいよ」
私から与えられることだけしか知らないと思っていたのに、いつの間にかアヤが私も知らないことを知るようになっている。それが何だか寂しくなって、私は小さく溜息を吐いた。
「ねえ、居間のピアノって使えないのかな」
アヤが食事の手を止めて私に訊く。
「使えるとは思うが…」
何も変わっていない家だが、調律までされているかは分からない。
「食事が終わったら、試してみようよ。弾けるならそれで遊べるよ」
どうせこの家から出られはしないのだ。音楽を手慰みにするのも悪くない。
「そうだな、少しピアノを見てみよう。早く食べてしまいなさい」
「うん」
アヤがまた食事を再開し、私もワインに口を付けた。
昼食の後片付けをして、私達は居間へと移った。
「…ちゃんと弾けるかな」
アヤがピアノの蓋を開ける。木目に艶消しのニスを塗った古いプレイエル社製のピアノ。壁際に置かれたアップライトピアノは、少年の日をありありと私に思い出させる。母の歌が、好きだった。母の歌うアリアの伴奏ができるのが嬉しかった。母と二人きりだったこの家の、唯一の楽しかった思い出。あの時私が座っていた椅子に、今はアヤが腰かけている。
アヤが軽く指を降ろすと、澄んだ音色が部屋に響く。どうやらきちんと調律されているようだ。
「よかった、ちゃんと使えるね」
「手入れが良ければピアノなど何十年でも使えるものだ」
アヤを退かせて、今度は自分が椅子に腰かける。足がやっと届くかという椅子だったのを覚えているが、それが今ではこんなにも低く感じる。
私はゆっくりと息を吐いて、手を鍵盤に滑らせた。
軽やかに、だがしっかりと。大バッハの師、ゴルトベルクが不眠に悩む伯爵のために演奏したと言われる主題の変奏曲―――ゴルトベルク変奏曲のアリアだ。元はチェンバロのための曲だが、ふとこれが弾きたくなった。ずっと眠っていたこのピアノを起こすのに、柔らかな曲を聴かせてやりたかったのだ。
私達の間に流れる時間のようにゆっくりとした曲。最後のGの音を弾いてそっと指を離すと、アヤが小さく溜息を吐いた。
「すごくきれいな音! 外がこんなに嫌な天気だなんて忘れちゃいそうだった!」
「私はハンマーがもう少し甘い方が好みだが…何か聴きたい曲はあるか?」
私がそう言うと、アヤが嬉しそうに答えを返す。
「じゃあ…シューマンのトロイメライ!」
アヤにねだられるまま、また鍵盤へと指を滑らせる。静かに静かに最初のCへと指を下ろし、次の小節のFを導く。あとは水が緩やかに流れていくように、音を置いてやればいい。流れが速くなり、岩に当って飛沫を散らし―――そしてまた緩やかな流れへと戻っていく。最後の和音に指を置いて、私は息を吐いた。
「エリックのピアノの音…すごく好き」
アヤが背中から私の首に腕を回す。
「曲によってぜんぜん音が違うし、それに何だか温かい」
「こんな簡単な曲ではなくて、もう少し難しいものを頼んでくれても構わんよ」
2曲ともいい曲ではあるが、この数日指を動かしていないこともあるし、もっと骨のある曲を弾きたい。
「なら……リストのラ・カンパネルラ」
そう言って期待に満ち満ちた視線を向けながら、アヤが私から離れる。―――いきなり難易度が高くなったわけだが―――。だが、私にかかれば訳もない。最初はゆっくりと鍵盤を叩き、そしてすぐに音の跳躍に入る。ゆっくり、ゆっくり、爆発するときを待つように鍵盤を叩き―――満を持して音が増える。元はパガニーニのヴァイオリン協奏曲なので弦の雰囲気を壊さないように、それをピアノで表現する。オーケストラの曲だったということ、リストの曲だということ、それが相まってか、音が他の作曲家ではありえないような大跳躍をする。左手が一気に3オクターブも下がったり、トリルが忙しかったりと息を吐く暇もない。5分近くもの間私は夢中で鍵盤を叩き続け、全ての演奏が終わった時には少し汗ばむほどだった。
大きく息を吐いて汗を拭う私にアヤが惜しみなく拍手を送る。
「すごい! 目をつぶってると一人で弾いてるなんて思えない!」
「大編成の曲を編曲したものだからね。そう聴こえたなら何よりだ」
数日指を動かしていなかったので第3版を弾いたことは秘密にしておこう。
「まさか本当に弾いてくれるとは思わなかったなー」
―――おい。
「―――私だけ弾くのは不公平だろう」
「だってわたし、弾けないもん」
アヤが口を尖らせ、私は溜息を吐いた。
「じゃあ何か歌ってもらおうか」
アヤの了承を得ぬまま私は鍵盤に向きなおった。地獄の底から響くような激しい前奏があり、すぐに歌へと入る。
「ちょ……歌えないよ!」
私が弾いたのはモーツァルトのオペラ『魔笛』の夜の女王のアリア、―――『Der Hoelle Rache kocht in meinem Herzen』だ。
「いきなりこんなの歌えるわけないじゃない!」
「何時いかなる時も、どんな曲でも歌えるようにしておかなければ」
「それにしたってこの曲は無理! 第一やったこともないのに!!」
いきなり私に『ラ・カンパネルラ』を振ったお返しだ。
「ではパリに戻ったら練習しよう。ちゃんと練習しさえすればお前は歌えるようになるだろう」
「…ほんとにFまで出るようになる?」
「本当だとも。高音の出し方、転がし方を覚えれば綺麗に歌えるようになるよ」
コロラトゥーラの超絶技巧アリア―――。今のアヤには難しいが、私が導いてやればきっと歌いこなせるようになる。アヤの声は軽やかだがそこにこの怜悧さが出せるようになれば、またアヤの歌は上手くなる。少しずつ少しずつアヤの声を磨いていくのが楽しみで仕方がない。どこまで伸びるのか、どこまで伸ばせるのか、何かを一から創り出していくのと同じ楽しさがある。
「だが、まあ―――今のお前ならデスピーナやスザンナが妥当だろうな。ほら、やっただろう?」
今度はアヤが頷くのを確認し、デスピーナのアリア『Una donna a quindici anni』の最初の音を弾く。そしてアヤが澄んだ声で歌いだした。
「Una donna a quindici anni dee saper ogni gran moda―――…」
軽く明るい声。デスピーナの役どころにはぴったりだ。だがアヤにこうはなって欲しくない。同じモーツァルトならパミーナあたりで居て欲しいものだ。
「…―――viva Despina che sa servir! viva Despina che sa servir! che sa servir! che sa servir!」
どんどん速くなる最後の言葉まできちんと歌い切り、アヤが息を吐く。
「明るくて乗りがいいし、この曲は好きだな。こういう風になれたらいいよね」
―――パミーナ辺りで居て欲しいものだ―――。
「でもやっぱりアリアは体力使うから歌曲の方が楽でいいや」
「どちらもできるようにしておかなければいけないよ。歌手がそんな我儘を言ってはいけない」
「…うん」
素直に返事をしたアヤが、私の横に腰かける。
「ねえ、もっと何か聴かせて。エリックの音、すごく好き」
「ではこんな雪の事など忘れてしまうような曲を…」
私は鍵盤に触れ、優しく音を紡ぎ始めた。メンデルスゾーンの『無言歌』の中の一曲、『春の歌』。そよ風に揺れる緑や明るい日差しが見えるような曲だ。こんな寒い季節など忘れてしまえるような、甘く、柔らかな旋律。弾いているこちらまで楽しくなってくる。
最後の和音を二回弾いて腕を上げたところで、アヤが私に微笑んだ。
「旅行に行った時のこと思い出しちゃった」
「五月の時の事か?」
「そう。あの時見た風景を思い出した」
甘えるようにアヤが私にもたれ掛かる。
「空がきれいで花が咲いてて…あの時もこうしてピアノ弾いたよね」
初めてのアヤとの旅行の思い出。今思えばよく婚前旅行にアヤも行く気になったものだと思う。だがあの場所に行ったからこそ、私達はこうして恋人同士になれたのだ。
「場所が変わっただけで、やってることは一緒だね」
目を細めてアヤが言う。
「そうだな、どうしてもやり慣れていることの方が落ち着くのだろう」
「ずっとあなたと一緒にいれて、こうしてあなたの音を聞いているのは本当に幸せだと思うよ」
アヤがまた微笑み、私は嬉しくなってアヤに口付けた。アヤが幸せだと言ってくれることが何よりも嬉しい。私がアヤを幸せにしていると言う事が何よりも心強い。そして何より、アヤと一緒にいられることが私にとっても幸せなのだ。
「他に何が聴きたい?」
「じゃあ…」
曲と同じように暖かな気分になり、私はまた鍵盤に指を走らせた。
どれほどそうしていただろうか。途中夕食のスープを作るために中断したが、結局夕食を食べるまで私達はピアノで遊んでいた。音楽で気分が高揚したのか、ずっと曲について和やかに話しながら夕食を取り終える。途中で『メフィスト・ワルツ』をねだられもしたが、アヤはやはりゆったりとした曲の方が好きなようだった。
風呂に湯を溜めるまでまたピアノを弾き、歌い、私達は楽しい時を過ごした。
「今夜も冷える。ゆっくり温まっておいで」
「うん」
こんな夜は身体を温めてすぐに寝てしまった方がいい。ただでさえアヤは風邪をひきやすいのだから、早くベッドに入るべきだ。
アヤが風呂へ行ってしまい、私は一人で暖炉の火を見つめながらブランデーを傾けていた。幸せだ、と思う。今確かに、幸せだと思う。この場所に戻ってきてよかったと今なら思える。母の事は思い出したくもないが、それでもサシャの事、私の事をアヤに知ってもらえた。ここに戻ってこなければきっと私はアヤに何も言えないままだっただろう。一人で全てを抱え込み、ずっと過去をこの家に閉じ込めていただけだっただろう。アヤが私の恋人でよかった。アヤが居てくれてよかった。誰もくれなかったものを、アヤだけが私に与えてくれるのだ。
全ては、母が―――。いや、思い出すのはよそう。母がそうしたように、私も全てを忘れてしまえばいい。アヤとの幸せな思い出だけを持って帰ればいいのだ。私を見てはくれなかった母。私を愛してくれなかった母。母は私の全てを忘れて、ここで生きていったのだ。
湧き上がる胸の蟠りを吐き出すように溜息を吐く。忘れてしまえばいい。全て忘れてしまえばいい。私はずっと独りで生きてきたのだ。思い切りブランデーを煽ったところで、視界の端にちらりとピアノが映る。私はブランデーをサイドテーブルに置き、ゆっくりとピアノに近寄った。
茶色く、滑らかなピアノ。このピアノを弾きもしたし、このピアノで歌いもした。私の中の音楽の根幹にあるピアノ―――。紛れもなくこれはピアノで、聞こえてくるのもピアノの音なのに、私の中では違う何かもっと崇高な音色に聞こえていた。私の最初の音楽は、このピアノから紡ぎだされたのだ。
ゆっくりと蓋を開け、椅子に腰かける。軽く息を吐いて、私は鍵盤を叩きだした。夜の闇の中を私の音が流れていく。ショパンの夜想曲第20番―――『遺作』。ショパンの最後の夜想曲だ。最初の4小節の導入部を最初はフォルテで、次はピアノで―――そして主題は静かに、音をなぞる。静かに静かに―――そして物悲しげに。母は私を愛してくれなかった。私を産んだことを呪っていた。私はあんなにも母を愛していたのに、母は私を憎んでいた。何故疎まれねばならなかったのか。何故こんな顔で生まれてきたのか。何故、生まれてしまったのか。私がいなければ母は幸せだったに違いない。顔も知らぬ父の事をそのうち思い切り、誰か新しい夫と幸せに暮らしたに違いない。私がいなければ、私さえいなければ、母は幸せになれたのだ。
だから私は、ここを去った。私が居れば母が不幸になる。私が居ればあの医者とも別れなければいけない。母は美しかった。誰よりも美しかった。そんな母が私の看守として一生を終えていいわけがない。囚人が居なくなれば、檻を見張る必要もないだろう。母が幸せであったならそれでいい。私を忘れて幸せになったならそれでいい。私も、私の母と同じように全てを忘れてしまえば幸せになれるのだ―――…。
弱く、弱く、弱く、最後の音を弾く。曲が終わってしまっても、私は顔を上げられなかった。ぽたり、と鍵盤に涙が落ちる。私は涙を拭い、ピアノを元通りにして何事もなかったかのように暖炉の前のカウチへと戻った。
アヤと入れ替わりに風呂へ入り、温まったところでベッドへと向かう。ベッドではアヤが私を待っていて、アヤの体温で温まったベッドへと招き入れてくれた。
「…エリック」
「うん?」
「冷えるから、もっとぎゅってして」
アヤが私に腕を広げて見せ、私もそれに応えてアヤを抱きしめる。
「エリック、いい匂いがする」
「お前だって同じ匂いだろう」
そう言ったアヤからも石鹸の匂いがし、私はその香りをゆっくりと胸に吸い込んだ。
「今日はすごく楽しかった。また何か聴かせてね」
微笑むアヤの額に口付け、耳元で囁く。
「お前が望むのなら、何時でも弾いてやる」
嬉しそうにアヤが私の背に腕を回した。
「好きだよ、エリック。あなたも、あなたの音も」
アヤの言葉の一つ一つが何だかとても嬉しくて、胸が熱くなる。
「今お前とこうしているのが怖いくらい、私もお前が好きだよ」
「何が怖いの?」
私がそう言うとアヤが顔を上げた。
「幸せだから…今が幸せすぎるから、それが怖い」
こんなに幸せでは、いつかしっぺ返しが来るのではないだろうか。今の幸せを失うのが怖い。私の心の中で囁き続ける、「お前は幸せにはなれない」という声が怖くて仕方がない。アヤの愛を疑っているわけではないが、それが永遠ではないような気がするのだ。
「…だいじょうぶ」
アヤが私を抱きしめる腕に力を込める。
「わたしがあなたを、もっともっと幸せにしてあげる。怖いなんて思えなくなるぐらい、幸せにするんだから!」
アヤの強気な発言に唖然とした私は、しばらく固まっているうちにだんだんと可笑しくなってきた。
「あ! エリックはそうやって笑うけど、わたしは本気なんだからね!」
腕の中でむくれるアヤが可笑しくて、可愛らしくて、私はアヤに口付けた。
「もう、ごまかさないで! エリックはわたしが幸せにするんだから!」
笑いが治まらないまま、息も切れ切れに私は何とかアヤに言った。
「それは…立場が逆ではないのか?」
「逆って?」
大きく息を吸って吐き、やっと呼吸を整える。
「そういうセリフは男から言うものだろう?」
「そんなの決まってないじゃない」
「それでも、そういう事は男から言うものなのだよ」
不満顔のアヤに向かって、私は言った。
「私が、お前を幸せにしてやる。この世界の誰よりも、お前が幸せだと胸を張って言えるぐらいに」
アヤが少し照れたように顔を背ける。
「ほら、言われて悪い気はしないだろう?」
「しない、けど…」
「けど?」
「わたしだってエリックを世界でいちばん幸せにしたいんだもん…」
その愛らしい一言に、つい頬が緩む。
「私は今でも十分幸せだよ。お前が私の横にいてくれれば、それでいい」
「でも…」
まだ言葉を続けようとしたアヤを制する。
「もしお前がいなければ、私はあの地下から出ることもなくサシャに会いに来ることもなかった。ずっと独りあの場所で、死んでいくことになったと思う」
そんな人生だと思っていた。つい、ほんの少し前までは。
「こんなに笑うことも誰かにピアノを聴かせることも、誰かと一緒の食卓が楽しいものだということも知らず、独りのままだった」
私を襲う孤独は酷いものだったが、それでも他人から浴びせられる中傷や蔑みよりはましだった。
「生きているのか死んでいるのかも分からないような世界に、ある日お前がやってきた」
変な恰好をした、言葉も分からない少女。他人と過ごしたことのない私は少女が言葉を話せるようになっても、一日一日が酷く憂鬱で、大変なものだった。
「それから私の世界は一変して、世界というものがこんなにも明るく、暖かいものだということに気づかされた」
だがアヤと意思の疎通ができるようになってアヤを知るうちに、どんどんアヤが好きになった。私を普通の人間として扱い、ただの『エリック』として接してくれる。そんな事をする人間は初めてで、最初は戸惑ったがそれが心地よいものだと気づいた。
「だからアヤ。私はお前が居てくれるだけで幸せなのだよ。…解るか?」
アヤが気恥ずかしげに、小さく頷く。
「だから、ずっと私の傍にいておくれ。朝が来て、夜になって、日がどれだけ廻ろうともお前さえ居てくれれば私はそれで十分だ」
アヤがまた頷き、私の胸に頬を寄せる。
「もう眠ろう、夜も遅い。こうしてずっとくっついていれば、懼れることは何もない」
「うん…」
そっと上体を起こし、サイドボードの蝋燭を吹き消す。部屋は随分と冷え込み、ベッドから少し出ただけでも寒さが身に凍みる。私はベッドに潜り込むと、もう一度アヤを抱きしめ直した。
「おやすみ、アヤ。愛してる」
「おやすみなさい…」
固く抱き合ったまま、静かに目を閉じる。アヤが居てくれればいい。他の事は全て忘れて、アヤとの思い出だけを大切にすればいい―――…。
アヤの寝息に溶け合うように、私はゆっくりと意識を混濁の海へと落としていった。