瞼の向こうに、薄明りを感じる。朝か―――。背中にもぞもぞとしたアヤの気配を感じて、寝返りをうつ。意識は醒めていっているが、どうにも暖かな毛布の魔力には抗いがたい。ぼんやりと耳を澄ましていると、どさりと窓の外から雪が落ちる音がする。いい加減に目を開けなければと決意して瞼を開けると、最初に視界に入ってきたのは、私を見つめるアヤの顔だった。
「…何をしている」
「おはよう」
 寝ぼけた顔でアヤが微笑む。
「ちょっとだけエリックよりも早く起きたから、エリックの顔見てた」
 ―――何をしているんだ…。何もやましいことはしていないのに、何故だか気恥ずかしい。
「…何が楽しいんだ」
「いろいろ」
 へにゃ、とアヤの顔が弛む。
「髪がきれいだな、とかまつげが密集してるな、とか思ってた」
「………」
 そんなにまじまじと観察されていたのかと思うと苦々しい気分になる。
「見るなとは言わんが…だが、あまり見られて気分のいいものではないな」
「なんで?」
 間髪入れずにアヤが訊き返す。
「何でってお前……あまり顔を見られるのは好きではない」
「えー」
 えー、ではない。聞き分けのない恋人をどう黙らせようかと思っていると、アヤが私の右頬に触れた。
「わたし、エリックの顔好きなのに」
「………」
「エリックが好きなのに」
 そう言ってアヤが私の首に腕を回し、身を寄せた。
「エリックの匂いも、優しいところも、全部好き」
 もう何を言えばいいのか判らない。
「もう……じゃあエリックは、わたしが青い目で金髪のフランス人の方がよかった?」
「…そんなことあるものか。何処の国の人間であれお前はお前だ。お前だから私はお前を愛しているのだ」
 アヤの肌の色など関係ない。アヤがフランス人であろうとインド人であろうと、私に普通に接してくれるアヤが好きなのだ。
「それといっしょだよ。わたしはエリックだから、エリックを好きになったの」
 どきりとするような答えが返ってくる。アヤの立場になって私のどこが好きなのかなどとは考えたこともなかった。
「エリックがいいの。エリックじゃなきゃいやなの」
「アヤ…」
 胸が熱くなる。アヤが一人の人間として私を愛してくれているのだと、改めてその事実を噛みしめる。アヤの華奢な身体をきつく抱きしめ、私は喜びに打ち震えた。こんな化け物のような顔の男でもいいと言ってくれる。この顔が好きだと言ってくれる。本当に、アヤは私をただの人間として愛してくれているのだ。
「お前の事をどれだけ愛しても足りないほど、私もお前の事を愛しているよ」
 アヤの髪を優しく撫でながら言葉を続ける。
「この世界の中で誰よりもお前の事を愛している。この柔らかな髪も、愛らしい唇も、何もかも」
 腕の中のアヤは、私の言葉に聞き入っているのか微動だにしない。
「お前が私を愛してくれているよりも、きっと私はお前を愛しているよ」
 腕の中のアヤは微動だにしない。
「…アヤ?」
 耳を澄ませば、小さな寝息が聞こえてくる。
「………」
 私はアヤの腕から逃れるとベッドを出て、思い切り毛布を引っぺがした。
「起きろ!」
「…ん…」
 いきなり冷気に晒され、アヤが身を縮める。手を伸ばして私と毛布とを探し、それが手近に無いと解るとやっと目を開けた。
「…おはよう」
 眠たげな眼を私に向ける。
「おはよう、ではない! 聞いていなかったのか!?」
「…なにが…?」
「なっ…!」
 何が、だと? アヤには珍しいほど情熱的な事を言いながら、何が、とはとんだ言い草だ。
「お前があんなことを言うから、私は…!」
「…わたし、なにか言った…?」
 そう言われて、私はやっと気づいた。―――アヤは最初から寝ぼけていたのだ―――。
「………」
 もう何も言えなくなって、私は溜息を吐いた。
「…朝食の用意をしているから、早く下りてきなさい」
「…うん…」
 とりあえず身体だけ起こしてやると、ぼんやりした声でアヤが返事だけはする。もう一度溜息を吐いて、私は部屋を後にした。


 アヤが眠い目を擦りながら降りてきたのは、皿をテーブルに並べ始めてからだった。すぐに顔を洗いに行かせ、熱いカフェオレを淹れる。村のパン屋の味にも飽きてきたし、そろそろパンでも焼いてみようかと思っているうちにアヤが水の冷たさに身体を震わせながら戻ってきた。
「今日も寒いね」
「そうだな」
 先程の事で、どうも素っ気無い返事をしてしまう。アヤの本心に違いはないのだろうが、それでもそれが寝ぼけていたためだと言うのが腹立たしい。普段恥ずかしがって中々言ってはくれないことだったのに。
「…あったかい」
 カフェオレボウルを両手で持って、アヤが息を吐く。寒がりなのに猫舌なのだ。暑いだろうと思えるほど服を着ていても、まだ寒いという。それで私にくっついてくるのは嬉しいのだが、どれだけ南の方に住んでいたのかと思う。
 まだ眠いのか言葉少ななアヤと、静かな朝食を摂る。カフェオレで身体が温まったのかアヤの頬に赤みが差してきたころ、私達は朝食を終えた。このころになるとやっとアヤが目を覚まし、支度をしてもらったのだから後片付けはすると私を台所から追い出した。冷たい水でアヤの手が荒れてしまわないか気になったが、若干の腹立たしさも残っていたのでアヤに任せることにした。
 一人で居間へ戻り、暖炉にいくつか薪を放り込む。アヤが戻ってくるまでに部屋を暖めて―――と、そこまで考えたところで腹立たしかろうが何だろうが、アヤの事しか考えていないことに気が付いた。つまらないことで何時までも腹を立てていては仕方がない。アヤの本心を聞けて良かったと思わなければ。私は溜息を吐いて書斎に向かった。アヤが居れば話でも音楽でもすることはあるが、一人になってしまうと途端に暇を持て余す。適当に何冊か棚から本を抜いて、私はまた居間へと戻った。
 ページをめくり始めてどれほど経っただろうか。アヤに声をかけられて、私は本の世界から現実に意識を引き戻された。
「…エリックってば!」
 肩越しに声をかけられて私は振り向いた。
「もう、話しかけても本に夢中で聞いてくれないんだから…!」
 そう言ってアヤが頬を膨らませる。
「ああ、すまないね。お前を待っている間につい夢中になってしまった」
 アヤがカウチの前に回り込み、私の横に腰を降ろす。そっと肩を抱くと、アヤが私の肩に頭を持たせかけた。
「…やっぱり、エリックにくっついてる時が一番あったかい」
 小さな呟きに、何だか嬉しくなる。私だって、アヤとくっついている時が一番暖かい。誰もくれなかった温もりを、アヤだけが私に与えてくれた。母ですら顔をそむけたこの顔を、アヤは愛しいと言ってくれる。こんなに心休まる気持ちになるのは、アヤが横にいるときだけだ。
 アヤの肩を抱いたまま、また本に目を戻す。しばらくしてまたぽつりとアヤが呟いた。
「雪、止まないね」
「そうだな」
「積もりすぎて家が埋まっちゃわないか心配だね」
「そうだな」
「…ちゃんと、聞いてる?」
「そうだ………何だって?」
 無意識に返事をそこまでして、はっとした。
「もう…やっぱり聞いてない!」
 本に集中しすぎて、話を聞き流していた。私が気付いた時にはもう遅く、アヤは頬を膨らませて私を睨んでいた。
「エリックが構ってくれないからつまんない」
「………」
 子供のように私を見るアヤの頭を撫でる。そのまま顎の下をくすぐってやると、アヤがぷい、と顔を背けた。
「…わたし、猫じゃないもん」
「構って欲しいのだろう?」
「そうだけど、そうじゃないもん」
 本を手放さない私に、アヤが非難の目を向ける。
「これを読んだら構ってやるから、それまで大人しくしていなさい」
 私がそう言うと、アヤは頬を膨らませたまま何処かに行ってしまった。拗ねたアヤに溜息を吐きながら、私はまた本へと視線を戻した。


 どれぐらい時間が経ったのだろうか。やっと本を読み終えて懐中時計を見ると、昼をとうに過ぎていた。そういえばあれからアヤはちょっかいをかけに来なかった。時間が時間だし昼食の準備でもしようと廊下に出て、アヤを探すためにとりあえず二階を見て見ようとしたところで、アヤが階段から下りてきた。
「いつの間にかこんな時間になってしまった。食事にしよう」
 私がそう言うと、アヤが無言で抱きついてきた。
「どうした? 構ってもらえずに寂しかったのか?」
 ほんの数時間構わなかっただけでこの甘え様だ。こういうところが可愛くて堪らない。
「…寒いだけだよ」
 ―――思いもかけないアヤの返事に、溜息を吐く。とんだ肩透かしだ。
「二階になどいるからだ。私の横にいれば暖かかったものを」
「だってエリックが一人で本を読んでたら、わたしは何もすることないんだもん」
 私は軽く笑って、アヤの頭に手を置いた。
「何なら今からベッドの中で構ってやっても構わんが?」
「…それは遠慮しとく」
「どうして? 身体も温まって丁度いいじゃないか」
「それでも…!」
 そこまで言ってアヤが顔を上げる。口元が緩んでいる私に気づいたのか、アヤはばつの悪そうな顔をした。
「…また、からかってる…」
 そう言って赤い顔をしたままアヤが私を睨み、階段を2、3段上がったかと思うと私の首に腕を回す。
「もう…」
 急に抱き寄せられたかと思うと、そのままアヤに口付けられた。私もアヤの腰に腕を回し、きつく抱きしめる。ひとしきり口付け愛を確かめ合ったところでアヤを抱き上げると、アヤが私の首に腕を回したまま、また軽く頬に口付けてきた。
「…お昼は温かいものがいいな」
 私は笑いながら今度は自分からアヤの頬に口付け、アヤを抱き上げたまま台所へと向かった。


 昼食のパスタを食べ終え二人で後片付けをし、また暖炉の前のカウチへと戻る。他愛もないことを話していたが、そのうちアヤの反応が鈍くなっていることに気づく。きっと食事を取り終えて眠くなってしまったのだろう。
「このまま私にもたれて眠ればいい」
「でも…」
 私がそう言うと、アヤが難色を示す。
「お前が寝てしまえば私はゆっくり本の続きが読めるからね」
「………」
 アヤはまた私を睨んだが、それでも眠気には勝てなかったのか私に身体を預け、それからいくらもしないうちに眠ってしまった。
「全く本当に…」
 子供のようだ。構ってやらなければ文句を言うし、すぐに眠ってしまう。それでも暖炉の前での暖かな午後の一時は、こんなにも幸せなものなのかと思う。私はアヤの頬を一撫ですると、新しい本を開いた。
 薪の爆ぜる音とアヤの寝息と、屋根の雪が落ちる音。それ以外には自分がページをめくる音ぐらいしか聞こえない。静かで暖かく、なんと幸せな時間なのだろう。主は確かに居られて私のような者にも幸せを与えてくださる。母に愛されずとも、今までどんなに蔑まれ辛酸を嘗めてきたとしても、今はこんなにも幸せなのだ。アヤは私の全てを受け入れ、赦し、私のような男でも愛してくれる。全てを知って、それでも私の横に居てくれる。子供時代の事を話しても、アヤは一歩も引かなかった。それどころか私と一緒に泣いてくれた。勇気を出して、此処へアヤを連れてきてよかった。アヤは昔の私も今の私も、どちらも等しく愛してくれるのだ。
 私の横で寝息を立てるアヤに視線を移す。寄りかかるアヤの体温が心地よい。母は私を愛してはくれなかったけれど、今はアヤが私を愛してくれる。こうして見ると本当に子供のようだが、それでも私には心強い。この場所にいることはもう怖くはない。アヤが一緒にいてくれるのなら、何も怖くはない。私はアヤと一緒に、ここでの全てを捨てて生きるのだ。私はまたアヤの頬を撫で、本に視線を戻した。


 どれほどそうして本とアヤの寝顔と視線を往復させただろうか。まだ眠そうな目を瞬かせて、アヤが目を覚ました。
「よく眠れたか?」
「うん…」
 寝乱れた髪でぼんやりとした返事を返す。私が頬を摘まんでも、まだ反応が鈍い。
「エリック…」
「うん?」
 寝ぼけたままアヤが私に抱きつく。私は苦笑して本を脇へ置き、アヤを膝の上に抱き上げた。
「今日はいやにくっついてくるじゃないか」
 首に腕を回してくるアヤの耳元で、そう囁く。
「うん……今日も、何かお話して…?」
 寝ぼけているのか寒いのか。だがアヤにくっつかれて悪い気はしない。アヤの頬に軽く口付け、私は話し始めた。
 どれだけアヤに昔話をしても、話し足りない。何があったのか、自分はどう思っていたのか、どれだけ話しても語りつくせない。小さなことも大きなことも、壁の落書き一つからサシャと過ごした夜の事も、全てをアヤに聞いて欲しかった。私が何かを話せばアヤはそれに興味深そうに聞き入り、色々な事を言う。アヤ自身はどう思ったか―――驚いた、悲しい、嬉しい、私の話なのに自分のことのように反応してくれる。時に私と意見が食い違うこともあるけれど、それでも様々な話をアヤにするのが楽しい。私は罪にまみれた人間だが、それでもアヤは受け入れてくれる。
「―――本当に、大変だったんだね」
 子供の頃の話をしているときに、アヤがぽつりと呟いた。
「大変、って一言じゃ表わせないのは解ってるけど、大変だったんだね…」
「アヤ…」
 アヤが随分言葉を選んでくれているのが解る。
「…生きるためなら何だってやった。そうしていなければ、私は生きてはいけなかった」
 盗みも、殺しも、生きるために必要だった。それはそのうち何の感慨も持たないただの手段になってしまったが、最初は本当にそうでもしなければ私が死んでいたのだ。
「…アヤ、私は奇麗な人間ではないよ。私の手は随分と汚れている。それでも、お前は私の傍に居てくれるか?」
 態度から解ってはいるが、アヤの口から言葉としてそれを聞きたかった。それでも私を選ぶと、言って欲しかった。
「………」
 アヤが無言で私の手を握る。
「生きるために仕方がなかったのなら、神様もきっと許してくれるよ」
 アヤは本当に、私が欲しい言葉をくれる。私の考えが分かっているのではないかと思えるほど、アヤの言葉は私が望むそのままだった。
「わたしだって、死ぬほどおなかがすいてたらパンを盗むかもしれないもん。それに、エリックはわたしよりも小さな子供だったんだから…」
 アヤがそのまま、私の首に抱きつく。そして優しく言った。
「でも、エリックは偉いよ。そこからちゃんと立ち直って、今はちゃんと働いてるんだから」
 ―――アヤの言葉に、思考が止まる。
「泥棒だって悪いことだけど、命がかかってるなら仕方ないと思う」
 ―――アヤは、何を言っているんだ?
「そこから悪い方に行く人が大半なのに、ちゃんと立ち直ったエリックは偉いよ」
 そこまで言われて、背中を嫌な汗が伝う。手先が震え、言葉が出ない。

 ―――私の悪事は、アヤの想像の範囲外なのだ―――!

「……お前は…私が何の仕事をしているか、知っているか…?」
 つっかえながら、何とか言葉を搾りだす。私がそう言うとアヤは顔を上げ、いつもどおりの悪戯っぽい笑みで答えた。
「もちろん。作曲家でしょう?」
 見ればわかるよ、と笑いながらアヤが言う。―――アヤは本当に、何も気づいていないのだ! 私が殺人者であることも、今も尚恐喝者として金を得ていることも―――!
 言わなかった私が全て悪い。だが、もう言えない。言ってはいけない。アヤは本当に、私が生きる最低限の罪を犯しただけだと思っているのだろう。遊び感覚で財布を抜いていたことも、数々の拷問具を作っていたことも、殺しの仕事をしていたことも、アヤは思いつきもしないのだ! 今更アヤに言うことはできない。私がそんな人間だと知られてはいけない。今はまだアヤは私を愛してくれるが、全ての罪を知ってしまえばアヤはもう私を愛してはくれないだろう!
 私はその時初めて、今まで犯した罪を心から後悔した。私はアヤに一生隠しておかねばいけない秘密を背負っているのだ―――…。アヤには言えない。言えるわけがない。もし言ってしまえばアヤは今のような優しげな表情をすることもなく、軽蔑の眼を私に向けるだろう。自分を抱く男が殺人者だと知れば、私を憎み、恐怖するだろう。言えない。アヤにだけは言えない。アヤを失うことだけはできないのだ!
 もし、アヤが私を愛してくれなくなったら、私はもう生きていけないだろう。二人でいることの暖かさ、心地よさを知ってしまった今、もはや独りになど戻れない。アヤの愛を失わないためならば、私は何だってできる。邪魔をする者が居れば、そいつを殺すことだってなんら怖くはない。アヤだけが私を愛してくれた。アヤだけが私に温もりを与えてくれた。これから先もアヤと二人で生きていきたい。アヤだけが、私の光であり救いである。アヤが、アヤだけが―――…。
「…っ…!」
 私はアヤをきつく抱きしめた。アヤは少しうろたえたようだったが、それでも腕の中で大人しくしていた。アヤを失わないためならば、私は全ての秘密を地獄まで持っていこう。誰にも明かさず、自分一人の胸に秘めて、アヤの思っている人間のように振舞おう。後悔を知ってしまった今、それは苦しいことだろう。だが、それはアヤを失わないための対価であり、きっとその苦しみこそが私が今までに犯した罪への罰なのだ。私は罪深い人間だ。そして今の今まで、その罪を省みることすらなかった。私は自分が恐ろしい。心根まで腐った、何と醜い化け物なのだろう。だがそんな化け物でも、アヤだけは失いたくないのだ。
 どんなに苦しくても、私は決して秘密を漏らすまい。己の罪の証なのだと受け止めて、罰の苦しさを堪えよう。私はもう、あの暗い牢獄に独りで閉じ込められるのは耐えられない。アヤが横にいない人生など考えられもしない。この先何が起ころうと、私はアヤとの生活を守りたい。アヤが私に微笑み、私に触れてくれる今までと変わらない生活を。どうして私はこのような顔で生まれてきてしまったのだろう。もし普通の顔であれば何ら後ろ暗いこともなくアヤに愛を語る事ができただろうに!
「アヤ…」
 アヤの顎を上げ、半ば無理矢理唇を奪う。恐ろしい。恐ろしくて仕方がない。アヤが居なくなってしまう事が、何よりも恐ろしい。もしアヤが居なくなれば、何があの地の底で私を慰めてくれるのか。他人を避け、逃げ込んだ私独りの地底の帝国で、アヤだけが私の太陽になった。アヤと言う光がなくなってしまえば、今度こそ私はあの暗闇で気が狂いそうになる孤独に耐えなければいけない。アヤが居ない頃は、そういうものだと思っていた。だがもう、あの頃には戻れない。
 何度も息を継ぎ、アヤの唇を貪る。絹糸のような髪をかき上げ、細い首に触れ、アヤが私のものなのだと確認したかった。アヤは私の行動に戸惑っているようだったが、それでも私を受け入れてくれた。
 いつの間にか、涙が溢れていた。胸が苦しくて仕方がない。ただ涙を流す私を見てアヤは心配そうな顔をし、今度は自分から私に口付けてくれた。どうして、アヤを手放せるものか。こんなにも私に優しくしてくれる人と、どうして別れられるものか。アヤを失いたくない。もう独りになどなりたくない。音楽も、彫刻も、建築も、アヤのいる生活に比べればただの手慰みに過ぎない。他に何もいらない。ただ、アヤと二人で歩む人生だけが欲しい。
「お前は、何があっても私の横に居てくれるか?」
 そう、アヤに問う。
「この先もずっと、私の横に居てくれるか?」
 何度訊いても、不安を拭い去れない問い。どれだけアヤが答えてくれても、心の奥底では信じきれない。
 そう訊いた私の頬に触れ、アヤは優しく微笑んだ。
「わたしは、あなたの横にいる。あなたの力になりたいし、何よりわたしも一緒にいたい」
 そのままアヤが私に口付ける。
「愛してる、エリック」
 ―――胸が痛い。アヤを騙していることが心苦しくて仕方がない。私はお前に愛してもらう価値のある男ではないのに―――! だが、私は嘘を吐き続けねばいけない。アヤを騙すことになっても、私はアヤの愛が欲しいのだ。
「アヤ…」
 優しく、愛しい私の恋人。どれだけ苦しくとも、この秘密を明かすわけにはいかない。目の前のアヤの顔が、涙で霞む。アヤは私の背中に腕を回し、私を抱きしめた。
「わたしはどこにもいかない。これからも、ずっと一緒だよ」
 ―――私は、アヤを騙しきってみせる。アヤと一緒にいられるように、アヤの思うような人間でいられるように、秘密を守りきってみせる。死後、どんな罰を受けても構わない。アヤと一緒にいられるなら、何も怖くはない。
 アヤが優しく私の背を撫でる。アヤの手の暖かさに、無性に胸が痛くなる。結局アヤは、私が落ち着くまでずっとそうして私を抱きしめてくれていた。


 食事を作る気力もなく、在り合わせのもので適当な夕食を摂る。食事は摂ったもののすぐにベッドに入る気にもなれず、結局私達はまた暖炉の前で薪を嘗める炎を見つめていた。薄暗い室内には暖炉の炎とサイドテーブルの上の燭台の明かりしか無い。私達はずっと無言で、手を繋いで肩を寄せ合っていた。会話は無いが、繋いだ手に力を入れると、アヤも私の手を握ってそれに応えてくれる。アヤの手の温かさが、嬉しかった。
 昼間はこの一時があんなにも幸せに思えたのに、今は何処か、気が重い。アヤは私の全てを知っていたのではなかった。私の過去全てを受け入れてくれたのではなかった。無論、何も言わなかった私が悪い。そして、未来永劫私はアヤに真実を話すことはできないのだ。
「アヤ…」
 顔を上げたアヤに口付け、抱きしめる。私が一番大切なのは、アヤだ。この関係を守るためならば、私は何だってできる。私が言わなければ、アヤは余計な詮索はしないだろう。このまま私独りの胸に秘めていれば、それで全ては丸く収まる。私が言わなければいい。私が、耐えればいい。そうすれば、アヤはきっと気づかない。今までどおりに私を愛し、慕ってくれるだろう。今まで言わなかったことを、これからも言わないだけだ。それだけで、私達の関係は守られる。―――簡単なことじゃないか―――…。
 大きく息を吸い込み、アヤの目を見る。アヤは今までと何ら変わることはなく、優しい目で私を見つめていた。
「…そろそろ、寝ようか」
 それだけ言い、燭台の蝋燭を吹き消す。アヤは頷き、私達は手を繋いだまま寝室へと向かった。居間とは違う冷えた空気に身を震わせ、ベッドに入るなりアヤが私にくっついてくる。
「明日は御用聞きが来るから朝から支度をしなくてはいけないよ」
「うん」
 ゆっくりとベッドが私達の体温で温まっていく。
「ケーキの材料を、頼んでもいい?」
「好きにしなさい」
 アヤが私の首に腕を回し、ぴたりと身体を密着させた。
「今夜も寒いね」
「そうだな」
「でもエリックとくっつけるから、寒いのは嫌いじゃないよ」
「…そうだな」
 ―――今、私は幸せなはずなのに。
「ねぇ、エリック。わたしにできることがあったら何でも言ってね。少しでもあなたのために何かがしたい」
「…ああ」
 ―――確かに、幸せなはずなのに―――。
 なのに何故、こんなにも胸が痛むのだろう。何と言い表していいのかも解らない様々な気持ちが、胸の奥に渦巻いている。私は幸せにはなれないのだろうか。罪深い私が、幸せを望んではいけないのだろうか。アヤに言わなければいいというだけの事なのに、アヤに隠し事をするのが辛い。いや、誰にだって秘密はある。人には言えないことが、誰にだってあるのだ。私は死ぬまで誰にも言うつもりはない。だが、その秘密を何かの拍子にアヤに知られてしまうのが堪らなく恐ろしい。
 私はアヤに嘘を吐かなければいけない。真実を絶対に知られないために、嘘を吐かなければいけない。相手を騙すことなんて今まで何とも思っていなかったのに―――。アヤを騙すことが心苦しいのか、アヤに全てを言えないことが辛いのか。だが、決してアヤに真実は話せない。私が人殺しの化け物だと、アヤにだけは言えない。私のような悪人が居るとアヤは気づかなかったからこそ、私を愛してくれたのだ。生きるためにパンを盗んだだけの子供のはずが、敵対し、または依頼されただけの相手を何人も殺していると気づけば、アヤは間違いなく私を捨てる。私をドブネズミ以下の醜いものを見る目で見、もはや笑いかけてなどくれないだろう。
 暗く、冷たい気持が胸に満ちる。アヤにだけは嫌われたくない。アヤにだけは捨てられたくない。アヤだけが私を愛し、私もアヤを愛している。アヤを幸せにするのは私だ。アヤの横に居るのは私だ。そのためなら、何だってできる。アヤを失わないためなら、何だって―――!
「エリック」
 アヤが私の名を呼ぶ。私がアヤを抱きしめると、腕の中でアヤが小さく笑う。
「すぐには無理かもしれないけど、辛い事は忘れよう? 今のあなたは立派に生きてるじゃない」
「…ああ、そうだな」
 アヤの言葉が胸に刺さる。アヤの思っている『私』と本当の私は天と地ほども違うのだ。
「これからは、わたしがいる。ずっと一緒にいて、一緒に幸せになろう? ね?」
「ああ…」
 忘れればいい。不都合な過去など全て忘れて、アヤと二人で生きていけばいい。
「…お前さえ居てくれれば、それで私は幸せだよ」
 私がそう言うと嬉しそうにアヤが笑った。
「わたしも、エリックが居れば幸せだよ」
 ―――何物にも代えがたい、私の宝物。愛しくて愛しくて、そして失うのが何よりも怖い、大切なもの。
「…もう寝なさい」
「うん、じゃあ、おやすみなさい」
 アヤが私の首から腕をほどき、頬を胸に寄せる。温かなアヤを抱きしめていると、すぐにアヤは寝入ってしまった。幸せになりたい。私だって、幸せになりたい。アヤと二人で生きるという些細な幸せを、私だけが望んではいけない道理は無いはずだ。
 溜息を吐いて目を閉じる。耳にはアヤの寝息と、風が窓を叩く音だけがする。何と言うことはないその風音に混じって、『お前は幸せになれない』という声が確かに聞こえたような気がした。