懐かしく、温かく、不思議な夢だった。まるで本当にあったことのように鮮明に思い出され、幼い日の私が救われたような気分になる。こんなに幸せな気分で目を覚ますことができるのは、ここに来て初めてだった。まだぼんやりとした気分のままアヤを抱き寄せようとして―――私の手は空を切った。
「!?」
 慌てて飛び起きたけれどそこにアヤはいない。これは夢だろうか。それとも私は最初から独りでここへ戻ってきた―――? いやそんなはずはない。私はアヤの姿を探して、ベッドから飛び降りた。階段を駆け下り急いで居間を覗く。そこはただ暖炉の火が燃えているだけでアヤの姿は無い。嘘だろう。アヤが居ないはずはない。私は恋人と、ここへ来たはずなのだ。廊下を走り、館の一番奥の台所へ駆け込む。
「あ、おはよう」
 ―――そこに、アヤは居た。
「………」
「そろそろ起こしに行こうと思ってたんだけど…。もうご飯ができるよ」
 夢の中と同じようなアヤの笑顔。何と表現したらいいのかわからないような気持が溢れ、私はアヤに駆け寄りアヤを抱きしめた。
「エリック…?」
 うろたえたようなアヤの声。夢ではない。温かな体温。優しい声。華奢な身体。現実に、アヤが私の腕の中にいる。
「…お前が私より早起きなどするから、雪が止まないのではないか?」
 それでも、お前が居ないのに飛び起きて、夢ではないかと姿を探したなどとはとても言えない。15も年下の恋人に、そんな恥ずかしいことを悟られるわけにはいかないのだ。
「そんなのわたしのせいじゃないもん」
 アヤが私から離れようと私を押す。
「こんなに寒いのにお前が私より先に起きて朝食まで作っている。…天気も荒れるわけだ」
「エリックがよく寝てたから起こさなかったの! お湯が沸かしてあるからそれ持って早く顔を洗ってきて!」
 湯の入った薬缶と共に廊下へ追い出される。やはりもう少しアヤは淑やかになったほうがいいと思うが…。そう思いながらも悪夢の続きではないことに胸を撫で下ろす。もしも、独りだったら―――。考えるだけでも恐ろしい。
 湯に少し水を入れ、顔を洗う。目の前にあるのは、この家で数少ない鏡の一つだ。醜い顔―――。何故私だけがこのような顔で生まれてこなければならなかったのか。もし私が普通の顔だったなら、母は私を愛してくれただろうか。そうしたら私はずっとこの家で育ち、ひょっとしたらこの村で誰かと結ばれていたかもしれない。想像もできないような人生だ。世界中を見て回り、ペルシャで宮殿を作るようなことも無かったのだろう。音楽に囲まれて音楽のことだけを考えて暮らすことも、アヤと出会うことも―――。確かにこの顔を持って生まれたことは不幸だと思う。だが今までの人生全てが不幸だったかと訊かれればそれは違うような気がする。『幸せを見つける』とはよく言ったもので、砂漠の砂の数ほどの不幸があっても、その大量の砂の中にも宝石が埋もれているのだ。何も無いと思っていた砂漠の中に私は宝石を見つけ、一つ見つけたことがきっかけで他の宝石も目に映るようになった。大小様々な宝石が、今では私の周りに満ち溢れている。
「ご飯にしよう?」
 洗面所の戸口からアヤが顔を覗かせる。私はタオルで顔を拭き、アヤの額に口付けた。


「しかし、よく一人で作れたね」
 二人で並んで後片付けをしながら、アヤに言う。昨日まではこの家の台所は使えなかったはずなのに。
「三日も見てれば覚えるよ。ちょっと時間はかかったけど」
 アヤができることがこの家でも一つ一つ増えていき、私の中にもまた一つ思い出が増える。
「今日は御用聞きが来るから、黒い服を着ておきなさい。あまり目立たない方がいい」
 濃紺や、黒や茶の目立たない服。メイドに見せるのならきちんとした格好をしておかなければいけない。
「じゃあ、着替えてくるね」
 片づけを終えてアヤが部屋を出ていく。私も細々としたものを片付け、居間へと移った。
 どれほど経っただろうか。上からアヤの軽い足音が聞こえる。その足音は跳ねるように階段を降り、真っ直ぐに居間へと向かってきた。
「着替えたよ」
 見ればアヤは私の言うとおりに黒い服を着、髪を上へと纏めていた。
「髪もそれっぽくしてみたよ」
「おいで」
 手招きをすると、アヤが駆け寄って私に抱きついた。
「可愛いメイドだな」
「心を込めて旦那様にお仕えいたしますわ」
 冗談めかしてアヤが言い、顔を見合せて笑い合う。一頻り笑い合ったところで会話が途切れ、沈黙を振り払うように私はアヤに口付けた。だが何時もと違いアヤが逃げる。
「どうした」
「…髭が痛い」
 眉間に皺を寄せ、アヤが迷惑そうな顔をする。はたと顎に手をやれば、確かに少しばかり伸びすぎた髭の感触がする。
「今日は仮面も付けてないし、いつもより当たってほっぺたがちくちくする」
 仮面。そう言われてまた顔に手をやる。―――仮面がない。
「ここに来て初めてだよね、素顔のままでいるの」
 朝飛び起きたまま、仮面のことなど終ぞ忘れていた。この場所で仮面を着けずに過ごす日が来るとは夢にも思わなかった。悪夢と仮面は対を成して私をこの小さな檻へ縛り付けていたのだ。
「わたしは素顔のエリックも好きだよ」
 私に初めて与えられたものは仮面で、それを取ることは許されなかった。醜い私の顔は隠されなければならなかったのだ。母も、神父も、誰も私を素顔のままで愛してはくれなかった。今まで誰も、そんな人はいなかった。だから私はずっと自分は不幸だと思っていた。―――宝石を拾うまでは。
「…お前は私の顔を醜いとは思わないのか?」
「『個性的』だと思うよ」
 少し笑ってアヤが言う。
「私の顔が怖いとは思わないのか?」
「もう見慣れちゃったもん。怖くなんかないよ」
 今まで誰がこんな答えを返してくれただろう。誰がここまで私を思ってくれただろう。例えようがないほど幸せな気分になって、私はアヤを抱きしめた。夢と同じに、アヤはこんなにも優しいのだ。
「痛い痛い痛い、髭が痛いってば!」
 少し頬が触れただけなのにアヤが文句を言う。私は唯今の気持ちを態度で表しただけなのに。
「もう、ちゃんと髭は剃ってよ! 痛いから剃るまでキスしないんだから!」
 アヤの最後通告に、私は溜息を吐いた。言い出したら聞かないアヤのことだ。このままでは本当に口付けすらさせてもらえなくなってしまう。
「分かった分かった、じゃあ『メイドさんに』お願いしよう。お湯を沸かしてくれないかね?」
 そう言うとアヤが満足げに笑う。
「『お任せください、旦那様』」
 アヤが台所へと去っていき、私はまた溜息を吐いた。


「お湯が沸いたよ」
 アヤが居間まで呼びに来て、私も台所へと向かう。
「お前では火傷をしてしまうから、私がやろう」
 湯に少し水を混ぜ、タオルに含ませてそれを搾る。
「他にも何か手伝うことある?」
「なら石鹸を泡立ててもらおうか」
 椅子に腰かけ蒸しタオルを顔に乗せ、アヤにそう指示をする。アヤはすぐに洗面所へ走り髭剃り道具の一式を持ってくると、石鹸を入れた器に少し湯を入れて泡だて器で泡立て始めた。
「一回やってみたかったんだよね」
 嬉しそうなアヤの声。小さな泡だて器と器で一生懸命泡を作っている様が少し可笑しい。
「これぐらい泡立てればいい?」
 しばらくして、アヤが言う。横目で見てみればやりすぎだと思えるくらい泡ができていた。
「…ありがとう。じゃあそれをこちらに…」
 顔を蒸らすのも頃合いだろう。一式を受け取ろうとすると、アヤが目を輝かせながら言った。
「ねえねえ、これ、わたしがぬってもいい?」
「………好きにしなさい」
 …そこまでさせるつもりは無かったのだが。だがあんな目で見つめられては断れるわけもない。アヤが私に伸しかかるようにして泡を付け始める。
「これくらい?」
「…もう少し下の方まで」
「あ、動かないで!」
 ―――どうしろと言うのだ。すっかり私は玩具にされているようで、少し頭が痛くなる。
「こんなことしたの初めて」
「当たり前だ。私が親なら結婚前の娘になどさせはしない」
「…じゃあわたしはいいの?」
 泡を塗りたくる手を止め、アヤが私の眼を正面から見つめた。
「…お前は私のものなのだから、問題無い」
「何それ」
 アヤが笑って、私の鼻の頭にまで泡を付ける。
「…泡はもういい、ありがとう」
 これ以上玩具にされていては堪らない。アヤを制して立ち上がると、アヤも後を付いてくる。専用のベルトで二、三度銀の剃刀を磨ぎ、冷たい刃を肌に当てた。
 何度も刃を滑らせ、泡と一緒に髭を削ぎ落とす。横ではアヤがタオルと湯を用意してくれていて、髭を剃り終わり私が顔を洗うと、笑顔でタオルを渡してくれた。
「これでいいだろう?」
 少し膝を落とし、アヤに頬を触らせる。
「うん、やっぱりつるつるの方が好き」
 注文の多い恋人を持つと苦労するものだ。
「これで…」
 アヤを抱き上げるとアヤが不思議そうな顔をする。
「何をしても文句は無いな?」
「ちょ…ちょっと!」
 アヤを抱きかかえたまま居間へと連れて行き、カウチの上に降ろす。
「髭を剃れば口付けてもらえるのだろう?」
「もう…!」
 私がそう言うとアヤは顔を赤らめながら、それでも遠慮がちに私の頬に口付けた。


 どれほどそうしてくっついていただろうか。私達の間に呼び鈴が割って入る。本来御用聞きなどは裏口から来させるものだが、敷地内を歩かれるのも嫌なので表から来るように言ってある。必要なものを教えると、すぐにアヤが出て行った。
「寒い所をわざわざありがとうございます」
 この茶番劇にアヤも慣れてきたのか乗ってきたのか。なかなか板に付いた喋りだ。
「卵と、パンと、ジャムと、あと、うさぎのお肉と…」
 アヤは兎のシチューがいたく気に入ったようで、また食べたいと言う。だから今夜は兎のパイにすることにした。そうして必要なものを伝えただけであの男は帰ると思っていた。―――が、帰らない。しばらく何かをアヤに訊き、やっと帰って行った。
「何だったのだ」
「ここに滞在してる旦那様はどんな人なんだって言われた」
 居間へ戻ってきたアヤに訊くと、そんな答えが返ってくる。どうして人というものは他人の領域に踏み込みたがるのだろうか。そんな煩わしさはずっと忘れていたというのに。余所者であり、アヤは東洋人でもある。目立つのは解っていたから館の外に出もしなかったのに…。きっとあの男の口から村中に話が伝わり、またあの男に詳しく訊くように頼んだものが居るのだろう。
「だからいろいろでまかせ言っといたよ」
「………」
 頬を薔薇色に上気させ、満面の笑みでアヤが胸を張る。
「…負けたよ、お前には」
 そう言ってアヤを抱き寄せ、頭をくしゃくしゃと撫でる。
「あ! 髪が崩れちゃうからだめ!」
 アヤが文句を言うが、構わず髪を乱し、そのまま抱きしめる。アヤは強い。優しくて、強い。こんなにもアヤが愛しいのは、私がアヤを愛しく思うのと同じようにアヤも私を愛してくれているからだ。私を愛し、心から私のことを思ってくれる。どうすれば一番いい方向に進めるのか、アヤは考えてくれている。だから私は、アヤに恥じない人間になりたいと思った。アヤの横を並んで歩ける、そんな人間になりたいと思ったのだ。
 ピンを抜き、髪をくしゃくしゃにしながら口付ける。最初だけアヤは抵抗したけれど、髪が解けていくにつれて諦めたのか大人しくなった。
「…もう、髪がめちゃくちゃ…」
 何度も口付けを交わし、やっと一息吐いたところで頬を赤く染めたアヤが呟く。
「そんなもの、いくらでも直してやる」
 もう一度口付けると、潤んだ目でアヤが私を見た。
「それで、『旦那様』はどういう人なんだね?」
 アヤがあの男に何を言ったのか。
「『旦那様』はすごく優しい人だよ」
 私の胸に頬をよせ、悪戯っぽくアヤが微笑む。
「旦那様は世界の海を股に掛ける貿易商で、世界中の国を見たことがあるの」
「それで?」
「アラビアも、インドも、ヨーロッパも、色々な国を巡って色々な事を知ってる」
 子供が話す空想のようなとりとめもない話。でもそんな話でもアヤと話すのは楽しい。
「旦那様が清にやってきたとき、身寄りのなかったわたしと出会って引き取ってくれたの」
 『旦那様の話』は随分大作のようだ。
「旦那様は寡黙で少し怖いけど、何も知らなかった私に言葉を教えてくれたり服をくれたり実は優しい人」
 よくもあんな短時間であの男にこんな話ができたものだと思う。―――慣れてきたのか、乗ってきたのか…。
「でも旦那様は偏屈で気難しくて、小さい頃から育ててもらったわたししかお世話ができないから、一人でお世話をしてるの」
「だからメイドはお前一人なのか」
「そうだよ、わたししか旦那様はお傍に置かないんだから」
 そこまでアヤが言ったところで、私達は顔を見合せ大笑いした。
「あの男はどんな顔をしていた?」
「わかったんだかわからないんだか、そんな顔だったよ」
 それはそうだ。こんな話を聞かされるとは思ってもいなかっただろう。
「でも嘘は大きい方が信じやすいって言うでしょう? だから全部でたらめ言っといた」
「お前にそこまで度胸があるとは思わなかったよ」
 本当にアヤと居ると飽きることがない。こんな面白い事があるなんて!
「だって本当の事がばれちゃったら大変でしょう? 取り繕うのが大変だったんだから」
 まだ笑いを止められないまま、アヤを抱きしめる。
「確かにそんな突拍子もない話なら、信じてしまうかもしれないな」
「でしょう? だからエリックはここでは貿易商の『旦那様』なんだよ」
 全く違う『私』を演じてみるのも悪くない。
「じゃあお前はここでは何なのだ?」
「もちろん、『旦那様』のアルベール・クラヴィエ氏に雇われてる清国人メイドの『リン』でございますわ」
 澄まし顔でそう言ったアヤと、またひとしきり笑い合う。こんなに笑ったのは久しぶりだ。
「それだけ言っておけばエリックに会いたいなんて人はいないでしょう? だからわたしだけでだいじょうぶだよ」
 アヤの機転には感謝しきりだ。私が表に出ることだけはあってはならないのだ。
「では私は安心していられるな」
「そうだよ、任せといて!」
 得意そうに笑うアヤの頬に口付ける。利発で、度胸もあって…本当に私はいい恋人をもったものだと思う。
「…さ、思いっきり笑ったところで…」
 アヤが私から離れる。名残惜しくて抱き寄せようとした私を、すぐにアヤが制した。
「髪、直してよね。いつあの人が戻ってくるかわからないんだから!」


 髪を結いなおしてしばらくしたところで、また呼び鈴が鳴る。アヤは自分が結ったときよりも私が結った方が髪型が美しくなることに、ずっと文句を言っていた。
「ありがとうございます、こちらがお品物ですね…」
 まるで本当にメイドであるかのような口調に、私はまた笑いそうになって、それを堪えていた。その時だ。
「きゃああああああああっ!!」
 絹を裂くようなアヤの悲鳴と、紙袋に入った何かが落ちる音、硬い何かが転がる音が聞こえた。
「どうした!!」
 私はカウチから飛び上がり、急いで部屋のドアのノブを掴んだ。だがその瞬間私の理性が私を押しとどめた。私は今、この部屋から出られないのだ―――!
 だが理性が働いたのは一瞬で、私は後先を考えずにアヤのもとへ駆け寄ろうとした。だが扉を開けるほんの一瞬前に、またアヤの声がした。
「な…何でもございませんわ旦那様!!」
 必死な声。何かがあったのだとはすぐに分かった。息を殺し、扉に耳を付けて二人の様子を窺っていると、御用聞きは二、三言葉を交わしてすぐに去って行った。
 御用聞きが扉を閉め、足音が遠ざかり―――私はすぐにアヤのもとへと駆け寄った。アヤの足元にはじゃがいもが転がり、アヤはそれを拾う様子もなく立ち尽くしている。
「何があったんだ!?」
 駆け付けた私がアヤに触れるか否かというときに、アヤはその場に座り込んだ。その手にはしめられ、血抜きをされたばかりであろう茶色い毛皮の兎が握られていた。アヤが震える手で兎を差し出す。私がそれを受け取ると、アヤは眉間にしわを寄せたままゆっくりと溜息を吐いた。
「…先ほどの悲鳴はこの兎か?」
 アヤが頷く。
「これがどうしたというのだ? いつも食べているじゃないか」
 アヤが首を振る。
「言葉にして言ってもらわねば困るな」
 私が溜息を吐くと、アヤが怯えた目で私を見た。
「…そのままだったから…」
「…何だって?」
「形があって、でも冷たくて、そんなの初めて見たから…」
 私はまた溜息を吐いた。
「要するにお前は食べられる状態の兎しか見たことがなくて、これに驚いたと言うのだな?」
 アヤが小さく頷く。いったい今までどんな生活をしてきたんだ。血抜きしたままの兎を見たことがないなんて世間知らずにも程がある。
「…まあいい、食材も来たことだし昼食にしよう」
 私がそう言うとアヤが青白い顔を上げた。
「ごめんなさい、気分が悪いから少し休むね…」
 か細い声でそう言い、アヤはよろめきながら二階へと上がっていった。私は半ば呆れながらそれを見送った。どうしたら血抜きをした兎が恐ろしいというのだ。
 結局私が一人で昼食を摂っていても、アヤは降りてはこなかった。仕方なく一人で兎の処理をすることにした。今処理をしておかなければ夜までに食べられなくなってしまう。
「全く―――」
 私は溜息を尽き、首に包丁をふりおろした。同じように足と尾も切り落とす。
「アヤがあんなに神経が細いなんて―――」
 腹にナイフを入れて皮をはぐ。
「…どうせ食べてしまうものなのに!」
 ある程度剥いだところで思い切り皮を引っ張ると、残りの皮が綺麗に剥けた。
「―――本当に、何が怖いのか―――」
 腹に手を入れ、内臓と食道を全て取り出す。腹の中を空にして、中まで水で洗った。取り除いた肝臓は2つに切って牛乳に漬けておく。
「大体、頭の軽い貴族の令嬢ではあるまいし、肉が食卓に上るまでにどうするかは解っているだろうに!」
 関節に切れ目を入れ、胴と全ての脚とを切り離す。胴も腰で二つにわけ、肋骨を開けば全て終わりだ。後はしばらく塩水に漬けておけばいい。
 そこまで下処理を終えてから、私はまた溜息を吐いた。アヤをどうにかしなければいけない。軽く手を洗って寝室へ向かうと、アヤは頭から布団を被っていた。
「大丈夫か?」
「…うん…」
 まだ赤みの戻らない紙のように白い顔を、アヤが毛布から覗かせる。
「どうしたというのだ、あれしきのことで」
「…ごめんなさい、慣れてなくて…」
 弱弱しい声。それほどまでに衝撃的だったのだろうか。
「何度も食べているだろう」
「…そのままの形は初めてだから…」
「…本当に見たことがなかったのか?」
 アヤが小さく頷く。いったい今までアヤはどんな育ちをしてきたのだろう。しめたての兎を見たことがないなんて! 俄かには信じられなかったが、アヤの様子からは嘘ではないことがうかがえる。私は溜息を吐いて、アヤの肩まで毛布をかけてやった。
「もう少し寝ていなさい。まだ顔色がよくない。夕食は食べられるようなら下りてきなさい。いいね?」
 アヤが頷いたのを見て私はそっと額に口付け、部屋を後にした。


 台所でまた独り、今度はパイ生地をこねる。バターと小麦粉を馴染ませ、冷水で生地を纏めていく。
「全く、アヤは―――…」
 もしかして、夕食も食べないつもりではないのだろうか。昼も食べていないのに、そんな身体に悪いことはさせられない。でも、あの調子では―――。今日何度目かの溜息を吐き、なかなか纏まらない生地を手に取った。
 しばらく生地に手間取ったが、やっと一つの塊になる。それは横へ避けておいて、今度はじゃがいもの皮を剥く。泥の付いた皮を全て取り除き、軽く洗って小さく切った。
「何が『任せといて』、だ」
 次に玉ねぎの皮を剥き、微塵に切る。
「あんな白い顔をして、何が任せられるものか!」
 フライパンに油を敷き、微塵にした玉ねぎを炒める。狐色になり香ばしい臭いが漂ってきても、私の心は重いままだった。
「―――全く…」
 また溜息を吐く―――が、結局どうしてもアヤの事が心配でならない。自分でも甘いとは思うが、アヤが夕食も摂らなくなってしまわないか、また熱でも出してしまわないか、そんな事が気にかかる。
 塩水に漬けておいた兎の肉を取り出し、ナイフで肉を削り取る。少し血抜きが甘いような気もするが、致し方ない。
「………」
 思えば、此処に来てからこんなにも長い時間独りで居たことはない。身を寄せ合うように、ずっと二人で居たのだ。すっかり暗くなった窓の外に、どんどん気分が滅入っていく。だが、アヤは私を置いていくことはない。私を独りここに残して、何処かに行ってしまうようなことはないのだ。竈で薪が爆ぜ、いつの間にか手を止めていたことに気づく。無駄な事を考えないように、私は骨から肉を剥がす作業に集中した。
 骨と肉とがすっかり分かれてしまうと、肉を包丁で叩いて細切れにし、炒めた玉ねぎとじゃがいもを加えてざっと練った。残しておいたスープで少し水気を足し、塩と胡椒で味を付ける。
「これの何が、衝撃的なんだ…」
 家畜は全て神が人に与えたもうたものであって、人に食べられるのは当然だろうに。でも思い返してみれば、魚の一つもアヤに捌かせたことは無かったような気がする。
「これからは、もう少し料理も教えなければ」
 パイ生地をパイ皿に敷き、たねを盛る。さらに上から生地を被せ、適当に切り目を入れた。
「あとは…」
 パイに解き卵を塗り、暖めておいた窯にパイを入れしっかりと扉を閉じる。これでしばらく置いておけばいい。水を火にかけ卵を入れて、次に私はとっておいた肝臓をバターで炒めた。しっかりと火が通ったところで先ほど炒めておいた玉ねぎの残りと刻んだ大蒜とスープの残りを加え、できたてのゆで卵と塩胡椒と一緒に鉢ですり潰した。兎一羽では大した量はできないが、二人だけの夕食で少し楽しむ分には十分だ。できたペーストを窓の傍に置いて、後はしばらく冷やしておけばいい。
「さて…」
 夕食の準備を一通り終えたところで、アヤの事が気になって私はそっと寝室へと上がった。扉の外から気配を伺えば、小さな寝息が聞こえてくる。そっと扉を開けてアヤを見れば、少しだけ頬に赤みが戻っていた。
「全く―――」
 本当によく心配をかけさせられる。しょっちゅう熱は出すし、生水は飲めないし、どれだけ身体が弱いのかと思う。だがアヤが言うには今までこんなに熱を出すこともなかったし、生水も普通に飲んでいたと言う。そのせいかアヤが大丈夫だと思うことと私が大丈夫だと思うことが違うようで、私は引っ切り無しにアヤを心配していなければならない。
 アヤの言う『大丈夫』がとても信じられないと言うこともよく解った。アヤは我慢強いのか堪え切れなくなるまで不調を訴えようとしない。傍目で見ていて到底大丈夫には思えない時にも、自ら言うことは少ない。もっと私を頼ってもらいたいものだ。
「アヤ…」
 頬にそっと触れると、柔らかな頬は冷え切っていた。アヤの言う『大丈夫』は全く信用できない。アヤの事が心配でならない。だが、アヤが私を励ましてくれる時の『大丈夫』は、何故だか信じられるのだ。
 私はアヤの肩まで毛布をかけ直してやり、優しく額に口付けると部屋を後にした。


 パイが香ばしい匂いを窯の中から漂わせ、食べ時を私に教えてくれる。窯から取り出して切り分けると、肉汁がつう、と滴り落ちた。温野菜と一緒に皿に盛りつけ、パンを切ろうとしたところでアヤが顔を見せた。
「大丈夫か?」
「うん」
 そうは言うものの、いつもより顔は白い。
「座っていなさい」
 私がそう言うと、アヤが大人しく席に着く。手伝わせて倒れられたら堪らない。
「さあ、食べよう」
 食卓に皿を並べると、アヤが両手を合わせて何かを呟き、パイに手をつけた。私はアヤが食事を始めたことにほっとして、自分の皿に手をつけた。
 あまり会話もなく、ただ皿にナイフとフォークが当たる音だけが部屋に響く。アヤが食事をしているのは嬉しいが、どうにも空気が重苦しい。
「…うまいか?」
「うん」
 アヤが返事をしてくれたことに安堵して、どうにかいつものような食卓に戻そうと私はもう少し会話に水を向けてみることにした。
「あー…パイが食べたいと言っていただろう? どうだ?」
「おいしいよ」
 ―――どうにも会話が膨らまない。だがここで諦めていては駄目だ。私はさらに会話を続けた。
「それで……そうだな、お前が夕食を摂るとは思わなかったよ。その…随分とショックを受けていたようだったから」
 私がそう言うと、アヤが手を止めた。私はその時、言ってはいけないことを言ってしまったと思った。―――だが、それは少し違った。
「―――そうだね、すごくショックだったよ。…でも、だから食べなきゃいけないと思った」
 アヤがまっすぐに私の眼を見た。
「すべての生物は生きてる限り他の生き物の命を奪ってる。それは仕方のないことで―――」
 静かだが、暗い目。だが、その奥には強い光があった。
「元の姿を見たから食べない、っていうのは偽善だと思う。それに、このウサギはわたしに食べられるために殺されたんだから、わたしが食べなきゃいけない」
 動物を食べるのは当然だと思っていた。神が人間に与えたもので、それ以外にはないと思っていた。
「命を頂いてわたしの命にするんだから、きちんと食べなきゃこのウサギも天国に行けないよ」
 そう言ってアヤが微笑んだ。少し困ったような、悲しいような、そんな頬笑みで。だが私はそんなことより、アヤの一言に驚いた。
「天国?」
「そうだよ、ウサギにだって虫にだって魂があるんだから、悪い事をした人以外はみんな天国に行くでしょう?」
 魂。天国。あの夜、人間にしか無いと言われて信じられなかったもの。
「…お前は…」
 そんな事を誰かが他に言ってくれるなどとは思わなかった。
「お前は、動物にも魂があると言うのか?」
「そんなの、あたりまえでしょう?」
 事も無げにアヤが言う。
「人と同じく、動物も死ねば天国に行くと言うのか?」
「人間でも動物でも、悪いことしなければ天国に行くでしょう? それに悪いことなんて人間しかしないんだから、動物はみんな天国だよ」
 そんな考えを持っている人が、私の他にもいたなんて。
「………じゃあ、……サシャは…」
「サシャが天国じゃなかったら、誰も天国へ行けないよ」
 アヤが今度は優しく微笑み、―――私は胸が一杯になった。誰かに、誰かに言ってもらいたかった。私のために殺されてしまったサシャが救われていると。サシャも天国にいると―――!
「だからきっと、今ごろサシャは天国の一番いい場所でゆっくりしてるよ」
 サシャが天国へ行けないなんて嘘だと思った。救われるのは魂がある人間だけだなんて、ありえないと思った。
「サシャはずっとあなたを愛してくれたんでしょう? だからサシャは天国にいるよ」
 アヤの言葉の一つ一つが、心に沁みる。言葉では言い尽くせないほどの感情が渦巻き、もう少しで泣いてしまいそうだった。
「…早く、食べなさい」
 アヤに一言でも気持ちを伝えたら、子供のように泣いてしまうかと思った。あの時私ではどうにもできなかったことが、やっと救われたような気がした。ずっとずっと心の奥底で自分を責め続けていたのに、アヤだけが私を赦してくれた。どうして、アヤはこんなにも私が求めていた言葉をくれるのだろう。アヤは何も知らないはずなのに、それでもアヤの言葉だけは信じられるのだ。
 アヤがまた手を動かし始め、部屋にナイフとフォークが皿に当たる音が戻る。私は胸がいっぱいになったまま、泣いてしまいそうなのを誤魔化して食事を終えた。


 言葉少なにベッドへ入り、どちらから何を言うでもなく抱き合ったまま時が過ぎる。もう、アヤは寝てしまっただろうか。私はといえば興奮が冷めやらず、まだまだ眠れそうにはなかった。
「……寝てしまったか…?」
 そう呟くと、アヤが私の背に回した腕に力を込める。
「何だ、起きていたのか」
 温かなアヤの身体を確かめるように、私も腕に力を込める。
「随分と静かだから、寝てしまっていると思ったよ」
 私がそう言うと、アヤが顔を上げた。
「あなたが眠りそうにないから、わたしも起きてようと思って」
 アヤの言葉に、少々面食らう。
「それに、夕方まで寝てたんだからまだ眠れないよ」
 笑いを含んだアヤの声。
「いつものようにずっと話しながら眠るのもいいけど、こうしてじっとしてるのも悪くないね」
 外の世界の音はなく、私とアヤの息遣いだけが聞こえてくる。蝋燭一つ付けてはいないのに、雪明かりでほんのりと視界は明るい。
「今日もくっついて寝よう。二人なら寒くないよ」
 ―――アヤは、私の心が解っているのではないだろうか。言葉には出さないだけで、私が何を考えているのか知っているのではないだろうか。サシャが救われていると、誰かに言って欲しかった。あのときはどうしようもなかったのだと、誰かに慰めて欲しかった。あの時の悲しみを、寂しさを、誰かに解って欲しかったのだ。
 いつの間にか、涙が溢れていた。そのまま動けずにただ泣いていると、アヤが私の胸に頬を寄せた。
「こう暗くちゃ何も見えないけど、こうしていれば安心できるね」
 腕の中の小さな温もりが、愛しくて仕方がない。どうしたらこの気持ちを言い表せるのだろう。どれだけ考えても、魔法のような言葉は欠片も思い浮かびはしなかった。
「おやすみなさい、エリック。…いい夢を」
 そう言っていくらもしないうちに寝息が聞こえた。温かな頬が定期的に胸に押し付けられ、何とも言えないほど幸せな気分になる。ここへ戻ってきて良かった。アヤを連れてきて良かった。アヤが居てくれて、本当に良かった―――。
 アヤの寝息を聞いているうちに、幸せなまどろみが私を襲う。熱い胸の内はそのままに、私はゆっくりと温もりに包まれたまま意識を手放していった。