冷えた朝の空気に頬を撫でられ、私はゆっくりと意識を浮上させた。―――どうしても、目覚めたときに生家の天井が目に入るのは落ち着かない。横で眠るアヤを起こさないように、そっと上体を起こす。外は明るくなり始めている。もういい時間だろう。
「…ん…」
 私が起き上がったことで布団に冷気が入ったのか、私にくっつくようにアヤが寝返りを打つ。抱きつこうとした私が横になっていないことに気づき、アヤがゆっくりと目を覚ました。
「…おはよう、エリック」
 まだ眠たげな目をうっすらと開け、アヤが私に呟く。
「おはよう」
 柔らかな頬にそっと口付けると、アヤは擽ったそうに笑った。
「今日も、雪?」
「ああ、まだ止みそうにない」
 窓の外はまだどんよりとした空が広がり、絶え間なく雪が降り続いている。
「…こんなに降ったら、家が全部埋まっちゃいそう」
「そうしたら春になって雪が溶けるまで、ずっとお前とこうしていよう」
 冷気が身体に堪え始めたので、私はまた布団に潜り、アヤを抱きしめた。
「寒いのは嫌だけど、あなたとずっとこうしていられるならそれもいいかもね」
「だってお前はベッドでこうしているのが好きなのだろう?」
 抱いたとき、口付けたとき、今まで色々なアヤの表情を見てきたけれど、こうして何もせずに抱き合っているときの表情は一番幸せそうにしているように思う。
「そうだね、こうして一緒にいるときは好きだよ」
 アヤが私の背に腕を回す。
「外はあんなに寒いから、暖かいベッドの中で一緒にいられるのは幸せだと思う」
 幸せ、という言葉がアヤの口から聞けて、私はとても嬉しくなった。どうやったらアヤを幸せにしてやれるのか。私はいつもそのことを考えていた。
「でも逆に、夏は暑くてこんなことしてられない。冬だから味わえる幸せだよね」
 なるほど、確かにそう考えて見れば、この寒さも悪くは無い。
「お前は幸せを見つけるのが上手いのだな」
 私がそう言うと、アヤがとても嬉しそうに笑う。
「そうだよ、だからもっと幸せにして?」
 そう言ってアヤが私の胸に頬を摺り寄せた。
「女王様の仰せのままに」
 アヤを抱きしめる腕に力を込めると、アヤは腕の中で楽しそうに声をあげた。


 一時そうじゃれて、私たちはやっとベッドから出た。寝間着にケープを羽織ったアヤはずっと寒いと言って私から離れようとはしなかったが、それすら幸せなことのように思える。暖炉に火をいれ、部屋が暖まるまでの間に湯を沸かし、茶を淹れる。朝とはいえ、空は暗い。降りやまぬ雪に陰鬱な気分になるけれど、それでも二人でこうしているのは楽しいと思う。
「今日も寒いね」
「そうだな」
 熱い紅茶を淹れたカップを両手で持ち、アヤはゆっくりとそれを飲み干す。体が温まってきたのか、白かったアヤの頬にうっすらと赤みがさした。
 外の音は何も聞こえず、時折風が窓ガラスを揺らす音と、屋根に積もった雪が落ちる音しかしない。私の周りでは暖炉で薪が爆ぜる音と、アヤの息遣いだけが聞こえてくる。静かだった。この家だけが外界から閉ざされて、世界が私たち二人だけになってしまったような気さえする。
 紅茶を飲みほして席を立つと、アヤも慌てて残りの紅茶を飲みほして立ち上がった。
「? ゆっくりしていればいい」
「ううん、わたしももう飲み終わるところだったから」
 ぱたぱたと軽い足音を立てながら、アヤが私の後を付いてくる。
「なら、すぐに朝食にしてしまおう」
 冷えた台所で竈の前に身を寄せ合うようにして、簡単な朝食を作る。パリの私たちの家と違い随分と古い型の台所なので、アヤは未だにこの家の台所を使えるようにならない。尤も私の家の台所も、最初は随分と使うのに苦労していたようだったけれど。
 朝食を終えて片づけをしても、妙にアヤが纏わりついてくるような気がする。うっとうしいというわけではないけれど、アヤにしては珍しい。私に触れるわけでもなくただ、傍にいる。何処となく様子がおかしいような気がしたので、私はアヤに訊いてみることにした。
「どうした?」
「…何が?」
「いや、少し…落ち着かないような気がしたから」
 私がそう言うと、アヤはこともなげに微笑んだ。
「ちょっと…ほんのちょっと、寒いだけ」
 アヤが私よりもずっと寒がりなのだということをついつい忘れてしまう。それにここはパリの私たちの家よりもずっと寒いのだ。
「大丈夫か? それともまた熱でも出そうなのか?」
 アヤの首筋に触れると、アヤが私の手に手を重ねた。
「だいじょうぶ。そういう寒さじゃないし、暖炉の前にでもいれば平気だよ」
「そんなに寒いのなら、暖炉の前に行こう。もう部屋も暖まっているだろう」
 片付けもそこそこに、私たちは居間へと移動した。ソファを暖炉の前へと近づけ、アヤを抱き寄せて座る。私には少し暑いが、アヤがいるから仕方がない。
「まだ寒いのか?」
「ううん…こうしてれば、大丈夫」
 アヤが私にもたれかかる。華奢な肩を抱く手に力を込めると、アヤは私を見上げてはにかんだ。


 それといった会話もなく、ただ二人で暖炉の炎を見つめる。時折私はアヤを盗み見ていたけれど、アヤはずっと穏やかな顔をしていた。静かな、静かな、二人だけの時間。この場所でこんなに幸せな気分になれるだなんて、想像したことすらなかった。暗く、重い私の少年時代の亡霊は、今でも私を悩ませ続けている。音楽だけが私の中で輝いていて、空想だけが友だった。母が私を抱きしめ、口付けてくれること、私の名で音楽と建築の粋を集めたオペラ座を作ること、何一つとして私の夢は叶うことはなかったが、それでも今は落ち着いた気分でいられる。私の横には、私の全てを受け止めてくれる人がいるのだ。
「アヤ…」
 こちらを見上げたアヤの顎を引き上げ、口付ける。湧き上がってきた愛しさがどうにもならなかった。アヤは何もせずに、ただ私を受け入れている。
 一時互いの唇を貪り合い、私たちはやっと息を吐いた。
「…もう、寒くはないか」
「うん、エリックと一緒だから…」
 頬を染め、少し目を潤ませてアヤが言う。幸せだと思う。悪夢の檻のようなこの場所でも、二人で肩を寄せ合っていればどうにか耐えていけるのだ。昨日私の過去を知ってしまっても、アヤは何も変わらなかった。私のために涙すら流してくれた。この喜びをどうやってアヤに伝えればいいのだろう。ありのままの私を受け入れ、それでいいと言ってくれる。今まで誰もそんなことは言ってはくれなかった。それが何よりも嬉しい。
 そこまでぼんやりと考えていて、ふとあることに気がついた。昨日私の過去を話して、知りたいことがあるなら訊けばいいと言った。だがアヤはいつものように何も訊こうとはしてこない。人間の当然の感情として、知りたいとは思わないのだろうか? 私はアヤのことならば何でも知りたいと思うし、知っていたいと思う。アヤはそう思わないのだろうか?
「………結局お前は、何も訊きはしないのだね」
 話したい、という感情とは少し違う。話したくはないことも、話せないことも一杯ある。それでも、私はアヤに歩み寄ろうと思った。私という人間を知って欲しかった。そしてアヤに知ってもらえれば、少しでも悪夢から解放されるような気がした。私の悪夢を知れば、アヤが私のためにまた泣いてくれるのではないかと思った。誰かと過去を共有したい。そうすれば、そうすれば、また、何か―――…。
 私がそう言うと、アヤが私の眼を見た。
「…名前はエリック・ムルハイム。年は34歳。オペラ座の地下に住んでて、性格は頑固で、強引で、とっても優しい。料理が上手で、歌もピアノも上手くて、手先が器用」
「…何が言いたいんだ」
 アヤが悪戯っぽい笑みを浮かべる。
「わたしが知っているのはこれだけ。これだけしか知らないけれど、一年以上一緒にいて、あなたがどういう人なのかはわかってるつもり」
「………」
「大切なのは現在と未来でしょう? …確かに全部知りたいとは思うけど、何を話すべきか決めるのはあなただと思う」
 ―――アヤはまた、待っていてくれたのだ。優しい心で、私が一番いいと思う路を選ぶのを待っていてくれたのだ。
「わたしはあなたが好きだから、あなたの嫌がることはしたくない。でも何が嫌なのかがわからないから、こうすることしかできない」
「アヤ…」
「あなたが好きだよ、エリック。だからわたしはどれだけでも待つつもり。何も言いたくないならこのままでもいい。あなたが何も話さないからってどうこうしたりはしないよ」
 アヤは優しい。アヤだけが私を愛してくれる。だが、話さなくても変わらないかもしれないアヤの態度が、もし『話してしまったら』変わってしまうのではないだろうか。私は人を殺した。一人や二人ではなく、数え切れないほどの人間を殺した。生きるために邪魔だったから、私に殺意をむけたから、人に頼まれたから、理由は様々だが結果は全て変わらない。私が、この手で殺したのだ。アヤの肩を抱くこの手で、アヤに触れるこの手で、私は幾人もの人間を殺めてきた。もしそのことをアヤが知ってしまったら―――! アヤは私を優しいと言った。アヤは私がそのようなことをしてきた人間だとは思いもしていないのではないだろうか? 昔は人を殺すことなどどうとも思っていなかったのに、今はただたった一人の人に知られることが怖くてならない。
「昨日少しだけ聞いた話は、すごく驚いた。それに話している時のあなたは辛そうだったから、それを見るとわたしも辛い」
 何処まで話すべきなのだろうか。全ては言えない。言えるわけがない。だが、これ以上隠すのはアヤを裏切っていることになるのではないだろうか。私を信じると言ったアヤの優しさを利用することになるのではないだろうか。
「わたしは今でも十分幸せだと思うし、もし何かあなたのためにできることがあればしたいと思う」
 アヤは過去の私を知らない。師として、友人として、恋人としての私しか知らない。それでもアヤは私と居て幸せだと言ってくれた。こんな男の傍ででも幸せだと言ってくれた。どうやったらアヤを本当に幸せにしてやれるのだろう。―――答えは一つしかない。私がすべきことは、ただ一つだ。
「…アヤ、もう寒くはないか」
「? うん…」
 迷いで混沌とした海の中に、一滴だけ勇気を見出す。それに縋るしかない。それに賭けるしかない。私の願いは一つであり、そのためにできることをしなければいけない。
「おいで」
 カウチから立ち上がり、アヤに手を差し出す。アヤは少し不安げな表情を見せたが、大人しく私の手を取った。
「家の中を案内しよう」
 アヤは一瞬驚いたような顔をしたが、すぐに優しく微笑んだ。


 居間の隣にある部屋の扉の鍵を開ける。扉を開けると僅かに黴臭さが鼻につく。
「ここは…」
「書斎だよ」
 顔も知らない父の学術書が置いてあり、それを夢中で読み漁った。美しく実用的な建物とはどんなものなのか、様々な場所に心の赴くままに書きなぐってよく母に怒られた。
「いっぱい本がある…」
 私と共に室内に歩を進めたアヤが溜息のように呟く。本棚に騒然と並んだ本にはどれも思い出深い。殆どの本が色褪せ黄ばんでしまっているけれど、目を瞑らずとも姿を思い出すことができる。
「難しそうな本ばっかり」
 埃っぽい室内は曇天で薄暗い。私の心を表わしているような風景に、少し気が滅入る。
「子供の頃のあなたに会ってみたかったな」
 しばらく本棚を眺めていたアヤが振り返り、言った。
「生まれてもいなかったのだから仕方がないだろう」
「…そんなこと言ったら今この瞬間にも、わたしはまだ生まれてないんだからね!」
 アヤの冗談めかした言い方に思わず苦笑する。確かにそうだ。だがアヤがまだこの時代に生まれてもいないというのは確かなのに、今私の目の前には確実にアヤがいるのだと思うと不思議な気分になる。そしてアヤが生まれる頃には私は生きていないであろうということも。
「だからひょっとしたらわたしが会っていたのは子供の頃のあなただったかもしれないでしょう?」
 信じられないことだと思う。最初にアヤに言われたとき私は確かに「信じる」とは言ったが、心の底からアヤの言葉を信じていたわけではない。だが一緒に暮らしてみて、考え方や時折アヤが話してくれる話や、様々なことからアヤが私とは違う世界から来たのだと思い知らされた。お伽噺としか思えないような出来事が俄かには信じられなかった。だがアヤはちゃんと此処にいる。私の一番の理解者として、最愛の人として。
「…私は今お前に出会えてよかったよ」
「どこが?」
「だってお前、今の私じゃなければ誰がお前を守ってやれる? お前自身がまだ子供だというのに」
「…そうやってすぐ子ども扱いするんだから!」
 アヤが頬を膨らませて私を睨む。そういう子供っぽい仕草がそれを助長させるのには気づかないらしい。
「悪かった悪かった、ここはもうこの位でいいだろう? 次の部屋に行こう」
 そう言って部屋を出ると、まだ頬を膨らませたままのアヤも渋々ついてくる。雑多な一階の他の部屋を見てゆき、また違う部屋を開けると、そこは小さな部屋ではあったが寝室が用意されていた。
「ここは…」
「使用人部屋だな」
 連れはメイドを一人、と言っておいたのを思い出す。親切な管理人はメイドの部屋も用意しておいてくれたらしい。
「………」
 無言でアヤが中へ入り、ベッドのシーツを適当に乱す。
「…何をしているんだ」
「だって…」
 ばつが悪そうな顔でアヤが私を見る。
「だってこうしておかなきゃこのベッドを使ってないってばれちゃうでしょう?」
 すぐにアヤの頬が朱に染まる。
「別に二度は来ないじゃないか」
「それでもそう思われるのが嫌なの! だいたいメイドじゃなくて愛人だって思われて恥ずかしいのはこっちなんだから!」
「私の愛人が嫌なのか?」
「そういうことじゃなくて!」
 よく解らない。
「もういいよ、二階に行こう、二階に!」
 アヤが強引に私を部屋から押し出す。結局アヤが何をしたいのかよく解らないまま、私たちは二階へと上がった。二階への階段の踊り場で壁にちらりと目をやる。ここにあった鏡はもう無い。だが、鏡はなくとも幼い日に見た恐ろしい悪夢が、未だにここの壁から抜け出てくるような気がするのだ。


 二階の私たちの寝室の隣は、南に面していて一番いい部屋だ。私たちの寝室との間の壁には扉が付いていて、此処に来た最初の日アヤが開けようとしたけれど、その扉には鍵がかかっていた。アヤは何時ものように鍵がかかっている部屋を詮索はせず、そして今まで何も訊かなかった。この家で私が開けたくない部屋は二つ。その一つがこの部屋だ。鍵など開けずに、ずっと閉じ込めたままにして置きたい。封印したまま、忘れてしまいたい。だが私はこの部屋の前まで来てしまった。最早戻ることなどできはしない。
「…ここはお前が開けてくれないか」
 この部屋は母の寝室だった。ここはできれば開けたくないが、ひと部屋だけ開けないというのもアヤがおかしく思うだろう。
 持っていた鍵束をアヤに渡すと、アヤは何も言わずに扉を開けた。
「きれいな部屋…」
 入りたくない。入りたくない。入りたくない。この部屋はあまりあの頃と変わっていないかもしれない。母が、夫となった誰かと過ごしたかもしれない。いや、きっとそうなのだ。あの医者と過ごしたであろう部屋なのだ。私の母にあの男が触れた部屋なのだ―――!
 考えるだけで気が狂いそうだった。考えたくもなかった。ずっと昔私に遺産相続の話を持ってきた代理人は私以外に受取人はいないと言ったが、それでも新しい夫がいたであろうことは間違いない。あの人が幸せであったならそれでいい。だが、割り切れるものではない。母が私を忘れてくれればと思った。忘れて幸せになってくれればと思った。あの時全てを捨て去ったはずなのに、それでもまだ胸が痛い。
「…エリック?」
 アヤの心配そうな声で我に返る。
「…だいじょうぶ?」
「問題無い」
 深く息を吸い込み、気分を落ち着ける。
「…違う部屋を見よう?」
 アヤにそう促され、私は母の寝室を後にした。
 二階の他の部屋は客間ばかりで特にこれと言ったものはない。廊下を進んでいくうちに、私の足取りが重くなっていく。この廊下の最奥に、私の最初の牢獄があるのだ。
「二階はもうこれだけかな………あれ?」
 ―――アヤが見つけてしまったようだ。
「ねえエリック、こんなところに階段があるよ」
 アヤは『冒険』に熱心なようで、どんどん先へと進んでゆく。軽い足取りで狭くて急な階段を上り、屋根裏部屋の…私の部屋の扉の前まで行く。
「えっと、鍵は…」
 鍵がぶつかり合う金属音を響かせ、アヤが一つ一つ鍵を刺していく。
「あれ? おかしいな…」
「…どうした」
 しばらく解錠に手間取っていたアヤが、不思議な顔で手を止めた。
「鍵がないみたい…」
 アヤは指を折りながら部屋の数と鍵の数を確かめている。
「うん、やっぱり部屋の数より鍵が一本少ない。この部屋の鍵が無いよ」
 奇妙なこともあるものだ。普通家の所有者を変える場合、全ての鍵を揃えておくはずなのに。
「どこかで鍵を落としたのかな? でもそれなら気づくはずだよね」
 溜息を吐いたアヤの息が白く染まり、中空へと溶けていく。
 開けたくないと思った私の願いが通じたのだろうか。まさかそんなはずはあるまい。私の過去をアヤに知られたくないと思う。だが逆に、私の過去を共有したいとも思う。矛盾するようではあるが、どちらも正直な気持ちだ。それでも私は全てを見せなければいけない。ずっと待っていてくれたアヤに報いなければいけない。そして幼い私自身を、この部屋から救い出さなければいけないのだ。
「…私が開けよう」
 断頭台に上がるような心持で屋根裏部屋へと続く階段を一歩ずつ上がっていく。
「お前のピンを…」
 アヤの髪に刺さっていたピンを引き抜き、形を変える。私は心を決めると溜息をつき、鍵穴の前に膝を付いた。
 ピンを鍵穴に差し込みしばらく中を探っていると、あまり手間を取ることもなく鍵が開いた音がする。
「…開けるね?」
 私の様子に気がついたのか、アヤが遠慮がちに訊く。右手をドアノブにかけたアヤの左手を、私はそっと握った。


 扉を開けると、黴臭い臭いが鼻につく。それはあの頃と同じ臭いで、私は一気にあの頃へと引き戻された。体が重い。頭が痛い。耳の奥で己の鼓動がやけに大きく響いている。アヤが大きく息を吸い込み、部屋へと踏み込んだ。私はそれにつられるように歩を進め、そこへと足を踏み入れた。
 私の牢獄。私の砦。私を守り、閉じ込めてきた部屋。ずっと忘れられなかった、私の部屋―――…。その部屋は何も変わってはいなかった。この家自体が何も変わっていないと思っていたが、この部屋は時がとまったように私の記憶のままだった。いや、少しそれは語弊があるかもしれない。この部屋は私の最後の記憶のままではない。『私が使っていた時のまま』、なのだ。
 何も変わらない。黴臭さも、薄暗さも、積み上げられた本やあの頃は宝物に見えたガラクタでさえも全て当時のままだ。
 すぐにでもこの場から逃げ出したかった。体が震え、息ができない。何故あの人はここを処分してはくれなかったのだ―――! 私のものには触れたくなかったのだろうか。触ることすらせずに、封印して忘れさろうとしたのだろうか。そうだ、あの人が私に構ってくれるはずがない。開けることすらせずに、この部屋と私を丸ごと忘れさろうとしていたのだ―――。
 アヤを連れて逃げ出してしまおうと思ったその瞬間、私の前に立っていたアヤが急に私に抱きついてきた。
「…アヤ?」
 細い腕を回し、アヤが必死に私に抱きつく。
「………エリック―――」
 ―――私の名を呼んだその声は、震えていた。
「こんな…こんな場所で……!」
 それ以上は嗚咽で聞き取れなかった。アヤは解ってしまったのだ。ここが、何の部屋なのか。震えるアヤの肩に左手を置くと、アヤが私の右手をきつく握りしめる。どう言葉をかけていいのか、どう動いていいのか、何も解らない。ふと、己の頬に何かを感じた。左手でそれに触れると、生暖かなそれは私の涙だった。
「エリック…エリック……」
 泣きながら私の名を呼ぶアヤを思い切り抱きしめる。そのままどうしていたのか、気がつけば私たちは元の暖炉の前のカウチで、抱き合いながら泣いていた。泣きながら何度も口付けを交わし合い、お互いの存在を確かめ合う。泣きじゃくるアヤの体温がひどく優しく感じられて、私はまた泣いた。
 今までの思い全てが溢れ出たかのように、涙が止まらない。そのうちに、私はぽつりぽつりと話を始めた。この家にいた頃の様々な話を。サシャと遊んだこと、母に怒られたこと、ものの仕組みを知りたがる子供だったこと、今は無い踊り場の鏡のこと、他愛もない話からずっと心の奥底にしまっていたような話まで、様々なことをアヤに話した。アヤは泣きながら私の話を聞いていた。
 どれほどの時間そうして語らっていたのだろうか。ふと気がつけば外が暗くなっていた。もう何度目かも判らない口付けをすると、アヤが濡れた目で私を見た。
「…やっぱり、子供の頃のあなたに会いたかった」
 私の首に腕を回し、そのままアヤが抱きついてくる。
「そうしたら、いっぱいこうやって抱きしめてあげられたのに…」
 しゃくりあげながらそう呟いたアヤの言葉に、何処かほっとした気分になる。
「今お前が、そう思ってくれるだけで十分だよ。その気持ちだけで私は救われる」
「…あなたが辛くないように、あなたが悲しまないように、そんなことができればよかった…」
 嬉しい。とても嬉しい。幼い私を、私自身を、抱きしめたいと言ってくれた。アヤは私を全て受け止めてくれたのだ。
「…泣くことしかできなくてごめんなさい。わたしだってあなたの役に立ちたいのに…」
「アヤ…」
 泣いてくれるだけでいい。幼い私の境遇を、悲しみを、一緒に分かち合い、泣いてくれる。私と同じ立場に立ってものを考えてくれる。そんな誰かがいるだけでどれだけ私が救われることか。
「…愛してる。愛してる愛してる愛してる。口じゃ言い切れないほど愛してる」
 アヤが私に抱きつく腕に力を込めた。
「でも、わたしに何ができるかわからない…」
 すすり泣くアヤを私も抱きしめる。心の底からアヤが私を思ってくれているのが判る。どうしてこれ以上アヤに何かして欲しいと思えるものか。私の横にいてくれるだけでいい。私の横にいて、私を抱きしめてくれるだけでいい。私を愛してくれる。それだけで私は幸せなのだ。
「…お前は、そのままでいい。何も変わらず、私の横にいてくれるだけでいい」
 今まで誰も私に安らぎをくれることはなかった。それをアヤは、この小さな体で守ろうとすらしてくれる。これ以上何を望む事があろう。
「過去は過去だ。今はお前がこうして私のために泣いてくれる。私のためにお前が流す涙が、私の砂漠のような心を潤してくれる」
 アヤと出会ってから、どれだけ心が明るくなったことだろう。私を愛してくれたこと、私を恐れなかったこと、私を受け入れてくれたこと、全てが初めてで、全てが嬉しかった。私がいいと言ってくれた。私がこの世界にいてもいいと言ってくれた。今まで誰もそんなことは言ってくれなかったのに、アヤだけが私に言ってくれた。
「愛している。お前がいなければ私は何もできなかった。ここに来られたのも、ここでの事を思いきれそうなのも、全てお前が居てくれたからだ」
 凍えるような寒さのこの家の中で、ここだけが暖かい。アヤだけが私を愛してくれる。アヤだけが私を抱きしめてくれる。ずっとずっと真っ暗だった私の世界に、今は光がある。外は暗くて雪が止まない。だが私の横には太陽が居るのだ。
 頬に幾筋もの涙の跡をつけて、アヤがまた私を見た。そんなアヤに口付けると、アヤはまだ泣きながら、それでも笑ってくれた。


「これからは、わたしが守ってあげる」
 手を繋ぎ、寄り添いながら暖炉の炎を見つめる。私もアヤも泣きやんではいたけれど、まだまだ離れがたかった。
「ずっとそばにいて、守ってあげる」
 嬉しい言葉だった。でもそれはもう私には必要ない。子供だった私は、もうここには居ないのだ。
「アヤ…」
 私はもう大人だよ、と言おうとした私の耳に、ぐう、と小さな音が聞こえた。アヤを見ると、途端に耳まで赤くする。
「…そう言えば昼食も食べてはいなかったな」
 今日は色々な事がありすぎて、食事のことなどすっかり失念していた。だが私に比べてアヤの腹時計は随分正確だったらしい。
「食事にしようか。泣きすぎて腹が減っているんだろう?」
 私がそう言うと、アヤがばつが悪そうな顔でこちらを見る。
「私も同じだ。こんな日は温かいものを食べて、早く眠ってしまおう」
 笑う私を、赤い顔をしたアヤが睨む。だが私が立ち上がると、アヤもつられて立ち上がった。
 手をつないだまま台所へ向かい、冷えた部屋の竈に火を入れる。夕食を作るために、私たちは数時間ぶりに手を離した。


* Jeux d’eau *


 体が温まっているうちに、私たちは床に入った。アヤは私を救ってくれた。今の私だけではない。幼い頃の私のためにも、涙を流してくれた。ここに来てよかった。アヤに全てを話してよかった。アヤと出会えて、本当によかった―――。
 他愛もない昔話の続きをしていると、時間が何時まであっても足りそうにはない。アヤに聞いてほしいことが一杯ある。その時私がどう思ったか、何をしようとしていたのか。悲しかった時の話をしてくれればアヤは慰めてくれるし、嬉しかったことや褒められたことの話をすれば、アヤも自分のことのように喜んでくれる。アヤに知ってほしかった。アヤに、幼い頃の私を救ってほしかったのだ。
 どれだけそうして話していたのだろう。随分と夜が更けてきていた。
「そろそろ寝なければ、明日に響いてしまうよ」
「じゃあ、話の続きはまた明日ね」
 話してよかった。私はどこかで、誰かに聞いて欲しかったのだ。私の過去を一緒に背負ってくれる相手が、心から欲しかったのだ―――。
「あ、忘れてた!」
 寝ようとしたところで、アヤが小さく叫んだ。
「…どうした」
「さっき、わたしが知ってる…ううん、知ってたことを言ったときに、一番大事なこと言い忘れてた」
 内緒話をするように、アヤが私の耳元で囁く。
「エリック・ムルハイム…わたしの恋人で、世界で一番好きな人」
 面食らった私を見て、アヤが小さく笑う。
「おやすみなさい」
 私が何も答えられなくなっているうちに、アヤはすぐに眠ってしまった。本当に、アヤは私を驚かせる。だがこうしてアヤに振り回されているのが、今の私には堪らなく幸せなのだ。
 私も、欠伸を噛み殺す。泣きすぎて私も疲れてしまった。人前で泣くことなど恥ずかしいと思っていたけれど、アヤと一緒に泣いたことでどこかすっきりしたような気もする。幼い頃の私はもういない。母は私を愛してはくれなかったけれど、今はアヤが居てくれる。過去は過去であり変えることはできないけれど、乗り越えることも、先に進むことも、アヤと一緒ならやれる気がする。全て忘れてしまえばいい。忘れて、新しい思い出をここで作ればいいのだ。


 その夜、私は夢を見た。幼い私があの屋根裏部屋で暗闇に怯えていると、アヤが現れて私に笑いかけてくれる。そんな、夢を見た―――。