どんな夢を、見ていたのだろうか。深く眠っていたような気もするし、浅い眠りの中で絶え間なく夢を見ていたような気もする。ふと気づくと暗闇が薄闇になり、光が感じられた。そうか、もう朝なのだ―――。私がゆっくりと目を開けると、上からアヤの声が降ってきた。
「おはよう、エリック」
笑顔で、アヤが私の顔を覗き込んでいる。アヤが私よりも早く起きているなんて珍しい。そう思いながら起き上がろうとして、私はやっとアヤの膝を枕にしたまま一晩寝てしまったことに気づいた。
「………」
昨晩あんなに取り乱した様を見せたのが妙にばつが悪く、私は無言で起き上がった。考えて見れば何と無様なのだろう。子供のようにアヤに縋ってしまった自分が、ひどく恥ずかしい。
「よく、眠れた?」
「…ああ」
笑顔でそう問いかけるアヤに、短く返事を返す。アヤは満足そうににっこりと微笑んだ。
「じゃあ、昼まで起こさないでね?」
そう言うとアヤが座を崩し、手で己の膝を伸ばした。
「あはは、感覚無くなっちゃった」
頭から被っていた毛布を取り、ベッドへ潜り込む。
「おやすみなさい、エリック」
「…どういう事だ」
名前を呼ばれてやっと己を取り戻した私は、アヤに尋ねた。昼まで起こすなだと? 足の感覚が無いだと?
「まさか、寝ていないのか!?」
「だって…」
アヤが小さく欠伸をし、少し悲しそうな顔で呟く。
「わたしが体勢を変えたらあなたを起こしちゃうだろうし、それに……たまにうなされてたから…」
―――そんなところまで見られていたのか―――。私は酷く自尊心を傷つけられた思いで溜息を吐いた。
「だから、昼まで寝かせてね?」
気恥ずかしくて何も言えない。そんな私に今度はアヤが溜息を吐く。何を言おうか少し思案し、そして何を思ったのか私を毛布の中へ引っ張り込んだ。
「…何がしたいんだ」
「寝ようと思って」
「お前は……その、…私のせいで疲れているのだろう? ゆっくり寝た方がいい」
私がそう言うと、アヤが悪戯っぽく微笑んだ。
「今日も雪が降っていて、窓の外は寒いんだよ? だからもう少し、暖かいベッドでゆっくりしてもいいでしょう?」
「一人のほうが落ち着いて寝られるだろう?」
アヤが呆れたように溜息を吐く。
「わたしはあなたと一緒のほうが、安心して寝られるの。…それに、わたしに悪いと思っているのなら、昼まで付き合ってくれてもいいでしょう?」
そこまで言われて私はやっと気づいた。アヤは私が気に病まない方法を探していたのだ。先手を打たれてしまっては、私はアヤの言うことを聞くしかない。だが、それでも私の罪悪感を軽くしてくれたことはやはり嬉しい。
「…わかった、私の負けだ。今日は幾らでもベッドの中で付き合うとしよう」
私がそう言うとアヤが嬉しそうに笑い、私に抱きついた。アヤに腕枕をしてやり、肩まで毛布をかけてやる。
「『これで、私は何処にも行けないだろう?』」
「それ、誰が言ったセリフ?」
そう笑い合い、アヤの額に優しく口付ける。肩を抱き寄せると、アヤが私の身体に腕を回した。
「エリック…」
「何だ?」
「……大好き」
そう言うが早いか、私が何と返そうか迷っている数秒のうちにアヤは眠りに落ちてしまった。随分と眠かったのだろう。夜通し起きていたなら無理もない。私はと言えば、情けない姿を見せたことが恥ずかしくて仕方が無かった。年若い私の恋人は、幻滅しはしなかっただろうか? 特に変わった様子は無かったけれど、内心驚きはしなかったのだろうか? だが、アヤが私を受け入れてくれたことは酷く嬉しい。アヤは温かかった。アヤだけが、温かかった。アヤが私に温もりをくれたのだ。
私に抱きついたまま眠るアヤを、私もそっと抱きしめる。安らかなアヤの寝顔を、私は何時までも眺めていた。
そのままいつしか私も浅い眠りに落ちていたのだろう。ふと目を覚ますと、随分と時間が経っているようだった。少し身体を浮かせて置時計を見る。時計の針は正午を少し過ぎていた。
「…ん…」
私が身体を動かしたことでアヤを起こしてしまったようだ。だが時間が時間なのでアヤに声をかける。
「起きなさい、アヤ。もう昼だ」
「…うん…」
眠い目をこすりながら、アヤが目を開ける。
「もう、お昼…?」
「そうだよ、お前につられて私まで眠ってしまった」
眠たげなアヤの頬をつつく。アヤは一層身を縮め、私にくっついてきた。
「ほら、起きなさい」
「起きる、けど…」
「けど?」
「もう少し、こうしていてもいいでしょう…?」
そう言うアヤに私は苦笑した。毎朝の事ではあるが、こうしているうちにいつの間にかまた眠ってしまうのだ。
「駄目だ駄目だ、夜に眠れなくなってしまう」
「起きるけど、もう少し…」
何時もなら無理矢理にでも起こして、ベッドから追い出している。だが、今日は仕方が無い。私が悪いのだ。私は己の愚かさに溜息を吐いた。
* Le Fierte *
結局私たちがベッドを出たのは、昼下がりになってからだった。色々とアヤに怒られながら昨日のアップルパイと紅茶で軽く腹を満たし、昨夜散らかしたままのものを片付ける。今日も降り続く雪で、私が昨日掘った穴もまた埋まってしまったに違いない。私はサシャの居る果樹園を、暗い気持ちで見つめていた。
「エリック?」
暖炉周りを片付けて、一息吐いたところでどれ程時間が経っていたのか。アヤに呼ばれて、私は我に返った。
「どうしたの?」
何時から見られていたのだろうか。振り向けば、扉の前でアヤが少し心配そうに此方を見ている。
「…何でも無いよ。台所の片付けは終わったのか?」
「うん、全部終わったよ」
台所の片づけをアヤに任せて、私は脱ぎ散らかした服を片付け、暖炉の中の炭を掻き出していた。昼間でも暖炉に火を入れていないと寒さが強い。
「おいで」
私が手招きすると、アヤが少し小走り気味に駆け寄って来た。
「やだ、ほっぺが炭で汚れてる」
私に抱きつこうとしたアヤが、寸前で動きを止めて言った。
「うん? ああ」
「あ、擦っちゃだめ!」
手の甲で汚れを拭おうとした私を、アヤが慌てて止める。
「だめだよ、擦ったら広がっちゃう」
アヤはポケットからハンカチを出し、爪先立ちになりながら私の頬を優しく拭ってくれた。何だか少し気恥ずかしい。
「袖や仮面に付いたら落とすのが大変でしょう?」
「…ああ」
いい年をして、十以上も年下の少女に世話を焼いてもらう自分が滑稽な気がする。私の頬の汚れを落として、ハンカチをポケットにしまい込んで、漸くアヤが私に抱きついた。
「寒くは無いか」
アヤを抱き上げ、ソファに腰を下ろす。部屋が暖まるまでにはもう暫く時間がかかるだろう。寒がりなアヤが風邪をひかないか、それが心配だった。
「だいじょうぶ。寒くないようにちゃんと着てるし。それに…」
膝の上のアヤが私の胸に肩を預けた。
「こうしてれば寒くない」
悪戯っぽい目で笑うアヤを見て、何処と無く気持ちが軽くなる。
「……そうだな、二人なら寒くないな」
私はアヤをそっと抱きしめた。
そのまま何となく私達の会話が途切れ、暫く無言の時間が続く。外からは風の音が聞こえるくらいで、私の耳にはアヤの息遣いと薪が爆ぜる音くらいしか聞こえては来ない。段々と部屋が暖かくなっていくほどに、私の心は陰鬱になっていく。私だけ暖かな思いをしていて良いのだろうか。サシャはこの雪の中、冷たい地面の下にいると言うのに。
哀れなサシャは、私を恨んではいないだろうか? ずっと友達ではあったけれど、サシャは私のせいで殺されたのだ。あの夜のことは忘れていない。暖かだった毛皮に、どんどん死が染み込んで冷たくなっていくあの感触。自分でもどうしようもないほどの憤怒。傷の熱さよりも何よりも、サシャが居なくなってしまった心の痛みのほうが強かった。サシャだけがこの家で温かかった。サシャだけが私の醜さを嫌わなかった。サシャだけが私を心から愛してくれた。それなのに私はサシャを助けてやれなかった。悲鳴を聞いたのに、サシャは最後まで私を守ろうとしてくれていたのに、私は何もしてやれなかったのだ。
「―――サ、シャ?」
不意にアヤの呟きが耳に入り、私は酷く動揺した。いつの間にか考えていたことが口から漏れていたようだ。
「………エリック」
アヤがいきなり私の首に抱きつく。そして大きく息を吸い、言った。
「…一人で考えないで。一人で行ってしまわないで」
「アヤ…」
「お願いだから、わたしも一緒にいさせて……!」
アヤの言葉は何時ものように真っ直ぐで、飾り気がない。何時もはそれが嬉しいのだけれど、今日は何故だか責められている様な気がして、私は苛立った。
「………お前に、何が解る」
アヤの身体がびくりと強張る。
「お前は今まで幸せな人生を歩んできたのだろう? …そんなお前に何が解るというのだ」
「……………ごめんなさい………」
そう言ったアヤの声は震えていた。そしてアヤは身体を強張らせたまま私から離れ、そのまま走って何処かへ行ってしまった。
アヤが居なくなり、独りになった部屋で溜息を吐く。これではただの八つ当たりだ。無力な自分への苛立ちを、アヤに向けてしまった。アヤはずっと私を心配してくれているのに、私はアヤを傷つけてしまったのだ。何の考えも無しに、愚かしい言葉を浴びせたことを謝らなければいけない。どうして何時もこうなってしまうのだろう。悪いのは全て私なのに。
「アヤ…」
「はい」
寝室まで行き、扉を叩く。直ぐに返事が返ってきたことに、私は少し動揺した。
「…開けてもいいか?」
「お好きにすれば?」
―――棘のある言葉。アヤはどれ程怒っているのだろう。私は酷く沈んだ気持ちで扉を開けた。何を言われても覚悟するしかない。だが扉を開けると、アヤは一心不乱にトランクに荷物を詰めていた。
「何を…」
「帰ります」
アヤは私を見ようともしない。
「家に帰って荷物をまとめて、あそこを出ます」
「アヤ…!」
「…あなたの持っている壁を越えることはわたしには無理でした。―――わたしには解らない」
酷い悪夢のような、胃の底から湧き上がる様な吐き気。アヤが振り返って何も言えなくなった私を見た。
「ずっとあなたの横に居たいと思ってた。でもわたしにはそれができない。―――だから誰か、他の人を探して」
―――アヤの目は怒ってはいなかった。そこに映っていたのは、ただ悲しみだけだった。青ざめた顔のアヤが、またトランクへと向き直る。
「あなたを解ってくれる人が現れますように」
何も言えない。何もできない。ただ胸が痛い。私は呆然とアヤが荷物を詰め終わるのを見ていた。閉じたトランクに鍵をかけ、コートを羽織る。トランクを持ったアヤが私の横を通り過ぎようとしたところで、私は我に返り慌ててアヤの肩を掴んだ。
「アヤ…!」
抑揚の無い声だけが、私に返ってくる。
「…わたしは何もできない。あなたにはもっと、ふさわしい人がいると思う」
「止めろ! そんな事を言うな!」
咄嗟にアヤを抱きしめたが、やはりアヤは何の反応もしてはくれない。
「…ごめんね、何もあなたの力になれなかった」
「止めろ…止めてくれ……!」
アヤが居てくれるだけで、それだけでいいのに。
「これから先、ずっとあなたが幸せでありますように」
そう言ってアヤがまた歩を進めようとする。私はアヤを抱き上げベッドに下ろすと、小さな身体を抑え付けた。
「…どうして? 確かにあなたの言うとおり、わたしじゃ何も解らない。この先もそれであなたを傷つけてしまうかもしれない。」
「…アヤ…!」
何を言えばいいのか解らない。何を言えばアヤを引き止められるのか。どう考えても、そんな都合のいい言葉は思い浮かびはしなかった。
「あなたを傷つけることは絶対に嫌だから、それならやっぱりわたしよりいい人を見つけた方があなたのためだと思う」
「止めてくれ! …お願いだから…」
アヤが溜息を吐く。
「放して、エリック」
「嫌だ! 放したらお前もいなくなってしまうじゃないか…!」
「…だめだよ、わたしはあなたに幸せになってほしい。だから無力なわたしより、もっといい人を選んで?」
「違う! 無力なのは私だ! ―――私が何もできなかったんだ―――!」
耳に残るサシャの悲鳴。何もできなかったあの頃の自分と、私は何も変わっていない。
「エリック、もっと自分の幸せを考えて? ―――わたしはあなたに、何もしてあげられない」
「もう言うな…!」
私は咄嗟にアヤの口を己の口で塞いだ。アヤは身じろぎ、私から逃げた。
「やめて……!」
アヤが私の腕から逃れようとし、酷く暴れた。私が抑え付けても、アヤは暴れるのを止めようとはしない。
「お願い、放して!」
アヤの目から涙が零れ落ちる。
「…わたしじゃ、何もできないから…!」
「…私が、お前じゃなければ嫌だと言ってもか?」
びくりとしたアヤが暴れるのを止め、私から顔を背ける。
「さっきのは八つ当たりだ。…すまない」
「でも…」
私は何と酷い事を言ってしまったのだろう。アヤは今まで、ずっと私を支えてくれた。アヤがいなければ、私はここに戻ってくる事も無かったのだ。アヤに何も言わない私がいけないのに。いつの間にかアヤに甘えすぎていた事を私は恥じた。
「すまない、少し…苛ついていた。私はお前を愛しているし、お前以外の誰かなど考えた事も無い」
私にはアヤしかいないのだ。
「お前が居てくれるだけで私は随分救われているし、これからもずっと傍に居て欲しい。…勿論、お前さえ良ければ、だが」
「…でも、わたしは…」
「私は、他の誰でもなくお前に傍に居て欲しい。私にはお前が必要なのだ」
他の誰も、私を愛してはくれなかった。アヤだけが、私に手を差し伸べてくれた。
「お前に酷いことを言ってしまって、本当に悪かった。お前には感謝しているのにあんな事を言ってしまうなんて、私はどうかしていた」
「…あなたの言うとおり……わたしは何も解らないのに………?」
「…解らないなら、知ればいい」
私が何を言っても、アヤは泣いたままだった。抑え付けた身体を離すと、アヤは枕を抱えて身体を丸めた。息遣いと震える肩で、アヤがすすり泣いているのが解る。今更後悔しても遅い。私がアヤを拒絶したのだ。
「アヤ…」
暗い、暗い、ここでの思い出。醜い私が生まれたことが間違いだった。それがそもそもの過ちだった。醜い私を、誰も愛してはくれなかった。―――そう、サシャを除いて。
「―――昔、一人の男の子が生まれた。その男の子は悪魔のような顔をしていて、母親すらその子を愛そうとはしなかった」
アヤの肩がびくりと震えた。
「男の子が最初に与えられた衣服は、醜い顔を隠すための仮面だった。男の子はずっと家に閉じ込められて、外にすら出してもらえなかった。―――こんな悪魔が居ることを他の人間に知られたくなかったからだ」
もし、私が普通の顔だったなら母は私を愛してくれただろうか。
「だが、彼には一人だけ友達が居た。友達は人間ではなく犬だったけれど、ずっと男の子の傍にいてくれた」
もし、私が普通の顔だったなら人目を避けるような暮らしはせず、私の名で歴史に残るようなものを発表することができただろうか。
「独りだった男の子には、犬だけが友達で、犬だけが温かかった。他には誰も、男の子を愛してはくれなかった」
もし、私が普通の顔だったなら―――。
「男の子が大きくなるにつれて、『悪魔』が居ると人々の噂になり始めた。悪魔を追い出そうと中傷したり、石を投げたりするようになった」
想像できないような人生。その全てが『もし』という言葉で始まる。だが、『もし』そんな人生だったなら、アヤほど愛せる相手に出会えただろうか。
「人々の行動が激しくなったある夜、男の子の家にまで人々が押しかけた。石を投げたり、扉を蹴ったり、彼らは狂気に染まっていた。そして彼らの狂気が向かったのが、運悪く外に繋がれていた―――男の子の友達だった」
誰もが私の顔を嫌った。誰もが私を受け入れはしなかった。私の顔が醜いというだけで、誰も私を見てくれなかった。だが、たった一人。たった一人だけが私を受け入れてくれた。
「友達は殺されて、男の子も深い傷を負った。男の子は友達を裏の果樹園に葬ってやり、そして―――愛してくれる人の居なくなった家を出た」
「エリック…」
アヤが泣きながら私に縋り付いた。
「…あなたは……!」
それだけ言い、アヤは一層激しく泣き始めた。私はアヤを優しく抱きしめ、言った。
「古い話だよ。―――ずっと昔の」
そう、全て昔の話で、今の私にはアヤが居る。幸せだと思ったことなど一度も無かったが、今は心からそう思えるのだ。
「―――その友達が…サシャなんだね―――」
「そうだ。ずっとサシャの事だけが気がかりだった」
アヤの髪を撫でながら、優しく話しかける。
「昨日のあの場所がサシャのお墓で、だから、あなたは―――」
この家での最後の思い出である場所。私の友達が眠る場所。一度も戻っては来なかった家だけれど、売ってしまうことにしてもサシャの事だけは思い切れなかった。だから、私はここへ戻ってきた。最後のけじめを付けるために。
「ずっと、ずっとあなたはそんな―――」
腕の中のアヤがまた一層激しく泣き始めた。私のことを想って泣いてくれる人が居る。それがどれだけ幸せなことなのか。誰もが知っている幸せを、私は新たに噛み締めた。
「…馬鹿だね、お前が泣くことはないじゃないか」
「でも…、ああ、エリック……!」
北風が窓に当たり、ガラスが揺れる。泣きじゃくるアヤの身体が温かくて、私はまたアヤを抱きしめた。
「昔話の結末はこうだ。―――ずっと独りだった男の子は、大人になってやっと愛してくれる人と巡りあい、幸せに暮らしましたとさ」
アヤの前髪をかき上げ、額にそっと口付ける。
「―――お前と出会えて本当に幸せだよ、アヤ」
ずっと諦めてはいたけれど、それでも何処かで期待していた。誰もが私を忌み嫌う中、誰かは私を愛してくれるのではないか、と。
「…エリック…エリック……!」
今までの誰とも違う価値観で、私の全てを受け入れ、愛してくれる。そんな人が現れるのを、私はずっと心待ちにしていたのだ。
泣き止まないアヤにもう一度口付け、私はアヤを抱き上げた。
「…もう、泣くのはお止め。昔がどうであろうと、今はお前が居てくれればそれだけでいい」
しゃくり上げるアヤを連れて台所へ行き、椅子に座らせる。お湯を沸かして紅茶を入れて、それをアヤが飲み干す頃、やっとアヤは落ち着いてきた。
「大丈夫か?」
私がそう尋ねると、アヤが小さく頷く。
「まず―――」
アヤの向かいに座り、ティーカップを持ったまま俯いているアヤに話しかける。
「先程はすまない。本当に、ただの八つ当たりだ。赦して欲しい」
アヤがまた、小さく頷く。
「そして、もう出て行くなどとは言わないでくれるね?」
もう一度、アヤが頷く。私が安堵の溜息を吐くと、アヤがぽつりと呟いた。
「………って…」
「うん?」
「…わたしも、サシャのところへ連れて行って……?」
思いがけない申し出に、私は驚いた。どう返していいのか解らない。外は雪がちらついていると言うのもあり、あまりアヤを外へは出したくない。だが私の小さな考えは、次のアヤの言葉で打ち砕かれた。
「わたしも、あなたの友達にちゃんと挨拶したいの。今はわたしが一緒にいるって、ちゃんと言いたい」
それを聞いて、私は心から嬉しくなった。あんな過去を聞いても、アヤの態度が何も変わっていないことも嬉しいし、何よりサシャを私の友達だと認めてくれたのが嬉しかった。
「…いいでしょう?」
私が頷くと、アヤが少し照れくさそうに微笑んだ。
アヤを連れ、暗くなった果樹園へと向かう。やはり私が掘った穴は、また雪で覆い隠されていた。
「ここ、…なの?」
私の後ろから付いて来たアヤが、何処に何があるのかもわからない場所の一角を見て言う。
「そうだ。今は荒れ果ててしまったし雪が積もっているけれど、確かにここがサシャの墓だよ」
「…そう…」
私が掘った痕跡が少し伺える、へこんだ雪の前にアヤが膝を付いた。
「駄目だよ、濡れてしまう」
「ううん…だいじょうぶ……」
アヤが手を合わせる。
「あなたは初めてエリックに会わせてもらったお友達だよ、サシャ」
後ろからで表情は伺えないが、アヤの吐いた言葉が白く形を作り、空中へと消えていく。
「エリックを守ってくれてありがとう。エリックを愛してくれて―――本当にありがとう―――」
―――泣きそうだった。どんな弔いの言葉より胸に響く。哀れなサシャは救われただろうか。私を恨んではいないだろうか。私にそれを知る術は無い。だが、アヤの言葉は安らいだ気持ちで受け取ることができる。サシャも私と同じ気持ちであるように―――。
涙が零れてしまわない様に、灰色の空を見上げる。手に持ったランタンが、私につられて揺れた。
「―――ねえ、エリック」
どれほどそうしていただろうか。アヤの声で我に返り、視線を下ろす。アヤが少し恥ずかしそうに右手を差し出した。
「これ、埋めてもいいかな…?」
見てみれば、アヤの手には小さな干し肉の塊があった。
「…何故?」
「わたしの国の話なんだけど…」
そう言ってアヤが教えてくれたのは、死者に食べ物や花を供えると、それが天国では百倍になる、という子供の御伽噺のような話だった。
「犬だって美味しいものが食べたいだろうし、犬は肉が好きだから…」
そんなつもりは全く無かったけれど、アヤの気持ちが嬉しい。
「お前の好きにすればいい」
私がそう言うと、アヤが少し雪を掘り、肉を埋めてやった。
「本当はお花もあげたかったけど…」
雪を元のように均して、アヤはまた手を合わせた。ずっと一緒に居てくれた、私の最初の友達。サシャの事だけは、ずっと心の奥底に引っかかっていた。此処へ来るのを避けては来たけれど、やはり来て良かったと思えるようになってきた。サシャに謝ることができた。そして何より、アヤが横に居てくれた。ずっとずっと薄暗かったこの家が、今は少しだけ明るいような気がする。嫌な思い出ばかりの場所だったけれど、最後にいい思い出ができてよかったと思う。
「…もうそれくらいにしておかないと、今度はお前が濡れてしまうよ」
ずっと地面に膝をついていたアヤの両肩に手を置き、そう促す。アヤはやっと立ち上がって、服に付いた雪を払った。
「サシャ…」
今、友であるお前は安らかであるだろうか。私はやっと、横に居てくれる人を見つけることができた。何時かまたお前に会うことがあったなら、一杯話したいことがある。その時はまた、優しい、純粋な目で話を聞いて欲しい。
「…行こうか」
私がそう言うとアヤはまだ少し名残惜しそうにしてはいたが、大人しく歩き出した。手を繋いでどちらも何も言わないまま雪を踏みしめ、家へと向かう。裏口を空けて部屋に入ると、暖かな空気が私達を出迎えてくれた。
「寒くは無かったか」
「…うん」
アヤは言葉少なにコートを脱いだ。
「食事に、しようか」
「…そうだね」
鍋を暖め、夕食にしてもアヤはあまり喋らない。私は不安になった。やはり本当は私の様な男は嫌になったのではないだろうか。アヤは赦すと言ってくれたが、やはり先程の八つ当たりを怒っているのではないだろうか。浮かんだ不安は直ぐに胸に満ち、食事をする手が止まる。暫く思い悩んでから、私は勇気を出してアヤに訊いてみた。
「どうした? やはり風邪をひいてしまったか?」
同じく皿を見つめ、余り手が進んでいない様子のアヤに言う。アヤは顔を上げて私を見、小さく笑った。
「ううん、そうじゃないよ」
「全然食事が進んでいないじゃないか。大丈夫か?」
自分の事は棚に上げ、そう訊く。
「ちょっと―――胸がいっぱいで」
アヤから不思議な答えが返ってくる。私がどう返そうか思い悩んでいると、アヤが言葉を続けた。
「ありがとう、エリック。………ここに連れてきてくれて」
そう言われ、私も胸が一杯になる。感謝すべきは私なのに!
「…礼を言うのは私の方だ。お前が居てくれたから、私は此処へ戻ってくる気になれた」
暗く、辛い思い出の場所。未だに私を苦しめる場所。幼い日の私の一部は、未だにこの屋敷の中に閉じ込められている。私を苛み、絶望的な気分を何度も思い起こさせる。そんな場所に、一人でなど戻ってくることはできなかっただろう。
「一人では何時までもここを避けていたと思う。―――全て、お前のおかげだよ、アヤ」
だが、アヤが一緒に居てくれたから、私は戻ろうという気になったのだ。アヤが居てくれるのなら、きっといい方向に向かうような気がして。そしてその考えは、正解だった。
「本当に、お前が居てくれてよかった」
私がそう言うと、アヤがはにかみながら微笑んだ。それからも言葉少なではあったけれど、私達は満ち足りた気分で夕食を終えた。
片づけを済ませ、私達は早々に寝室へと引き上げた。今夜くらいはゆっくりとアヤを寝かせてやろうと思い、大人しくベッドに横たわる。暫くそうしていて、もうアヤが眠ってしまったのかと毛布をかけなおそうとした私に、アヤが話しかけた。
「ねえ、エリック」
「何だ、まだ起きていたのか」
「うん…」
アヤが寝返りを打ち、私にくっつく。
「わたし、本当にここに来れてよかったと思う」
「…ああ」
「あなたがわたしには解らないって言ったとき、すごくショックだったけど正論だと思ったの」
―――やはり、まだ怒っているのだろうか…。
「あのね、あなたを責めるわけじゃないけど、確かに何も知らないわたしが言えないことはいっぱいあると思う」
「アヤ…」
「でもここに連れてきてくれて、昔の話をしてくれて、またあなたを知ることができた。それがすごく嬉しいの」
本当に、心からそう思っているような優しいアヤの声。
「―――まだ何か解らないのなら、何でも私に訊けばいい」
私がそう言うと、アヤが小さく笑った。
「そうだね、いっぱい知りたいことがある。でも、それは、また…」
アヤが欠伸を噛み殺す。
「…とにかく、それだけ言いたかったの。じゃあもう、おやすみ!」
言うだけ言って、アヤは私に背を向けた。私は胸が一杯で、何も言うことができなかった。ずっとアヤは待っていてくれたのだ。私が一歩ずつアヤに近づいていくのを、根気よく待っていてくれたのだ。本当に、こんなにも幸せでいいのだろうか。全ては夢で、次に目を開けたら暗い岩屋で独りきりなのではないのだろうか。もしそうだったなら、私はもう耐えられない。こんなにも温かく、こんなにも優しい人を、私は他に誰も知らない。私の素顔を見ても、私の過去を聞いても、それでも、何も変わらなかった。寧ろ知ることができて良かったと言ってくれた。今まで、誰がこんなにも私に優しくしてくれただろうか。
また、涙が溢れてくる。私はアヤに気づかれないようにそっと涙を拭い、溜息を吐いた。直ぐに眠りに落ちてしまったアヤの寝息を確認して、起こさないように慎重に抱きしめる。やはり、夢ではない。私にとって、この温もりだけが現実なのだ。アヤの寝息を聞きながら、私は何時までも眠ることができなかった。