早朝、窓から差し込む光に顔を照らされ、私は目を覚ました。ぼんやりとした意識がはっきりしていくにつれ、ここが私の岩屋ではないこと、―――そして私が捨て去ったはずの場所であることに気づき、私は跳ね起きた。
「!?」
 跳ね起きた瞬間、横で静かに寝息を立てるアヤが目に入る。そうだ、私は―――…。悪夢の続きではないことに安堵した私は、深い溜息をついた。やはりここに来たせいだろうか。己の顔を初めて見た日の事、母に死ねと言われた事、サシャが殺された事、色々な事が悪夢となって襲い掛かるような夜だった。昨日の夜だけではない。アヤと過ごす事で見ることの無くなってきていた悪夢が、ここに来ることを決めた途端に鎌首を持ち上げ、私を襲っていたのだ。夜中に跳ね起きた事もあった。その度に私は、アヤの寝顔を見てあれは終わったことなのだと自分に言い聞かせていた。私の横にアヤが居る。それだけが現実なのだ。
 アヤの肩に毛布をかけ直してやり、私はベッドを抜け出した。明るい日の光の中で見るその場所は、少し色あせたような気もしたが、私の記憶と寸分の違いも無かった。
 あの夜、母と共に全てを捨て去ったはずの場所。母の幸せを願い、私はここを出たのだ。私に笑いかけてもくれなかった母だが、それでも私は何処かで母を愛していた。私が居なくなることで母が幸せになるのなら、それがいいと思ったのだ。
 設計図を書き込み、怒られた二階の壁。鋏で彫刻を彫り込んだ階段の手摺。何もかも変わらない。ただ、時間だけが過ぎていったように思う。
 台所で湯を沸かすついでに、あまり吸う事の無いシガーに火をつけた。喉に悪いというのは勿論だし、アヤが臭いを嫌うのだ。ゆっくりと煙を吐き出し、香りを楽しむ。鼻腔をくすぐる香りが、しばし思考を麻痺させてくれる。本当に変わっていない。何もかも―――。


 朝食の準備を整え、後は紅茶を淹れるだけにしてアヤを起こしに行った。材料があまり無いので簡素な食事だが、あの御者が言うには3日に一度は御用聞きが来るという。今日の昼間にやってくるようなので、それまでの辛抱だ。
「アヤ、起きなさい」
 ベッドの縁に腰掛け、優しくアヤの髪を撫でる。
「…ん…」
 アヤがゆっくりと目を開け、ぼんやりとした目を私に向ける。髪から頬に向かった私の手に己の手を重ね、アヤが優しく微笑んだ。
「…おはよう、エリック」
 そうアヤが私の名を呼んでくれたことがひどく嬉しくて、私はアヤに口付けた。
「朝食の支度が出来ているよ。後はお前が席につくだけだ」
「うん…」
 眠そうなアヤがどうにも可愛らしくて、私はもう一度口付けた。アヤの腕が気だるげに私の首に回され、私を引き寄せる。
「エリック…」
 私もアヤを抱きしめたが、ふと気づくとアヤがまた眠りかけていることに気づく。
「駄目だ駄目だ、ほら、起きて」
「……ここ、どこ?」
 アヤがまだ寝ぼけていることに私は溜息をつき、アヤを抱き上げた。このままで埒が明きそうに無い。今では可愛いものだけれど、まだ愛を打ち明けられなかったときはこの無防備な姿を見せられてたじろいだものだった。
 アヤを抱えたまま一階へと下り、洗面所でアヤを下ろす。
「早く顔を洗ってきなさい。紅茶が冷めてしまう」
「…うん…」
 アヤが洗面所へ向かったのを見届けて、私は台所へと戻った。紅茶を蒸らし、淹れたところでアヤが戻ってくる。ちょうどいい時間だ。
「水冷たい…! すっかり目が覚めちゃった」
「これだけ雪が降っていればね。風邪をひかないようにちゃんと服を着ておきなさい」
 ふと窓の外を見れば、昨夜から降り続く雪がすっかり景色を変えてしまっている。
「いっぱい積もったね…。いつ止むんだろう」
 席に着いたアヤが冷えた身体を温めるように、ゆっくりと紅茶を飲み干す。
「当分は無理だろう。…まあどれだけ降ろうと困ることは無いだろうがね」
「そのことだけど…」
 アヤがカップにほんの少し残った紅茶を見つめながら呟いた。
「…ちゃんと説明、してくれる…?」
「……朝食を、食べてしまいなさい」
 私がそう言うと、アヤはまだ何かを言いたそうではあったが、大人しく食事に手をつけた。


 食後、暖炉の前のカウチで待っているようにアヤに言い、私は朝食の片づけをしていた。何を話せばいいのだろう。どこから話せばいいのだろう。話すべきことはいっぱいある。墓にまで持っていかなければいけないようなことも数多くある。だが、本当に全てを言ったほうがいいのだろうか。私が人殺しなのだと、お前を抱く男の手は血に汚れていると、そのことも言ったほうがいいのだろうか。
 水が冷たい。刺すように冷たい。だが洗っても洗っても血の色が消えていないような気がする。こんな手でアヤを抱き続けていいのだろうか。だが、アヤが居なければ私はもう生きてはいけないのだ。
 カウチに腰掛け、ぼんやりと暖炉の炎を見ているアヤの横に腰を下ろす。炎が薪をなめる僅かな音しか聞こえない。
「私は…」
「あの…」
 思い切って話そうとしたその瞬間、アヤの声が被った。
「何だ」
「いや、そっちから…」
 また、声が被る。
「………」
「………」
 このままでは埒が明かない。私は大きく溜息を吐き、アヤの手を握った。
「アヤ…」
 アヤは少し驚いたようだった。
「…どこから話せばいいものか…」
「…まず、なぜ偽名を名乗る必要があったの? なぜわたしに喋るなと言ったの?」
 正直、話の糸口をアヤがくれた事にほっとした。本当に何処から話に手をつけていいのか判らなかったのだ。
「…ここは私の家だと言ったろう?」
「うん」
「だからここに来るのが私だと知られたく無かったのだ」
「…どういうこと?」
 アヤが小首をかしげる。―――ああ、そこから話をしなければいけないのだ―――。
「…私はこの顔のせいで他人から嫌われ、悪魔だと蔑まれていたのだよ。だから、ここに来たのがその『悪魔』だと他人に気づかせる訳にはいけないだろう?」
 私がそう言うと、アヤは少し泣きそうな顔になった。話は理解できるが、同意はしたくないとでも言いたそうだ。
「…この家が私のものになってから随分経っていたのでね。人を介してここを売りたいという話はしていたのだよ。だからその相手に、今度は別人のふりをして、田舎に別荘を探していると話を持ちかけた。少し水を向けてやるだけで、すぐにここを紹介してくれた」
 早い話が詐欺ではあるが、今滞在中にかかる費用は色をつけて払ってあるので、特に問題は無いだろう。ここが売れると意気込んでいるであろう商売人にはぬか喜びをさせてしまうが。
「後は身分を偽ったまま話を進め、こうしてお前を連れてきたというわけだ」
「…どういう肩書きだと名乗ったの?」
「貿易商、と言っておいた。お前を連れていても一番怪しまれないだろうからね」
 東洋人のアヤを連れて出歩くのだ。適当な肩書きでは怪しまれてしまう。
「…わたしのことは何と?」
「メイドを一名、と言っておいた」
「…あきれた、だから喋るなって言ったのね?」
 アヤが溜息を吐く。
「すまない、お前に説明をする機会が無くて…」
 アヤが私に話しかければ、一発で偽装がばれてしまっただろう。アヤにそこまでの演技をする度胸があるかもわからなかったし、あの場ではアヤに一言も喋らせないのが、一番の得策だったのだ。
「本当に、何も言ってくれなかったし…」
「…すまない、話をする勇気が無かったのだ」
 アヤがぷい、とそっぽを向く。
「恋人だと思ってたのはわたしだけだったのね?」
「それは違う!」
 アヤの言葉に私は思わず声を荒げた。
「無論私だってお前を愛しているし恋人だと思っている。だが、あの場合はそれ以外に、何も…」
 もっといい手段があったのではないだろうか。アヤを堂々と連れ歩けたのではないだろうか。恋人という肩書きは確かに道徳に背くものだっただろうけれど、婚約者とでも妻とでも何でも言い訳はあったのではないだろうか。メイドなどではなく、私と等しい立場にある人なのだと言う事が出来たのではないだろうか。今更その可能性に気づき、私は言葉に詰まった。
「だって『メイド』なんですものね?」
「う…」
 アヤがよそよそしい口調になるときは怒っているときだ。
「いや、その…」
「メイドの分際で洗い物をさせてしまい、申し訳ございませんでした、『旦那様』」
「だから…」
 アヤは私を見ようともしない。だがアヤが怒るのは無理もないのだ。
「アヤ…」
 どうすればいいのか判らない。何を言えば、アヤに許してもらえるのかが判らない。全てをアヤに話しておけばよかったのだろうか。いや、私はここに来る事すら避けられるものなら避けたかったのだ。今いくら思っても、過去を変えることなどできはしない。
「あの……しかし…」
「なあに?」
「………」
 私はついに何も言えなくなってしまった。何を言ってもアヤを怒らせてしまう気がする。思い悩む私に、そっぽを向いたままのアヤ。重苦しい沈黙に、ただ身動きすら取ることのできない時間が流れていく。そんな私たちの沈黙を破ったのは、呼び鈴の音だった。
「…誰か来たの?」
「あ、ああ、御用聞きが来るようになっている。だから、アヤ…」
 私では表に出る事が出来ない。私がそう言うと、アヤが席を立った。
「メイドはメイドのお仕事をさせていただきますわ、旦那様」
 玄関に向かうアヤを私は慌てて追いかけ、当座必要なものを伝える。そして私は物陰に隠れ、そっとアヤの様子を伺った。
「今お開けいたします」
 もう一度呼び鈴が鳴った扉に向かってそう言い、アヤが扉を開ける。やってきたのは地味な身なりをした若い男だった。外は寒いのだろう。鷲鼻が赤くなっている。東洋人のアヤに少し驚いた様子で、せわしなく屋敷の中を伺っている。
「申し訳ございません、メイドはわたし一人しかおりませんの。ご用聞きにいらっしゃったのでしょう?」
「あ、はい…」
 東洋人のアヤがフランス語を話す事に驚いたのだろうか。我を忘れていたような男は、やっと目的を思い出したようだった。
「小麦粉と、卵と、牛乳と、…」
 アヤの話す内容をメモに取り、しばらくして男は帰っていった。アヤは扉を閉め、隠れている私を見つけると少し冷たい目で私を見てから、横を通り過ぎた。
「メイドならお仕事をしませんと」
「アヤ…!」
 歩き去ろうとするアヤを、私は後ろから抱きしめた。
「悪かった、悪かったからもう私を苛めるな…!」
「…いけませんわ旦那様、そのようなお戯れをなさっては」
「アヤ…」
 アヤを抱きしめたまま、私は途方に暮れてしまった。
「後生だから何時ものアヤに戻っておくれ。私は恋人のアヤとここへ来たかったのだ。メイドを連れて来たかったわけではない!」
 私がそう言うと、アヤは長い沈黙の後、やっと小さく呟いた。
「……3時のお茶菓子がリンゴのパイなら…考えなくもないですわ、旦那様」


 その後小一時間ほどで御用聞きが品物を持って戻り、簡単な昼食を取った。食後私はすぐにパイ作りに取り掛かった。アヤは相変わらず慇懃な態度を変えようとしない。昼食も作りたがったが台所の使い方が判らず、渋々私に全てを任せた。
 生地を練り、リンゴを煮詰め、形成し、オーブンに入れる。これで暫くは時間が出来る。後は火加減に気をつけて焼けばいい。私はアヤを探しに行った。メイドの仕事を、と言って部屋を出て行ったのだ。仕事がありそうで、尚且つアヤが行きそうなのは寝室くらいだろう。何処の部屋に入っていいのか、アヤにはまだ言っていない。
 二階に上がり、寝室の前でそっと様子を伺う。軽くノックをしたが返事は無い。ここでは無かったのだろうか? 念のためドアを開けると、小さな寝息が聞こえてきた。
「…アヤ?」
 小声で呼んでも返事は無い。そっと近づいてみると、アヤはベッドに潜り込んでいた。
「返事が無いのも、無理は無いな」
 昨晩は遅く、今朝は早かったのだ。昼食を食べて眠くなってしまったのだろう。
「……エリ、ク…」
 アヤが小さく私の名を呟く。私は嬉しくなって、毛布を肩までかけてやった。いつも身を縮めるように寝るアヤは、寝返りで毛布を肌蹴やすいのだ。きめ細かく柔らかな頬をそっと指で撫でる。つい感触を確かめたくなって指で頬を摘んだところで、アヤが目を覚ました。
「…ん…」
「まだ、寝ていていい」
「……うん…」
 私がそう言うと、アヤがまたまどろんでいく。眠るアヤを見ているとつい私も眠くなってしまう。だが、このまま眠ってしまってはパイを焦がしてしまうだろう。階下から甘い匂いがここまで漂ってくる。結局、アヤは怒っているのではなく、私が何も話さなかった事に拗ねているのだろう。全て、話さなければいけないのだ。
 私はアヤの寝顔をしばらく眺め、そっと額に口付けて寝室を後にした。


 焼きあがったパイを切り分け、紅茶を淹れたところで、においに釣られたのかアヤが起きてきた。
「『仕事』ははかどったかね?」
「………」
 私がそう言うと、アヤがそっぽを向いた。寝ていたと気づかれたくないのだろう。
「席にお付き。温かい方が美味しいだろう」
 切り分けたパイに粉砂糖を篩い、アヤの前に皿を置く。焼きたてのパイの匂いが、甘い湯気となって鼻腔をくすぐる。
「味はどうだ?」
 アヤが一口パイを口に入れたところで聞いた。
「………おいしい」
 まあ当然の反応だろう。リンゴには香り付けにブランデーを振りかけてある。
「それで、考えてはくれたのかね?」
「………」
 アヤが少し頬を染める。
「…エリックがどうしてもって言うなら…」
 それを聞いて、私は苦笑した。だが何も言わない私がいけないのだ。
「なら私が『恋人のために』作ったパイをもう一切れ。…如何かね?」
「………食べる」
 私はもう一切れパイを切り分けた。外は雪が降りやまず、白く冷たい世界が広がっている。だがアヤといるこの空間は、何と暖かいのだろう。この暖かさを失いたくない。アヤだけが私を理解し、救ってくれるのだ。
「…雪、止まないね」
「そうだな。今夜の夕食は暖かいスープにしよう。屋内とはいえ、冷えるからね」
 野菜も、兎の肉もある。こんな夜は暖かくなるものが一番いい。
「こんな日は、森の動物はどうしてるんだろう。木の中だって地面の下だって、きっと寒いよね」
 地面の下、という言葉に私はどきりとした。果樹園の地面の下には、私の埋めたサシャがいるのだ。
「…風邪をひかないようにしなければな」
 私がそう言い、そこで話は終わった。


 夕食後、アヤが風呂に入ったのを見計らい、私はそっと家を抜け出し裏手の果樹園に向かった。人間だけにしか魂が無いだなんて嘘だと思った。私のせいで殺された、哀れなサシャの魂はちゃんと救われたのだろうか? 幼い頃、いつも傍らに居てくれたサシャ。幼い頃の温もりは、いつもサシャのものだった。
 暗い気持ちで果樹園を歩き、サシャを埋めた場所へ向かう。人の手が入らなくなって荒れ果てた果樹園は、私の記憶と随分変わってしまっていた。
 記憶の中と変わってしまった場所を探し当て、私はそこに膝を付いた。
「…ただいま、サシャ」
 冷たい冷たい雪の下。ここにサシャが眠っている。今の私の寒さとは比較にもならないだろう。私は突き動かされるように雪を掘り始めた。手が悴むが、そんなことはどうでもいい。一晩で降り積もった雪の下に、しばらく前に降った雪が凍っていた。拳を何度も叩き付け、やっと氷を割る。土が見えてくると、そこにあった石を掴んで地面を掘り始めた。
「サシャ、サシャ、サシャ…!」
 あの暖かい身体が、こんな冷たい場所に埋まっているのだとは思いたくなかった。私のせいで殺されてしまったサシャに、これ以上辛い思いをさせたくなかった。だが地面は硬く、石を使っても全く掘り進むことができない。いくらもしないうちに、私はやっとサシャを救い出すことができないのだと悟った。
「すまない、すまないサシャ……」
 あの時も助けてやれなかった。そして今も、助けてやることはできないのだ。結局私は無力で、あの頃と何も変わっていない。
「―――Agnus Dei, qui tollis peccata mundi dona eis requiem ―――…」
 私は何と無力なのだろう。大人になった今でも、できることは何も無い。ただこうして、サシャのためにレクイエムを歌ってやることしかできないのだ。
「―――Agnus Dei, qui tollis peccata mundi dona eis requiem sempiternam ―――…」
 後から後から降り積もる雪が、私とサシャの間を、また隔てていく。私はそこに膝を付いたまま、いつまでもサシャのために歌っていた。


「エリック―――…!」
 どれほどそうしていたのだろうか。誰かに名前を呼ばれ、私は振り返った。見てみればランタンを持ったアヤが、必死に此方へ駆け寄ってくる。
「エリック、エリック―――!」
 雪に何度も足を取られそうになりながら、アヤが私の元へと走ってくる。やっと私の元までたどり着いたアヤが、乱れた呼吸を整えるように大きく息を吸った。
「どうした?」
「どうしたじゃないよ…! …お風呂から上がったらエリックが居なくて、どこを探しても居なくて、呼んでも返事が無くて…」
 そこまで一息で言ったアヤの顔が、急に泣きそうになる。
「…居なくなっちゃったのかと思ったんだから……」
 ずっと私を探してくれていたのだろうか。よく見れば、髪は濡れ、服装も寝間着の上からコートを羽織っただけだ。
「ほら、早くおうちに戻ろう? ね?」
 アヤが私の手を掴み、家のほうへと引っ張っていく。私はそれにつられるまま、立ち上がり、家へと歩を進めた。


 アヤに引っ張られて家に入った私に、アヤが湯を汲み、石鹸を持ってきた。
「ほら、手が泥だらけ!」
 アヤに言われるまま、握ったままだった石を手放し、手を洗う。湯は温かいはずなのに、何故だかそれが感じられない。
「…こんなに雪が積もってる」
 アヤが背伸びをしながら、私の肩に積もった雪を払い落とす。
「コートも着ないで上着だけだから…やだ、染みちゃってる」
 湯は湯気を立てるほどで、少し熱いと解ってはいるのに、やはりその実感が無い。
「早く脱がないと風邪ひいちゃう! 寒いでしょう?」
 寒い、という言葉に私はどきりとした。そうだ、これは寒さなのだ。そう認識した途端、体の芯から震えが来た。
「ちょっと…だいじょうぶ!?」
 寒い。寒くて震えが止まらない。
「早く、暖炉に…!」
 アヤが私を暖炉の前に引っ張っていき、すぐに毛布を持ってきた。
「お願い、寒いとは思うけど服を脱いで? 濡れた服よりは毛布のほうがいいと思うの」
 アヤの言うとおりに服を脱ごうとしたものの、指が震えて上手くボタンが外せない。見かねたアヤが私を手伝い、上着とシャツを脱がせてくれた。
 毛布は暖かい、と思う。炎も暖かい、と思う。頭では解っているのに、幻のように見えてちっとも暖かく感じない。
「ごめんなさい、鬘と仮面も取らせて…」
 私にそう断ったかと思うと、アヤがウィッグと仮面を外した。
「髪が濡れてると、寒くなるから…」
 自分だって濡れ髪なのに、とどこか冷静に思っていると、アヤがタオルで私の髪を拭いてくれた。誰かにそんなことをされるなんて初めてだ。人に髪を触られるのは、なんだか心地いい。
「暖炉で暖まる?」
 私は首を振る。
「どうしよう…ベッドの方がいいのかな…。…立てる?」
 私がゆっくりと立ち上がると、アヤは少しほっとしたようだった。そのまま私の手を引き、寝室へと連れて行く。氷の世界に居るような気がするほど寒いのに、アヤの手だけは温かく感じる。
「ごめんなさい………ちょっと…」
 ベッドの前で、アヤが遠慮がちに私の下衣を脱がせる。そしてベッドに潜り込んだ私に、毛布を肩までかけてくれた。
「ずっと外に居るから…熱が出そうな感じ?」
 私は首を振った。熱が出るというような悪寒ではない。ただひたすら、寒いのだ。
「寒い……寒いんだ…」
 アヤが心配そうに私の額に手を置く。やはり、アヤの手だけが温かい。
「とりあえず、おとなしく寝ててね?」
 そう言ってアヤが私の傍から離れようとする。私は思わずアヤの腕を掴んだ。
「きゃっ」
「…ここに、居てくれ……」
 全てが氷のようなのに、アヤだけは温かい。
「だって、脱いだ洋服とか…」
「そのままでいい」
「火の始末とか…」
「放っておけばいい」
 寒い。寒くて堪らない。
「お願いだから、傍に居てくれ…」
 私がそう言うと、アヤが溜息を吐く。
「…わたしに、何ができる?」
「お前を、抱きしめさせてくれ………寒いんだ…」
 アヤは何も言わずに、そのままベッドへ潜り込んだ。私は震える腕で、アヤを抱きしめた。
「エリック、冷たい…」
 ああ、やはり温かい。
「…お前だけが、温かい…」
 凍えるような寒さの中で、アヤの温もりだけが私を癒してくれる。
「…寒くて、堪らないんだ……!」
 アヤが私の背に腕を回し、私をそっと抱きしめた。
「だいじょうぶ、ずっと抱きしめててあげる。ずっと傍に居る」
 アヤが腕にほんの少し、力を込めた。
「ずっと、ずっと、一緒にいるから…」
 震える私に、アヤが優しく語り掛ける。
「…だから……」
 アヤが私の手を取り、己の胸に触れさせた。アヤの鼓動が手から伝わり、それが燃えるように熱く伝わってくる。私はその熱に促されるまま、ゆっくりとアヤを組み敷いた。


 温かなアヤの素肌。私の世界で、アヤだけが温かい。アヤの鼓動が小さな炎の玉のように私の手のひらに伝わってくる。
「アヤ…」
 熱が欲しい。凍えた私の世界を溶かしてしまうほどの熱が欲しい。
「どうしたら、あなたを暖められる?」
 穏やかに微笑むアヤの顔。優しく、そしてどこか物悲しい。
「…っ…」
 私はアヤに夢中で口付けた。夢中で口付けながら、乱暴に寝間着の前を肌蹴る。白い胸元にも口付けようとしたところで、アヤが私の頭を抱き寄せた。
「好きなように、して」
 直に聞こえる、アヤの鼓動。
「あなたがそれで暖まるなら、わたしは嬉しい」
 少し早いその音が、私の体の奥に小さな熱を植えつける。
「あなたがそれで楽になれるのなら、何をされても平気だよ」
 決して理由は聞かず、私を受け止めてくれるアヤ。その優しさと強さに、今はただ、縋っていたい。
「アヤ、アヤ、アヤ……!」
 細い身体から引き裂くように寝間着を脱がせ、私はアヤを抱きしめた。素肌にアヤの温もりが熱いほど感じられる。
「怖いんだ、お前もいなくなってしまいそうで怖いんだ―――!」
 ある日突然、サシャと同じようにアヤも居なくなってしまうのではないだろうか。やっと温もりを手に入れることができたのに、私はまた氷の世界に独り放り出されるのではないだろうか。
「ずっと傍に居てくれ! 私を独りにしないでくれ! ―――後生だから―――……!」
 温かかったサシャが冷たくなってしまったように、アヤも私を置いていってしまうのではないだろうか。
「…だいじょうぶ…」
 アヤの腕が私の背に回される。
「わたしの居場所は、あなたの横だよ」
 独りになるのが怖い。凍えるのが怖い。温もりを知ってしまった今では、それを失うことが一番怖い。
「どこにも行かない。ずっとエリックと一緒にいる」
 温かいアヤ。私を受け入れてくれるアヤ。アヤでよかった。私を肯定してくれる人が居るというだけで、どれほど私は救われることか。
「―――私を、抱きしめてくれ………」
 そう言ったところで、私ははっとした。…その願いは拒否されるのではないだろうか。そこまでの甘えは、許されないのではないだろうか。だが、アヤはそっと、私を抱きしめてくれた。
「…もっと、甘えてもいいんだよ」
 規則正しく、優しく、アヤが私の背を撫でる。アヤの言葉と、温もりと、その動作が私の氷を少しずつ溶かしていく。
「もっと、もっと頼って欲しい。甘えて欲しい」
 アヤが私を抱きしめる腕に、少し力を込めた。
「わたしだって、あなたのために何かがしたい」
 胸が痛い。目頭が熱い。失われていた熱が、急速に私の中に戻っていく。
「わたしに、何ができる? あなたがこれ以上辛く無いように、何をしたらいい?」
 心地よい言葉。優しい声。
「そんなあなたを見ているのは、わたしにも辛い。できることなら、あなたの力になりたい」
 私のためを思う言葉。心の底からの声―――!
「…アヤ……!」
 ついに涙が溢れ出る。己の内側まで凍り付いていると思っていたのに、涙が嫌に熱く感じる。
「お前は、私を赦してくれるか? どんな人間であっても、受け入れてくれるか?」
 私は今まで、どれほどの罪を犯したのだろう。救いを求めて、さらに罪を重ねていった。どれほど罪を犯しても、どれほどの寒い夜を過ごしても、その先に救いは無かった。しかし何時か夜は明ける。私は、アヤと出会うことができたのだ。
「頼む、ただ一言、私を『赦す』と言ってくれ―――!」
 己の罪が恐ろしい。生まれてきたことが恐ろしい。今こんなに幸せでは、またすぐに闇に戻ってしまうのではないだろうか。
「お前を失うのが怖い! また昔に戻ってしまうのが怖い! だから、お願いだから――――……」
 永遠にも思えるような少しの沈黙の後、アヤが私から離れた。その瞬間私は絶望的な気分になり、目の前が暗くなった。やはり、アヤも私を受け入れてはくれなかったのだ―――。だが、それは間違いだった。
 アヤが私の右頬に触れ、優しく微笑んだ。
「…あなたを、赦すわ…」
 そしてアヤは、私の額にそっと口付けた。そのときの気持ちが、私以外の誰に解るというのだろう。またアヤを思い切り抱きしめると、アヤが小さく息を吐いた。
「アヤ……アヤ………!」
 アヤの唇が触れた場所が、火のように熱い。いつの間にか震えは止まっていた。


 どれほどそうしていただろうか。私が落ち着くまで、アヤはずっと何も言わずに私の背を撫でてくれていた。
「…もう、夜も遅いから寝たほうがいいね」
 やっと私が落ち着いた頃、アヤが小さく呟いた。
「いや、…それは…」
 私は、眠るのが怖かった。この場所で、次に起きたときに独りになっていたら、私はもう耐えられない。
「だって、あまり体調がよくないのでしょう?」
「もう寒くないから、だから…」
 私がそう言うと、アヤが溜息を吐いた。
「…しかたない」
 アヤが私の腕から離れ、ベッドの上に座りなおした。
「これで…」
「!?」
 つられる様に起き上がった私をアヤが引き倒し、太股に私の頭を乗せた。
「じゃあ、朝までずっとこうしててあげる」
 私の顔を覗き込んで、アヤが微笑んだ。
「それじゃ、お前が風邪を…」
「毛布を被れば寒くないよ」
 私が被っていた毛布を頭から羽織り、アヤが私の肩まで布団をかけてくれた。
「これで、わたしはどこにも行けないでしょう?」
 悪戯っぽくアヤが笑う。アヤは私が眠りたくない理由を解っていたのだ。
「…ずっと付いててあげるから…おやすみなさい、エリック」
 アヤの柔らかな手が右頬に触れ、私はやっと安心して目を閉じた。
「……私を、離さないでくれ………」
 温かな、アヤの温もり。アヤが居なければ、私はたちまち凍えてしまうに違いない。私がそう言うと、アヤが優しく子守唄を歌い始めた。
「―――Schlafe, schlafe, holder, suser Knabe, leise wiegt dich, deiner Mutter Hand―――」
 暗く冷たい世界の中で、やっと手にすることのできた温もり。ずっと、ずっとこのまま、温かな日々が続きますように。神よ、罪深い私だが、この小さな幸福くらいは見逃してくれますよう―――。心の底からそう祈りながら、私はゆっくりと意識が沈んでいくのを感じていた。