途中起き出したアヤと軽い昼食を摂ったり、トランプをしたり、他愛も無い会話をしながら、私達の旅は順調に進んだ。アヤは何処か私の様子がおかしいのに気付いたようで、何時ものように話すことは無かった。ゆっくりと流れていく時間。そしてやはり私の胸には不安だけが募っていく。できる限り離れようとしていた場所に、私は近づいているのだ。
 列車の旅。車掌への対応はアヤがしてくれた。こんなにも長時間外に居たのは久しぶりのような気がする。押しつぶされそうな不安を振り切るため、アヤの額に口付けた。アヤは少し驚いたような顔をして、はにかんだ微笑を返してくれた。
 目的の駅に着いたのは、日も暮れかかったころだった。荷物を降ろし、去っていく汽車を見送って、私たちは駅を出た。
「…ここなの?」
 アヤが言う。
「まだ少しかかる。ここから馬車に乗るけれど、馬車に乗るまで一言も口をきいてはいけないよ」
 私がそう言うと、アヤは少し不安げな顔をしたけれど、それでもおとなしく頷いた。
 懐から手紙を取り出し、目当てのものを確認する。慇懃な挨拶と、日時と、簡単な要点だけが書かれた手紙。二頭立ての馬車に、茶色い服の御者を待たせる、と書かれている。少し辺りを見回すと、指定どおりの服装の男が、離れた場所から私たちを伺っていた。
「アルベール・クラヴィエ氏、でよろしいかな」
 近づいてきた男が私にそう声をかける。小柄だががっしりした体格で、下からねめつける様に私を見上げている。
「そうだ。この手紙に書いてある御者とは君の事かね」
「ええ、そうです。荷物をお運びしましょう」
 男は慇懃にそう言い、荷物に手をかける。荷物を運びながら彼はアヤを失礼とも言えるほど凝視し、アヤはさりげなく私の後ろに隠れた。
 荷を積み、アヤを乗せ、私も乗り込んだ。男は一言行きますぜ、と声をかけると馬に鞭をくれた。


 馬車が走り出してしばらくしても、アヤは外を見つめたまま何も言おうとしなかった。無言の重苦しい空気。夜の帳が下りていくのと同じように、私たちの間にも沈黙という帳が下りている。どれほど押し黙っていただろうか。アヤがぽつりと呟いた。
「…アルベール・クラヴィエって名前だったんだ…」
「違うよ。それは私の本名ではない」
 アヤが私の目を一瞬見つめ、また視線を窓の外へ移した。アヤはそれきり何も言おうとはせず、私も声をかけることができなかった。
 野を駆け、森を駆け、馬車が走る。ふと気づくと、雪が降り出していた。この調子では、明日の朝には轍の跡もすっかり覆い隠してしまうだろう。ふと漏らした溜息も白く染まる。寒そうに身を縮めたアヤを見て、アヤの横へ行き、そっと抱きしめた。アヤはもう一度私の顔を見、大人しく私に体重を預けた。


 どれほど経ったのだろうか。既に夜は更けていた。
「見えてきましたぜ!」
 御者の男の声が前方から聞こえる。来てしまった。ついに来てしまったのだ。
 ほのかな光が馬車の窓から飛び込み、アヤが身を起こした。見覚えのある風景を通り過ぎ、人気の無い道を馬車が走る。ほんの一時馬車は走り続け、そして止まった。男は一度馬車から降りると門を開けた。馬車が敷地内に入り、しばらく進み、また止まる。男が馬車の扉を開けると、冷気が中に吹き込んできた。
「これはしばらく吹雪きますぜ」
 男はそう言い、私は意を決して一歩を踏み出した。アヤの手を取り馬車から降ろす。私は男がパンドラの箱の鍵を開けてしまうのを、ざわめくような心持で眺めていた。
「どうぞ、旦那様」
 男が恭しく扉を持ち、私を呼ぶ。もうどうしようもない。私は戻らなければならないのだ。
 恐る恐る足を踏み入れたその場所は、あの頃と何ら変わってはいなかった。何もかも、あの頃のまま。私が全てを捨て去った頃のまま―――…。
 逃げ出してしまいたい。一人になりたい。後はアヤに任せてしまおうとも一瞬思ったが、あの男とアヤを二人きりにしたくない。何を考えているのかは解りたくも無いが、下衆な想像をしている事だけは手に取るように解る。異国人が珍しいのか、それとも私との関係が気になるのか。どちらにせよ深くは付き合いたくも無い人種なのは違いない。
「では、いいご滞在になりますように」
 細かな説明をし、それだけ言うと男は去っていった。遠ざかる馬車の音を聞いて、私は少しだけほっとした。
「…荷物を運んでしまわなければいけないね」
 ランタンを片手にトランクの一つに手をかける。そのときだった。
「……ねえファントム。もう教えてくれてもいいでしょう? ………ここはどこなの?」
 後ろに居たアヤがそう、私に尋ねた。言わなければならないのだ。全て、アヤに。
「…ここは、私の生家だよ」
 私がそう答えると、アヤがまた押し黙る。そして長い長い沈黙の後、搾り出すような小さな声で、アヤがまた私に尋ねた。
「………ここであなたは、なんて呼ばれていたの…?」
 それは、私自身の事に対する、アヤの初めての問いだった。誰が言ったわけでもないのに、アヤは今まで私のことを尋ねようとはしなかった。私はその好意に甘えて、言わなければならないことも、何もアヤには語ってはこなかった。―――だから、私はアヤをここに連れてきたのだ。
「エリック」
 もう何年も何年も忘れていた、私の名。私は全てをアヤに話さなければいけないのだ。
「エリック・ムルハイム。それが私の名だ」
 私は『幽霊』などではない。一人の人間なのだ。例え『幽霊』として生きなくてはいけなくても、私は血も通い、名もある一人の人間なのだ―――。
「…エリック…」
 アヤがゆっくりと私の名を呟いた。誰かに名を呼ばれるなど何年ぶりの事だろうか。
「……もし…もし、あなたが迷惑じゃなければ………これからはエリックって呼んでもいい…?」
 本当にアヤが私のことを思ってくれているのが解る。
「お前がそう私を呼んでくれるなら…嬉しいよ」
 私がそう言うと、アヤが走りよってきてランタンを持つ左腕に己の腕を絡ませた。
「さあ、早く荷物を運んでしまおう。いつまでもこんなところに居ては凍えてしまうからね」
「うん!」
 アヤが嬉しそうに笑う。私はトランクを離すとアヤの前髪をかき上げ、そっと額に口付けた。


 荷物を部屋に運び入れた私たちは、ガスも無い台所で湯を沸かし、紅茶とビスケットで簡素な夕食を摂った。もう夜も遅い。だが暖かい紅茶と暖炉の炎でやっと人心地ついたような気もする。
「今夜はもう寝てしまおう。…詳しい話は明日しよう」
 私がそう言うと、アヤが大人しく頷く。随分と長い旅路だったのだ。アヤも疲れているに違いない。
 寝室―――当時は客間だった―――へ行き、ベッドへ潜り込む。
「もっとこちらへおいで。寒いだろう?」
 私がアヤを抱き寄せると、アヤも私の背に腕を回す。
「あの、ファ…エリック……」
 名前を言い直すアヤが可笑しくて、つい笑みがこぼれる。
「無理に言い直さなくていい」
「違うの、まだ、その…慣れなくて…」
 そう言って頬を赤らめるアヤの髪を撫でる。
「ゆっくりでいい。…ゆっくり、やっていこう」
「…うん…」
 アヤが私を抱きしめる腕に少し力を込める。私もアヤを抱きしめなおし、アヤの体温を感じながら目を閉じた。