人には、避けて通れないものがある。どんなにそれを嫌がろうとも、自分の手で区切りをつけなければいけない。
 遠い記憶。懐かしさなど欠片も無い、忌まわしい記憶。ずっと心の奥底に封印してきたけれど、私はそれを乗り越えなければいけない。今までの私なら無理だっただろう。だが、今ならできる気がするのだ―――。


「旅行に、行こうか」
 12月に入ってすぐの事だった。何時ものように私の部屋での戯れの後、私はたった今それを思いついたように装い、アヤに言った。もう何ヶ月も前から下準備をし、旅券も何もかも揃えてある。後はただ、アヤを連れて行けばいい。
 どこに行くの、と訊ねるアヤに出発の日にちだけを伝えて話を濁す。今はまだ、全てを話す勇気は無い。私が一度拒否を示すとアヤはそれ以上何も言わず、それでも旅行に行くことを楽しみにしているようだった。だが私の心中は穏やかではなかった。向き合おうと決意こそしたものの、やはり関わらずに済ませられるものならそうしたい。己の傷口を無理矢理抉じ開けるようなものなのだ。今のままでは傷は治らないけれど、抉じ開けて膿を出しても、治るかどうかは誰にも分からない。
「長旅になるからね。しっかり準備をしておきなさい」
 嬉しそうなアヤの笑顔。アヤのためにも、全てをこの手で終わらせなければいけない。―――もう、忘れなければいけないのだ―――。


 それから数日後の早朝、トランク一杯に荷物を詰めた私達は、ジュールの操る馬車で駅へと向かった。コンパートメントのチケットも用意してある。日が昇りきっていないパリの街に人影は疎らで、石畳のあちこちに氷が張り、朝日を反射してきらきらと輝いている。私は帽子とマフラーで顔を隠していた。冬場と言うのはこんな格好をしていても不思議がられないのがありがたい。私と同じように服を着込んだアヤはとても嬉しそうで、初めてだと言う汽車に早く乗り込みたくて仕方が無い様子だった。
 お気をつけて、と言葉をかけるジュールと別れ、私達はコンパートメントの一室に腰を落ち着けた。吐く息が白くなるほど寒い室内で身を寄せ、アヤにひざ掛けをかけてやる。アヤは汽車が動き出すのを今か今かと心待ちにしていた。
「目的地までどれくらいかかるの?」
「…まだまだだ。ずっと、遠くに行くのだから」
 汽車が動き出す。がたん、という振動に、本当に行ってしまっていいのかと言う気分になる。ゆっくりと流れ出す車窓の風景にアヤははしゃいでいたが、私は酷く重苦しい心持だった。気持ちがどんどんと沈んでいく。自分で選択した道なのに、進む勇気すら出ない。きっと汽車を降りる頃には諦めが付いているのだろうけれど、それでもその先にあるものに出会いたくは無かった。
「ファントムってば!」
 アヤが私の手を握り、私は思考の渦から現実へと引き戻された。
「どうしたの? …様子がおかしいけど」
「何でもないよ。それよりもまだまだ時間がかかるのだから少し寝ておきなさい。朝も早かっただろう?」
 私がそう言うとアヤはそれ以上何かを言うのを止め、大人しく頷いた。
「おいで。私にもたれ掛かりなさい」
 アヤが私の肩に身を預ける。
「……楽しみだけど、知らない場所に行くから何だか怖い…」
 怖い、という言葉に私はどきりとした。
「私が居るだろう? だから安心してお眠り」
 違う。違うのだ。安心しているのは私のほうだ。アヤが居るから、やっと向き合う勇気が出たのだ。アヤが居なければ、私は何時までも逃げていたに違いない。こうして横にアヤが居てくれるから、私は―――…。
「うん…」
 アヤが私の手を握る。それで安心したのか、暫くもしないうちにアヤは小さな寝息を立て始めた。私はアヤの手の温かさに少しほっとしながら、何時までも流れていく風景を見つめていた。