2月である。地上は毎日のように雪が降り、地下5階にある私の住まいは大変寒さが厳しい。暖炉が無ければ私たちは朝には永遠の眠りについていることだろう。今日はセントバレンティヌスの処刑された日…つまり、バレンタインデーだ。彼女の国にもあるかどうかは知らないが…。
私はこの日を心待ちにしていた。私の口からはまだ彼女を愛していると言う勇気は無い。だがこの日の贈り物になら…少しだけ気持ちを込めて彼女に渡せる気がするのだ。彼女が私の事を愛してくれるなら、こんなに喜ばしいことは無いのだが…。
彼女は私の事が嫌いではないはずだ。嫌いなら私と寝食を共にすることも無く、私に触れる事も無いだろう。だが、私への思いが異性愛では無かったら…。しかし、思いを伝えないことには何も始まらないだろう。私はバレンティヌスの勇気を少しでも見習うことにした。今日こそ、この薔薇と共に私の思いをアヤに伝えるのだ。
私が身支度を整えて部屋を出ると、アヤはもう起きていた。私がキッチンの入り口から声をかけると、アヤが私のところまでやって来た。
「今日はわたしが作るからゆっくりしてて! 何を作るか秘密だから呼ぶまでキッチンに来ちゃだめだよ?」
…部屋に漂うチョコレートの匂いに不安になったが、彼女がそこまで言うのなら仕方が無い。私は作曲を始めることにした。30分ほどして彼女が呼びに来た。朝食はスクランブルエッグとクロワッサンだった。先ほどのチョコレートの匂いはなんだったのだろう。食事が終わるとアヤは、片付けもするといって私をキッチンから追い出した。…私は何か彼女に嫌われるようなことでもしたのだろうか…。仕方なく私は作曲に戻った。
昼近くになり、私は昼食を作ろうとキッチンへと向かった。その途中で何かを抱えて部屋に戻るアヤを見かけた。…何か私に隠し事でもしているのだろうか。不安になったが、今日は私の思いをなんとしてでも彼女に言うのだ。こんなことでくじけていてはいけない。
昼食を作り彼女を呼ぶ。部屋から出てきた彼女からチョコレートの甘い匂いがする。食事前に食べていたのだろうか? 結局昼食時も、私は彼女に思いを打ち明けることができなかった。もう後は夕食時しかチャンスは無い。バレンティヌスよ、勇気の一欠けらを私に分けてくれ…!
そして、運命の時が来た。夕食時、私は勇気を出すためにウィスキーを煽った。酒の力でも借りなければとうてい口に出せそうにはなかった。胸が高鳴る。決して酒のせいだけではない。
「あのね、ファントム…」
アヤが思い悩んでいる私に声をかけた。
「…なんだね?」
動揺を悟られないように彼女に答える。
「今日、バレンタインデーでしょ? 渡したいものがあるんだけど…」
なんということだ! 彼女に先手を打たれるとは! だが、私へのプレゼントということは、彼女も私を愛しているということではないか! 神よ、今日という日をあなたに感謝します!
「日本ではバレンタインデーにね、男性にチョコレートを贈るの。日ごろお世話になってるからって、友達とか上司にも」
………。なんだって? 友達? 上司?
なんということだ! 日本ではバレンタインの趣旨が違うのか!? バレンタインデーは愛情を示すものではなく感謝の気持ちを示すものであるとは! ああ、神よ…。
彼女が昼間こそこそしていたのはこのためだったのか、とぼんやり思いながら受け取った包みをあける。そこにはトリュフが何粒か入っていた。
「ファントム、甘いもの苦手でしょ? だからできるだけ甘さを抑えてお酒を効かせたんだけど…。もしよかったら、食べてみて」
私は言われるまま、トリュフを一粒口に運んだ。リキュールの香りが口に広がる。ビターな味が嬉しい。今まで食べたチョコレートの中では一番美味しいと思えるものだった。私はとうにしぼんでしまった勇気に溜息をついた。
「…やっぱり、美味しくない?」
アヤが私に聞く。どうやら溜息を勘違いされたらしい。私の勇気以上にしょんぼりとしてしまったアヤに私は慌てた。
「そんなことはない。私が今まで食べたチョコレートの中では一番うまいよ」
「…本当に?」
アヤが納得がいかないという顔で私を見る。何とかしてアヤのご機嫌を取らねばと、私はとりあえず懐中をまさぐった。手に当たったのはアヤに告白と共に渡そうと思っていた薔薇だった。私はそれを取り出し、咄嗟に言った。
「今日のお礼だ」
私が薔薇を手渡すと、アヤの顔が輝いた。
「どこから出したの? 手品みたい!」
アヤは私の差し出した赤い薔薇を大事そうに持って微笑んでいる。
「いい匂い」
アヤが薔薇にそっと口付ける。ああ、せめて一瞬でもお前と変わることができたなら、この心はそれ以上の喜びを望まないのに! 私があの美しい薔薇ならば…。まるで私の心が薔薇という形を取っているかのようだ。私の心は彼女のもの!
「こんなにいいお礼をもらえるなんて思っても見なかったわ。ありがとう」
彼女がうっとりするような笑みを私にむける。ああ! 彼女はなんと残酷なのだ! 私への思いは友人愛であり異性愛ではないというのに、そのような顔を私に見せるとは! その笑みが私の心を残酷に突き刺す薔薇の棘だとも知らずに…。だがその棘は私にとってクピドの矢のようだ。焦げ付くような痛みと共にどうしようもないほどの愛しさがこみ上げてくる。彼女を私のものにしたい! 片時も傍から離さずに二人で暮らすのだ! 病める時も健やかなる時も常に共に…。
もう迷いはしない。全ての準備を整え彼女を迎え入れよう。友人愛は異性愛に変えてしまおう。どんな手段を使っても…。手段によってアヤが傷ついても時が経てば傷は癒えるだろう。もうこの私の帝国から日本へと帰しはしない。この鳥籠で愛という鎖をがんじがらめに巻きつけ、彼女の風切り羽を切ってしまおう。彼女が囀るのは小枝の上ではなく私の掌の上なのだ!
私は狂っているのかもしれぬ。しかしこの胸の痛みを取り除く方法はそれしかないのだ。アヤ、少し時間をおくれ。必ず君を迎えにいくから。
アヤが部屋にもどり私は独りになった。この決意をさらに煽るために、私は一気にコップの中のウィスキーを飲み干した。