さて、アヤを起こして朝食にしなければ。私は鏡の前で服装を整えながら思った。昨日アヤからもらったカフスボタンを早速つけてみる。金の縁取りの中に黒と金と青が散っているデザインだ。アヤのセンスはなかなか悪くは無い。なにより、私のためのものだということが一番嬉しかった。それに私はアヤが好きだ。愛している。しかしアヤはこの時代の人間ではなく、そのうち21世紀の日本へと帰ることになるだろう。私の思いが日を見ることが無くても、今こうして同じ時間を過ごせることで良しとせねばならないだろう。それにアヤに思いを告げることができたとしても、この館の秘密と化け物のような顔のことを言う勇気は私には無い。よき友、よき師、よき同居人という人物像で彼女の思い出の中に残ればそれでいいのだ…。
 私はアヤを起こしに行った。今日も寝起きはよくないようだ。布団を剥がすと、アヤの腕には私の贈った腕輪が填まっていた。
――着けたまま寝てくれたのか…。
 アヤが私の贈り物と一緒に寝てくれたのが、私には無性に嬉しかった。今日はこのまま寝かせておこうと、私はそっと布団を元に戻した。
 昼近くになり、作曲している私の元にアヤがやって来た。きっと腹が空いたのだろう。私が気づかないふりをして鍵盤を叩いていると、アヤが私の首に手を回して抱きついてくるではないか! 私は努めて冷静を装って話しかけた。
「おはよう、おねぼうさん」
「…今朝ファントムが起こしに来た気がするんだけど夢だったのかな」
 その物言いが何ともおかしく、私は声を立てて笑った。
「何がおかしいの?」
 アヤが私の首に回している腕に力を込める。
「降参、降参だ」
 私は両手を上げて降伏の意を示す。アヤの腕輪が蝋燭の光を反射して赤く光ったのが視界に入る。
「お腹すいた」
 まだ眠いのだろう。アヤが私にもたれかかる。唇が首筋に触れ、吐息がかかる。私は寸でのところで理性で本能に折り合いをつけた。
「ほら、離れなさい。食事にするから」
 私は本心とは真逆の事を言い、席を立った。
 昼食は昨日の残り物なので、いつもと違いことのほか豪華だった。アヤは寝起きなのにと言いつつも、出されたものは残さず食べた。私たちは昨日のケーキの残りをリビングで食べることにし、ケーキの乗った皿と、シャンパンを持ってリビングの暖炉の前においてあるソファへと移動した。


 私とアヤの二人だけの時間がゆっくりと過ぎてゆく。このような時間は事の外幸せだと思う。ケーキを食べ終えて一心地つくと、私の中で昨日からの疑問が鎌首をもたげてくる。どうやってあのカフスボタンを買ったのかという疑問だ。私はそれを聞いてみることにした。
「アヤ、少し聞きたいのだが…。このカフスボタンをどのようにして手に入れたのか、一から教えてもらえないかね?」
 私は袖口で暖炉の炎を反射して光っているカフスボタンを指した。アヤは少しいたずらっぽい笑みを浮かべ、私に話してくれた。



 ここから出た後質屋に向かったんだけど看板が読めないからとりあえず人に聞いたの。親切なおじさんが教えてくれて、すぐに店はわかった。でも店に入ると店主が胡散臭そうにこっちを見るの。まぁアジア人の子供が一人で質屋なんかに入ったら怪しいのは間違いないんだけど…。
「この不思議なペンを売りたいんですけど」
 やっぱり店主はいぶかしげな顔をした。もっとも、変な外国人が変なこと言えば当たり前なんだけど。店主は信じないようだったから、わたしは説明を始めたの。
「インクをつけなくてもいいいろいろな色が出るペンと、消すことのできるペンを売りたいんですが」
「…そんなの信じろって言うのかい? おじょうちゃん」
 よし、くいついたと思ったわ。わたしは紙を出してもらうと、説明を始めたの。
「えーと、赤、青、黄色、黒、ピンク、オレンジ、緑、水色、黄緑に紫」
 わたしが紙に線を引き始めると、店主の目が輝いたの。それでわたしはシャーペンの説明をし始めた。
「こっちが消せるペンなんですが…ここを押すとこれのインクが出てきます。これが出てこなくなったら、ここからインクの替えを入れてください。このペンで書いた文字をこの白いので擦ると…ほら、消えます」
 店主が自分でも消してみたいと言ったから、消し方を詳しく教えたの。
「さて、全部でいくらになります?」
「5フランだね」
「…そうですか」
 店主がにやにやしながらこっちを見てる。絶対足元見られてると思ったわ。それに悔しいじゃない。
「じゃあいいです」
 だからわたしはペンをかき集めて鞄に入れるふりをしたの。
「こんなの持ってる人は誰も居ないし、もうちょっと高く買ってくれる人を探します。ありがとうございました」
「ちょっと待った!」
 店主が止めにかかる。思ったとおりだったわ。
「いくら欲しいんだね?」
「50フランは」
 とりあえず吹っかけれるだけは吹っかけたわ。そうしたらやっぱり店主はあわてて値切るのよね。
「そんなには出せない。10だ」
 当然私も切り替えした。
「そんなのこのペン5本分だわ。もちろん消せない方の5本分ね」
「そんな無茶な! 全部で15だ!」
「わたし以外にこんなすばらしいものをここに持ってくる人は居ませんし、さらに言えばこれは世界中どこを探してもここだけにしかありませんよ?」
 嘘は言ってない。この時代にこれを持っているのは、世界中どこを探してもわたしだけのはずだから。そう煽っておけば絶対に欲しくなるのが人間でしょ? それに少々高くても手の出せない金額じゃないんだし。そうしたらやっぱり店主はもう少し値を引き上げたの。
「…20でどうだ?」
「…45なら」
 それからしばらく私たちは蛇と蛙みたいににらみ合ってたの。よく喋るから私の方が蛙かな。にらみ合いながらこのペンがどれだけすばらしいか、そこを煽って誰かに転売したらもっと儲かるとかさらに煽ったの。
「…25」
「40」
 後はもう睨み合い。目をそらした方が負けると思って絶対に目はそらさなかった。そうしたらついに店主がもう一声値を上げたの。
「……30」
「…わかりました、あなたには負けましたよムッシュ。30で手を打ちましょう」
 そのときの店主の嬉しそうな顔! ファントムにも見せたかったな。笑いをこらえるのが大変だったんだから! やっぱり買い物で、買う方は値切って売る方は吹っかけるのは常識よね。あなたにフランス語を教えてもらって本当によかった。あんなおもしろい駆け引きができるなんて!
 それでお金を受け取って、何を買おうか迷ったんだけど…。カフスに決めて宝飾店に行ったの。ちょうど手ごろな値段で素敵なのがあったから…。それで街を見てたらあんなに遅くなっちゃって…。



 あの時はごめんなさい、とアヤは私にそう言って微笑んだ。この娘は…なんと大胆で豪気なのだ…! 私のためにそんなことまでしてくれるとは! 私以外の人間と話すのが初めてならパリの街を歩くのも初めてだろう。それを私のプレゼントを買うために、そこまでしてくれるとは…。他人から心の篭ったプレゼントなど生まれてこの方受け取った事が無い。私は涙がこぼれそうになるのを必死で我慢し、大切にする、とだけ伝えた。
 神という物がいるならば、私は心から謝りたい。今まで私に苦しみと憎しみしか与えてくれなかった天を、私はずっと恨んでいた。しかし今、天上の乙女は私の目の前にいる。このような幸福の礼を私は神に伝えたかった。
 私の宝物! 私の命! 彼女のいない人生など考えることもできない。彼女が私の元を去ることを考えただけで、私の胸には張り裂けんばかりの痛みが走る。怪物が彼女を愛していたと知ってもらいたい。彼女の中で分不相応な求婚者としてでもいいからどうしても彼女に思いを伝えたい…! だが私の思いを知って彼女が嫌がりはしないか、それとももう国に男がいるのではないか…いろいろな思いが頭をよぎり、私の心は千路に乱れるのだった。