私がサン・ミッシェル広場に立つようになってから…いや、アヤが私の元を去ってから幾日経っただろう。私はアヤを探したいがためにここに居るのに、奇術だけが大衆に受けているというのも腹の立つ話だ。今日も私の前には、朝から小さな人垣が出来ていた。トランプ手品だって人形を躍らせるのだってもう充分だ。虚しい気持ちのまま口元だけは笑みを形作り、手元からカードを消してみせる。今日、夜までここにいてもアヤが見つからなかったら、私はアヤを諦めようか…。だが、ここのところ毎日そんな事を思っても、結局次の日にはここに居るのだ。アヤのことを諦めきれるわけが無い。今、アヤは幸せだろうか? 何を思って日々を過ごしているのだろうか―――?


 そんな事を思っていた私の視界の端を掠めたもの。懐かしい人影。黒髪の子供を何度見間違えたことだろう。見間違えて、何度その相手の許へ駆け出しそうになっただろう。本当に? 今度こそ本当に? 動悸が激しくなり、今にも足が勝手に走り出しそうになる。駄目だ、ここで目立つようなことは出来ない! 私は急いで両の手の指に挟んでいたカードを消した。それにつられて上がる歓声。そして、それを聴いて振り返ったのであろうその顔…。
「アヤ…!」
 小さく叫んでしまった私を誰が咎められようか。人垣に興味を引かれたらしいアヤが私の元へ近づいてくる。一人なのだろうか? ああ、こんな何日も一人で過ごしていたなんて…! 苦労をしていやしないだろうか? 数日とはいえ、辛い目に遭ったりはしていないだろうか…?
 アヤだけを見つめていた私の視線と、人垣の中に埋もれてしまったアヤの視線が絡み合う。そして酷く驚いたようなアヤの顔…。…気付いてくれた。私だと解ってくれた…! アヤがまた逃げてしまわないように、私はそっとアヤの元へ歩み寄り、跪いて赤い薔薇の花を一輪手渡した。少し躊躇しながらアヤがそれを受けとってくれたとき、私は死んでもいいと思った。どうしてもアヤに受け取って欲しくて、毎日隠し持っていたもの。今日と言う日が来るまでに何本の薔薇を枯らしただろう。
「…北側の路地裏で待っていてくれ」
 アヤにだけ聴こえるように、そっと耳打ちをする。アヤは何も言わずに、この人垣から去っていった。


 さっさと奇術を切り上げ、観衆を撒いて私は路地裏へ急いだ。待っていてくれるだろうか? アヤは私の言うとおり、路地裏に居てくれるだろうか? 走りながら色々な思いが脳裏を回る。何をしよう。何を話そう。いや、今はもう、アヤが居てくれればそれでよかった。もうすぐ、その先の角を曲がれば約束の場所…。アヤは、アヤは―――。
 ―――居てくれた。壁に軽く背を預け、私の足音を聞きつけたのか、ゆっくりと顔をこちらに向ける。私は一度立ち止まり、呼吸を整えながらアヤに近づいた。まず、アヤに戻ってくるよう話をして…。
「ちょっと、痩せた?」
 お互いに触れ合える距離まで近づいたとき、アヤが言った。いつものように、少し心配そうな顔で。私に触れようとしたその手を掴み、口付ける。アヤの身体が少し震えたが、私は構わずアヤを抱きしめた。もう、何も言えやしない。頭で考えるよりも身体が先に動いてしまう。アヤが泣きそうな顔を上げたのを見て、私は堪らずにその唇を奪った。激しく、濃厚に。一度ではとても足りない。アヤが私の服を強く掴んだのが解る。この数日の空白を埋めるように、私たちは何度も、何度も口付けを交わした。
 やっと唇での触れ合いを止めたとき、アヤは小さく震えていた。そっと…だが強く、その身体を抱きしめる。数日振りの感触…。いつもそこにあったはずの温もり。アヤはこんなにも温かかっただろうか?
「…やっぱり、痩せたみたい」
 アヤが小さく呟く。
「そうかもしれん」
「なんだか、お日様の匂いがする」
 私の服に頬を寄せ、アヤは少し笑ったようだった。何でも無いような会話が、こんなにも幸せなのだと初めて知った。
「…お前は今、何をしている?」
 ああ、こんな事を言いたいのではないのに。ただ一言、アヤに『戻ってきてくれ』と言いたいだけなのに。
「今日は、仕事の帰り…。いつもより早く上がらせてもらったから…」
「どんな仕事を?」
「すぐそこで、食堂のお手伝いをしてて…」
 言わなければ。そのただ一言を。
「住み込みで?」
「ううん、今はトーゴ…M.サカガミのところにお世話になってるの…」
 ―――なんだって?
「…それは、例の男と住んでいるという事か?」
「すっごくいい人で、事情も訊かずに泊めてくれてて…」
 耳を疑うような言葉だった。少しはそんな予想もしていたが、実際にアヤの口から聞かされるのではまるで違う。
「ベッドも一つしかないのに使わせてくれて…」
 ベッドを使う。そんな言葉をアヤの口から聞きたくなかった。アヤは…私のアヤはその男と―――! 気が狂いそうだった。私が血眼でアヤを捜している間に、アヤがその男とそんなことになっているなんて! 私ではない男にその肌を預けたのか? 私ではない男にあの顔をみせたのか? アヤが、私ではない男と―――!
「それでね…」
「…もういい」
 もういい。もう何も聞きたくは無い。アヤが私を裏切った。それだけが事実だ。
「…あの男は随分悦んだのだろう?」
 アヤが顔を上げる。こんな無垢な顔をして、その男と…。赦せなかった。私のものではなくなってしまったということが、ただ悲しく、そして悔しかった。
「私が丹精込めて仕込んでやったその身体を…!」
 そう吐き捨て、アヤを乱暴に突き放す。もう少し触れていたら、アヤを滅茶苦茶にしてしまいそうだった。
「何を…」
「とぼけるつもりか? …ふん、私はこんな浮気女を追いかけていたという事か…!」
 アヤの見開いた目からは何の感情も読み取れない。
「考えてみればよくある話じゃないか…。十日以上も一緒に暮らして何も無かったなどと信じられるものか!」
 アヤは最初から何の感情も持っていないかのように、ただ私を見ている。
「私の次はその男か? いったいどうしたらそんなに上手く次の男を見つけられるのか教えてもらいたいものだな!」
 泣きそうだった。嫉妬と喪失感に苛まれながらも、まだ心の奥底では信じたくないと思っている。だが、アヤは私ではなくその男の許に行く事を選んだのだ…。あんなにも愛し合っていると思っていたのに、アヤは他の何処でもなく、その男の許に―――!


 噴き出しそうな怒りを堪え、一旦アヤを力づくでも連れて行こうとしたその時だった。
「何をしている!」
 あまり耳に馴染みのない訛りのフランス語。見れば東洋人の若い男がこちらに向かって走ってくる。―――この男か―――!!
「…アヤを離してください!」
 私とアヤの間に身体を割り込ませ、男が睨んだ。
「トーゴ―――…!」
 アヤが驚いたように日本語で何かを言う。トーゴ、というのがこの男のファーストネームか。そしてそんな呼び合いをするような仲なのか…!
「…お前には関係の無い話だろう…!」
 この男が、私のアヤを。この場にアヤが居なければ、すぐにでも縊り殺していただろう。できるものならこの場でこの男を八つ裂きにしたって物足りない。
 お互いに睨みあい、どちらも退こうとはしない。痺れを切らした私が男に殴りかかろうとしたときだった。
「…なの…」
 男の後ろでずっと沈黙を守っていたアヤが小さく呟いた。
「じゃあ、あなたはわたしがどこに行けば満足だったって言うの…?」
 私を見つめるアヤの瞳は、いつものようにまっすぐだった。
「パスポートを持っていないどころかこの時代の人間ですらないわたしが、どこに行けばよかったって言うの…!?」
 思い切り、殴られたようだった。ついに泣き出し、顔を伏せてしまったアヤを見て、私はようやく気付いた。アヤが私以上に行き場のない人間だったということに。
「アヤ…」
「…もういい…!」
 そう、たった一言だけ私に言い、アヤは男の腕を掴んで踵を返した。私はただぼんやりと、走り去っていく二人を見送ることしか出来なかった。


 私は何と愚かだったのだろう! アヤは好き好んであの男の許へ行ったのではない。私が手を離せばアヤにはどうすることも出来ないことぐらい、少し考えれば解ったはずなのに! 旅券どころかこの時代に存在すらしていないはずのアヤが大使館に行ったところで、日本に帰れるわけもない。金だって渡していないのだから、どこかに宿を取る事もできやしないだろう。そうしたらアヤは娼婦に身を落とすか、あの男を頼るしかない。何故そんな簡単なことに私は今まで気づきもしなかったのだろう…! 私以外には知っている人間も、頼れる人間も居なかったアヤが、同じ祖国の人間に会えば喜ばないはずがない。口には出さずとも祖国に帰りたくない訳が無いだろうに…。
 私は馬鹿だ。アヤのことを信じてやれなかったなんて。18歳なんてまだ子供のようなものだ。いきなり一人で誰も知らない場所で生きて行かなければならなくなったアヤが、祖国を懐かしむのは当たり前のことなのに! きっとあの日だって本当に話し込んでしまったのだろう。そして成り行きであの男を頼らなければならなくなって…。アヤは否定も肯定もしなかったが、私はアヤを信じようと思った。もしアヤが本当にその男と関係を持っていたとしても、私の元へ帰ってこなくても、それは仕方の無いことなのだから…。
 だが、アヤがあの男と肌を重ねていたら…。たった今、信じようと思ったばかりなのに、悪い方向へ、悪い方向へと考えが向かっていく。私の唇と指の触れていない場所など無い柔肌を、私の名を呼ぶときの熱っぽい目を、あの男に見せていたら…。泣きそうな声であの男の名を呼んでいたら―――! …いや、悪い事は考えない方がいい。私は急いでその考えを振り払うように頭を振った。
 きっと、あんな事を言った男の許へ帰ってきてくれるわけが無いだろう。だが、たった一言だけでもアヤに謝りたかった。あの日のことも、今日のことも、全て謝りたかった。全て悪いのは私だ。そして私のせいでアヤは私の元を去ったのだ…。赦してくれなくてもいい。戻ってきてくれなくてもいい。それでももう一度、心の底からアヤに謝りたかった。
 自分の愚かさにつくづく嫌気が差す。ついこの間アヤをもう泣かせないと誓ったばかりなのに。何て酷い事を言ってしまったのだろう。何て酷く傷つけてしまったのだろう。折角アヤが待っていてくれたのに。私の口付けも受け入れてくれていたのに…! 

 明日、またアヤに会って赦しを乞おう。どんな結果になろうとも、明日で終わる。明日が私の運命が決する日なのだ―――。