早朝、重い足を引きずり、私はサン・ミッシェル広場に来た。昨晩は一睡もしていない。最も、アヤが私の許を離れてからは、ずっとろくに寝てはいないのだが…。
薄暗い広場は夏と言えども肌寒い。朝日が雲を照らし、夜と朝との境目が徐々に変わってゆく。朝焼けを見るのは随分と久しぶりだ。アヤがまだ私の許にいなかったころは暗い地下で夜をすごすのが嫌で、オペラ座の屋上で夜が明けていくのをぼんやりと眺めていたこともあったのだが。月と星の光が薄らいでゆき、だんだんと周りの家で人の気配がし始める。
もう少し日が高くなれば、この広場にも人が多くなってくるだろう。だが、人目を気にするよりも何よりも、私はアヤに会わなければならなかった。アヤに会って、今までのことを心から謝りたい。そして帰ってきて欲しい。アヤが私を赦さずにあの男の許へ留まるかもしれない事ももう覚悟した。あんな酷い事を言った男を、赦せるわけがないのだから…。ああ、本当に私は彼女になんと酷い言葉をぶつけてしまったのだろう! 私以上に行き場所のないアヤを何故突き放してしまったのだろう! 誰よりも、私が護ってやらなければいけなかったというのに…。
きっと今までアヤが私に逆らった事がなかったのもその所為だろう。私に嫌われるのを恐れ、私に見放されたくないがために…。アヤが居場所と引き換えに愛を私に支払っているのではない事は解る。一年近くも暮らせばアヤがそんな事をできる女でないことぐらいは見えてくる。あれは嘘を吐く事のできない娘だ。本人は隠しているに違いなくても、傍から見ればすぐに判ってしまうのだから。
アヤが今まで私にしてくれた事は数え切れない。アヤと出会ってから、人の温かさ、優しさ、心地よさ、色々なものを教えてもらった。アヤにとっての多少の打算があったにせよ、アヤが私にくれたのは愛情以外の何物でもないと思う。どういう成り行きであれ、アヤは何者とも知れない私を、何も訊かずに愛してくれたのだ…。
人の視線が痛くなってきた頃、カルチェ・ラタン地区の方角からついにアヤがやってきた。私の姿を見咎め、逃げられては敵わない。私はすぐに物陰に隠れ、アヤが近づいてくれるのを待った。永遠にも思える数十秒の後、あと数歩という所までアヤがやってきた。さりげなくアヤの前に歩み寄ると、アヤは歩みを止めた。
「アヤ」
アヤは一瞬驚きと何かが入り混じったような目をし、すぐに私から目を逸らした。そしてそのまま早足で私の横を歩き去ろうとする。
「待ってくれ! ……後生だから…」
私は慌ててアヤを呼びとめ、その腕を掴んだ。アヤは一瞬腕を引いたものの、私の手から逃げることは出来なかった。逃がすつもりもなかった。
「…すまなかった」
後ろを向いたままのアヤの肩が小さく震えた。
「昨日の事も、この間の事も、すまなかった」
私はアヤの背に向かって話し続けた。アヤは黙って私の言う事を聞いている。
「…あんな事を言った私を赦す事はできないと思う。だが、一言、それだけでもお前に謝っておきたかった」
アヤの腕を握る手に、力が入る。
「お前の気持ちを解ってやれなくて、本当にすまなかった」
アヤの肩が、小刻みに震えだした。
「…もう一つ、お前に返しておきたいものがある」
私は握ったままのアヤの腕に、あの腕輪を填めてやった。
「これはもうお前にやったものだ。お前の好きにするといい」
あの時、アヤが私の全てを捨て去るつもりで置いていったであろう腕輪。前のようにアヤの腕で光ってはいるものの、アヤが私の許に居たときほど美しくは見えなかった。
「そして…」
腕を引き、アヤを私に向き直らせる。アヤは静かに泣きながら、私を見ようとはしなかった。
「忘れ物だ」
私がアヤの手に乗せたもの…それは鍵だった。私の棲む地下へと通ずる、小さな金の鍵。このまま無理矢理アヤを連れて帰ることもできるだろう。だが、そんな事をしたら彼女は私を赦さないに違いない。そして私のように闇に棲む必要の無いアヤが、日の本で暮らしたくなっても仕方の無い事だろう。もちろん私の許へ帰ってきて欲しい。だが、私はアヤを縛り付ける事はしたくなかった。
「もし、私のことを赦してもらえるなら…戻ってきてほしい」
アヤが鍵を握り締める。
「無理にとは言わない。……最後の扉を開けるのはお前自身だ」
私が掴んでいた腕を放すと、アヤは胸の前で鍵を両手で握り締めるような仕草をした。
「…話は、これだけだ」
犀は投げられた。もはや退く事は出来ない。
「愛している。これからもずっと、………お前だけを」
私は後ろ髪を引かれながらも踵を返した。これ以上この場に居れば、アヤを無理矢理にでも連れて帰ってしまいそうだった。
広場を出るときに、私は誘惑に負けた。振り返って見たアヤは、鍵を握り締めたまま、ただ静かに涙を零していた。