肌寒い朝だった。雲の流れを見ても天気が崩れるのは間違いない。だが、それでも私はサン・ミッシェル広場に居た。天気を気にしてか、人々は私のほうなどあまり見ずに早足で過ぎ去ってゆく。―――こちらの方がアヤを探すのに集中できる―――。
懸念していた通り、昼前からついに雨が降り出した。こんな格好で、こんな場所で、よくも雨に降られる気になっていると思う。確かに人目は少なくなるが、雨で仮面がはがれてしまうかもしれないのに…。だが、雨を理由に広場に立たなかったとして、もしアヤが私のいない間にここを通ったら? 通るだけならまだしも、パリを出て行くためだったら? そんなことになれば私は後悔しても後悔し足りないだろう。アヤに逢えない選択肢を、少しでも塗りつぶしておきたかった。
ゆっくりと降る雨―――私の涙のような―――がじわりと体温を奪ってゆく。マントを羽織ってはいたけれど、霧のような細かい雨に打たれるうち、どんどん冷たく、重くなってゆく。アヤはこの雨に打たれていないだろうか? ちゃんと夜露を凌げているのだろうか…? その男の許でもいい。アヤが無事でさえいてくれるのなら、なんだっていい。 アヤが無事で、私の元に戻ってきてさえくれれば…。
もしアヤを見つけたら、何を言おう。この数日の事? それとも一人でどうしていたかと言う事? 言いたいことはいっぱいある。聞きたいこともいっぱいある。今はただ、アヤに逢いたかった。アヤに逢って、私の元へ戻るよう説得する。だがもし、アヤが私の元へ戻りたがらなかったら…? もしそうなったならば、私はどうするのだろう。アヤが再び、私を拒んだなら…。いや、今は考えるのをよそう。アヤを探す事の方が先なのだから。
昼を過ぎ、夕方になるにつれ人通りが少なくなった。傘を差して行き交う人も少なく、雑貨店も、カフェも暇そうにしているのが見える。ぱさりと一筋落ちてきた髪をかき上げ、私は何度目か判らない溜息をついた。アヤは本当に、まだパリに…いや、フランスにいるのだろうか? 私の元を去ってすぐに帰国の途に着いてはいやしないだろうか? なぜもっと早くアヤを追わなかったのか…。そもそもあんなにもきつく私が怒らなければ、アヤは出て行かなかっただろうか…? なんにせよ、私がアヤの手を離してしまったことに変わりはない。
ふと気付くと観客が一人、いた。雨が退屈で飛び出してきたとでも言うような小さな女の子が、一人。簡単な奇術をいくつか見せてやると、少女は喜び、私に小さな手を差し出した。つられる様に差し出した私の手に少女が乗せたのは、ボンボン一つ。
「あなた、いつもいるのね。ママと通ると見せてくれないから、今日はひとりで来たの」
こまっしゃくれた口調で、傘の下から見上げるように少女が言う。
「こんな雨で誰も居ないのに、何をしているの?」
…本当に子供とは大人の訊き辛い事を率直に訊いてくるものだ。
「手品を人に見せたいの? それならいつもたくさんの人に囲まれているでしょう?」
「…私はね、探し物をしているのだよ」
子供の疑問符からは到底逃げられそうも無い。
「おじさんの探し物って、なあに?」
少々心に刺さる単語は、聞かないことにした。
「小鳥を…そう、小鳥を探しているんだ」
まさか真実など人に話せるわけも無い。私は適当に話をごまかすことにした。
「めずらしい小鳥なの?」
「いや、これといって珍しいわけでも…。まあ、パリで見かけることはほとんど無いが、彼女の故郷には彼女の仲間が大勢いるよ」
少女は金の巻き毛を弄びながら、私の話に耳を傾けている。
「なんでおじさんの小鳥はいなくなったの?」
「私の不注意で…籠の戸を少し開けておいたら、逃げてしまったんだ」
「だめねえ、小鳥をなつかせないなんて」
少女の何気ない言葉の一つ一つが耳に痛い。
「なついてはいたよ。でも、その日は居なくなってしまったんだ」
「ちゃんとその子に話をしてる? わたしのネコも、すぐにいなくなっちゃうけれど、わたしがどれだけおまえを愛してるかちゃんと言ってるから、最後にはうちに帰ってくるのよ」
話を…。…確かにあの日の私達に足りなかったのは、冷静な話し合いだったのかもしれない。
「おまえが一番大事だよって、わたしはミーナにいつも寝る前に言い聞かせるの。ミーナもちゃんとお返事するのよ?」
ミーナ、とはその猫の名前だろうか? 子供の話はあちこちに飛ぶから解りづらい。
「おじさんも、新しい小鳥を飼えばいいのに」
「…別の小鳥では、駄目なんだ。あの小鳥は世界にたった一羽しか居なくて、他のどの小鳥もその小鳥にはなれないのだよ」
そうだ。他の誰もアヤの代わりになどなりはしない。仮面をつけなければ外を出歩くことすらできないような私を、薄暗い地下に息を潜めて暮らしている私を、何も訊かず、何も言わず愛してくれたのだ…。そんな人間がこの世界のどこに居る? 私の拠り所となってくれる人間が、アヤのほかに誰が居る? アヤでなければ駄目…アヤ以外の誰も、考えることなどできやしなかった。
「いけない、ママに怒られちゃうわ。ミーナのミルクを買いに来ただけなのに」
ぼんやりと思案に暮れていた私は、慌てたような少女の声で我に返った。
「おじさんの小鳥、みつかるといいわね」
そう言って少女が私に微笑む。
「…ありがとう」
私の言葉を聞くか聞かないかのうちに、少女は走り去っていった。残された私の手には、少女がくれたボンボンが一つ。そっと包み紙を剥がして口に入れると、その甘さが口に広がる。本当にアヤは見つかるだろうか? もし再び出会えたら、今度はきちんと話をしてみよう。もうアヤを泣かさないように、…私の元へ戻ってきてくれるように。
少女のくれたボンボンが、雨に打たれた疲れを少しだけ癒してくれる気がした。