その晩は少し綾さんの仕事が長引いたようだった。まだ店の中から客と思われる複数の男達の話し声は聴こえていたけれど、僕が待っているからと綾さんは早く帰してもらったらしい。二人でゆっくりと喋りながら、サン・ミッシェル広場を横切っているときだった。
「そういえば、今ここに手品をする大道芸人がいるみたいです」
「へぇ、手品か…。面白そうだね」
「お客さんが話してるのを聴いただけなんですけど、随分いろいろな手品をするらしいです」
さすが巴里だ。日本の蝦蟇の油売りとは訳が違う。
「今度の綾さんの休みにでも、見に行ってみようか」
僕がそう言うと、綾さんは嬉しそうに頷いた。
「今日は月が綺麗だね」
ふと見上げると、街並みの上には金の月。僕たちはその優しい光の丸い月を見ながら、ゆっくりと家路に着いた。
「もう少し話していたい気もするけど…だめかい?」
帰宅しても、いつもなら綾さんはすぐに寝入ってしまう。明日も綾さんの仕事があるのはわかっていたけれど、もう少しこの僅かな時間を楽しみたかった。
「じゃあ、先に着替えてしまいますね」
無理な頼みであっただろうに、綾さんの答えは事の外嬉しいものだった。もう少しだけ話をして、そうしたら綾さんを休ませてあげよう…。
綾さんが着替えている間、僕が後ろを向いているのが常だ。だが、このとき僕は何気なしに振り返ってしまった。一瞬ではあったが視界に入った綾さんの白い背中。そしてそこに散る幾つもの跡。おそらく数日前までは赤く綾さんの背中を彩っていたであろう物。ほんの一瞬ではあったけれど、僕はそれを見逃さなかった。消えかけて随分薄くなってはいたけれど、間違いなく、男につけられたであろう行為の跡…! 目の前が暗くなり、氷の手で心臓を掴まれたような動悸がする。綾さんは『大家』としか言わなかったが、やはり恋人だったのか―――!
「…透悟さん?」
綾さんに名を呼ばれ、我に返る。綾さんはいつの間にか部屋着に着替えており、不思議そうな顔で僕を見ていた。いつも通りの綾さんに、僕が今見てしまったものを言うべきだろうか…? 信じられない、という言葉より信じたくない、という言葉が脳裏を回る。綾さんが、綾さんが、綾さんが―――! 僕のものでないのは解っている。だけどこの数日で僕は間違いなく綾さんを好きになっていた。彼女の過去を知ることが、こんなにも辛いなんて…! 綾さんは僕と出会うまで、男と住んでいたのだ。そしてあの日、きっと僕が原因で喧嘩をし、家を出たのだろう。どんな男か知る由もないが、綾さんはその男のものだったのだ…。
「どうか、したんですか?」
綾さんの顔を見ることもできずにただうつむく僕に、綾さんの心配そうな声が降ってくる。この優しい声も、何もかも、全てその男のものだったのか…! いっそ何も知らずにいたかった。ただ妹のような存在だと、それ以上の感情を抱かずにいればよかった。もしそうだったなら、今こんなにも僕は苦しまずに済んだだろう。恋の痛みを知らない者は、どんなに幸福だっただろう―――!
綾さんがずっと何かを言っていたが、僕の耳にはもう届かなかった。ただ、僕の心臓の音だけが、嫌に大きく頭の中で鳴り響いていた。