今までとは違う事が日常になるのは早いものだ。綾さんが僕と暮らすようになって、一週間が過ぎた。朝早く綾さんが出て行き、日中は一人の時間を満喫し、夜は綾さんを迎えに行く。そんな生活形態が身につきつつあった。夜道を綾さんと歩きながらいろいろな話をし、綾さんが持って返ってくる食堂の残り物で夕食をとる。僕が一人で暮らしていた頃よりも、よっぽど有意義な時が流れていくように思う。誰一人として知り合いの居ない巴里での夜は、正直嫌になるほどの孤独に襲われることもあった。古書を探して時を忘れ、誰も居ない明かり一つ無い部屋に帰るのが嫌で、娼館で夜を明かしたこともある。例え遊女であれ、誰かと過ごす夜が欲しかった。
だが綾さんが来てからはどうだろう。朝夕の二回は同じものを食べ、同じように眠りにつく。一間しかない僕の部屋で過ごすため、綾さんに気を使って夜更かしもしなくなった。やれることは昼間にやり、夜はただ綾さんとの時間を過ごす。日本で家族に囲まれているときには思いもしなかったけれど、やはり誰かと過ごすのは心地のいいことなのだと気付かされる。
その日は一日休みをもらった綾さんと、ずっと家にいた。外は朝から雲行きが怪しく、昼になるころには雨が降り始めていた。
「なんだ、折角のお休みだから洗濯でもしようと思ったのに」
つまらなそうに綾さんが溜息をつく。
「折角のお休みだからゆっくりすればいいのに」
僕は読んでいた本から目を上げて綾さんの口真似をした。
「わざわざ真似しなくてもいいじゃないですか…。それにお世話になってるんだから家事ぐらいはさせてください」
少し口を尖らせて文句を言う綾さんが可愛らしい。
「この数日慣れない労働で疲れてるだろう? 今日ぐらいは羽を伸ばしたほうがいい」
「でも…」
「買い物にも行かなくていいように、今日の分の食材も買ってある。今日はここでゆっくりしよう」
部屋に帰ってきてもすぐに寝てしまう綾さんともっと話がしたかった。もっと綾さんを知りたかった。
「晴れてたらもう一度、サン・ミッシェル広場も見に行きたかったのに」
「あれ、いつも通るんじゃないのかい?」
あの食堂に行くには広場を突っ切るのが一番早い。
「だって、朝は早いし夜は遅いから見たいものが見れなくて…」
確かに綾さんが通るような時間に、綾さんの興味を引くような店は閉まっているだろう。
「また今度にしよう。こんな雨の日に行っても面白くも無いだろう」
夏とは言え、日本と比べて肌寒い日が多い。今日の巴里も雨のおかげで肌寒く、出かけるのは億劫だった。
紅茶を飲みながら、綾さんと語らう。気付けば僕だけが喋っているような気がして、綾さんにも話を振る。だが、綾さんは上手く言葉を濁すばかりで、詳しい事を話そうとはしなかった。日本の何処に住んでいたのか、何のために巴里に来たのか、巴里ではどんな暮らしをしていたのか、…一緒に暮らしていた人はどんな人だったのか。何故僕はそんなにその大家の事が気になるのだろう。女性を受け入れるぐらいなのだから、よもや変な男だったりするわけではないと思いたいのだけど。そしてなによりも、綾さんが何故全てを語ってくれないのかが気にかかる。親から勘当同然で留学してきたということなのだろうか? でもそうするとこちらでの生活費は? 働くのは初めてだと言っていたのに。着ている物だって上等品だと見て取れる。最初にあった時だってきちんとした身なりだった。親からある程度の仕送りが無ければ無理な話だろうに…。
結局、僕が綾さんについて知りえた事はあまり無かった。むしろ綾さんはあまり自身の事に触れて欲しくない様子だった。確かにあまり深く突っ込んでしまうのは失礼だと解ってはいる。だが、綾さんに対する興味が尽きることは無かった。
夕食を作るという綾さんを制止して、僕の手料理をご馳走する。台所でつまみ食いをするうちに覚えた料理ばかりだけど、久しぶりの日本の味だといって綾さんは本当に嬉しそうだった。
「お醤油なんて何ヶ月ぶりだろう…」
日本からの手荷物に時折入っている調味料。全て乾物ばかりではあるけれど、その味が綾さんにとってはとても懐かしかったようだった。正直こんな機会でもなければ一升瓶に入った醤油を減らす事がないので、僕にとっても綾さんが食べてくれるのは嬉しいことではあるのだけど。
「芋と豆と肉を醤油で煮ただけだけど、やっぱり醤油を使うだけで日本の味のような気がするよ」
「本当に、もう日本食なんて食べられないと思ってましたから…」
…どういう意味なのだろう。やはり勘当覚悟で巴里に来たと言うことだろうか?
「…食べさせてあげれたらいいのに……」
綾さんがほんの一言、小さく呟いた。小さな小さな窓の外の雨音にかき消されそうな呟きだったけれど、僕はそれを聞き逃さなかった。綾さんが日本食を食べさせたい相手。やはり彼女の心には誰かが居る。それが誰なのか問いただしたかったけれど、僕には無関係なのだと言い聞かせ、それを堪えた。物思いに耽るような綾さんの顔を見ながら、僕は今夜の空模様のような淀んだ感情が胸を支配していくのを感じていた。