――眠れなかった…。
朝、ファントムは充血した目を鏡で見ながらため息をついた。昨日の一件があるのでどうもアヤと顔を合わせづらい。今日はこのまま部屋に引き篭もろうかとも思ったがそんなわけにも行かない。ファントムは檻の中の熊のように部屋をうろうろと歩き回りながら考えあぐねていた。
小一時間もそうしていただろうか。ファントムの部屋に何かを焼くいい匂いが入り込んできた。ファントムはそっと部屋を出てキッチンへと向かう。そこで料理をしていたのはやはりアヤだった。服装は着物のまま。それを見てファントムは部屋に引き返そうかとも思ったが、視線を感じたらしく振り返ったアヤに見つかってしまった。ファントムは仕方なくダイニングチェアに座ると、ぼーっとアヤを見ていた。
ファントムが料理をしているのを見て覚えたのだろう。勝手知ったる我が家の様にアヤは手際よく料理を作っていく。目玉焼きかとも思ったが何だか見知らぬ卵の塊みたいな料理だった。
その時だった。
「――!」
アヤが小さく悲鳴を上げて人差し指を咥える。どうやら熱したフライパンに触れてしまったようだ。
「アヤ!」
ファントムは弾かれたように椅子から立ち上がるとアヤの元へと走った。
「大丈夫か?」
アヤはごめんなさい、とでも言うように指を咥えたままファントムを上目遣いで見る。
「見せてみろ」
ファントムはアヤの手を取った。指先はほんのりと赤くなっている。
「後は私がやるから水で冷やすがいい。食べ終わったら薬を渡そう」
アヤはまだ何かを言いたそうにファントムを見る。
「ごめんなさい、だアヤ」
「ごめん、なさい」
ファントムは苦笑してアヤの頭を撫でた。
アヤの作った卵料理は、塩胡椒と砂糖しか使ってないのになんだか知らない味がした。
食後、ファントムはアヤの指先に薬を塗りつつアヤの年齢はいくつなのか聞いてみようと覚悟を決めていた。オリエンタルマジックとでも言うべきその外見。外見は12,3にしか見えないがあの体は明らかにハイティーンである。小さな体に比べて大きめのアレ。自分の目を信じればいいのか知識を信じればいいのか判らなくなっていた。
薬を塗り終わったファントムはアヤにチョコレートを勧めた。昨日買ってきたもので、一つ一つが色とりどりの包装紙に包まれている。ファントムは自分の前に33個のチョコを置いた。
「アヤ」
自分の前のチョコを指してアヤに尋ねる。
「ファントム?」
アヤはファントムの前のチョコを数えていたようだったが、チョコの数とファントムを結び付けたようだった。
アヤがチョコレートに手を伸ばす。
ひとつ ふたつ
長いようで早い時間が流れていく。アヤの手が赤い包みを取ってダイニングテーブルの前に置く。かさり、と包装紙が音を立てる。その赤い包みを最後にアヤの手が動くことはなかった。
――17…。
覚悟はしていたがショックは大きかった。何故ここに、何故日本から…いろいろな思いが倒錯する。脳が情報処理に追いつかない。ファントムは頭が痛くなった。無理に笑顔を作ってアヤにチョコを勧めると、ファントムは部屋に戻った。
「なんなんだ…」
ファントムは溜息をついた。疑問が次々にあふれ出ては胸の奥に溜まっていく。何故日本からここに来たのか。この館までの道は罠で覆われているのにどうやってたどり着いたのか。日本では着物を着ているらしいがアヤが着ていたのはどう見ても洋服だ。天才といわれた彼でも仮説一つすらたてられなかった。
「オリエンタルマジックか…」
あの幼さはなんなのだ、とファントムはまた溜息をついた。
――東洋人は若く見え年齢不詳だと言うがその通りではないか…。それがヨーロッパ人に不老不死の神秘を求めさせてやまないものなのだろう。しかし、妙齢だというのにあの無用心さはなんなのだ? 私に肩を見られてもコルセットを締められても何故平気なのだ…。
「全く理解ができん…」
言葉が通じないならそれも当然か、と自嘲的な笑みを漏らす。
「言葉を、教えてみるか…」
頭は悪くなさそうだし物覚えも早い。何より、もっとアヤのことを知りたいと思った。つい先週までずっと自分は一人で生きていくのだと思っていた。使い走りをしてくれるものはいるが、そこまで気になる存在ではない。それが、たった一人の少女が自分の前に現れただけでここまで考えが変わってしまうとは思ってもみなかった。
――いや、私はただ館の内部を知るものを目の届くところにおいておきたいだけだし、言葉を解さない異国の少女をパリジェンヌに仕立てることに興味があるだけだ。それに喉も悪くは無い。
「私はただの物好きだ」
胸を渦巻く気持ちがなんだかわからないまま、ファントムはアヤがまた何かを作り始める前にキッチンへと戻った。
昼食後、ファントムはアヤに言葉を教えてみることにした。日常生活に必要なものの名前から一つ一つ丁寧に言っていく。
「テーブル」
「てぶる」
「イス」
「いゅ」
「シャツ」
「さつ」
発音はお世辞にもいいとは言えないが、ゲルマン語族ではない国なのだから聞き取りづらいし言いづらいというものがあるのだろう。その代わり一度言った単語は忘れない。アヤはまるで真綿が水を吸い込むように言葉を覚えていく。
ファントムは面白かった。打てば確実に響いてくれる生徒に満足していた。
――会話が成立するころになったら歌も教えてみよう。
いつになるかはわからないが、ファントムには楽しみだった。
夕方近くになると、アヤは名詞だけではなく「これは何?」まで覚えていた。夕食を作るファントムの手元を覗きながら「クロワッサン、これは何?」と聞いてくる。そのうち『食事』やメニューまで教えてみようとファントムは思った。
「ファントム、ぉさら?」
まだ言葉はたどたどしいがアヤが聞いてくる。
「ああ、よろしく頼む」
まだ判らないかとも思ったが、はい・いいえの区別はつくようだ。アヤが出した皿にスープを注ぐ。名前と一緒に収納場所まで教えたので、食卓の用意はアヤがしている。
今日の味付けもなかなかの出来栄えだと思いながらファントムはスープを口に運ぶ。アヤも美味しそうだ。
「アヤ、美味しいかね?」
「おい、し?」
「そう、美味しいかね?」
「はい、おいしい」
子供が言葉を覚えるときとはこのような物なのか、とファントムは思った。子供よりも飲み込みが早いのが何ともうれしい。
声楽用の楽譜を探しておかねばな、とファントムは思いながら、まだまだ長い秋の夜をどう過ごそうか思案し始めた。