そろそろアヤが私の館へやってきてから一ヶ月になる。早いものだ。アヤはずいぶんと言葉を覚え、たどたどしくも短い文なら話せるようになってきた。語学レベルは3歳児並みにはなっているだろう。まぁ、一概に私の教え方がいいのだろうが…。この一ヶ月で随分とアヤの事が判ってきた。そして出てきた問題も…。私に随分と打ち解けてくれるのは大変ありがたいのだが、彼女は相当なスキンシップ魔のようだ…。私が作曲をしていると後ろから抱き付いてじゃれてくる。他人と触れ合ったことの無い私にあんなにも触ってくるのは彼女ぐらいのものだ。しかし、せっかく買ったコルセットは苦しくてあまりお気に召さないらしく、大体は彼女が着てきた服か寝間着で館をうろついている。寝間着は胸元が開いているし彼女の服は随分と足が露出されて、正直目のやり場に困っている。それになんだかんだ言っても私も男性なわけで、妙齢の女性に抱きつかれると悪い気こそしないが困ることもあるのだ…。
 パリはもう11月に入りこの地下帝国も随分と冷え込んできている。朝などはストーブを焚いていても布団の誘惑が強いときもあり、なかなか起きる事ができない。問題はアヤだ。彼女は薄い寝間着か足の見えている服しか着ないので、これからの季節は風邪をひいてしまうだろう。そろそろジュールが私の注文を受けにここへとやってくるだろう。そのときにでも彼女のコートを頼もうと思っている。また、日本人なら着付けはできるだろうからアヤに聞いた着物一式も頼んでみよう。流行に乗るのは癪ではあるが、フランス娘とは違う、本当の着こなし方をされた着物を見てみたいのだ。


 おっと、ジュールが来たようだ。部屋にベルが鳴っている。いつも思うのだが彼にも罠を越えてここまで来てもらいたいものだ。わざわざ地上まで向かうのはなかなかに骨が折れる。
「お久しぶりです、旦那。今日は何を買ってきますか?」
「ここに書いてある」
 私はメモを渡す。食料品の他に着物一式とアヤのコートが増えているからだ。
「キモノですか…。物好きですね。でもなんです?この細かいもの。それにコートだなんて…」
「居候がいるのだ。サイズはここに記してある」
 もう一枚のアヤのサイズがかいてあるメモを渡す。先月洋品店で計ったものだ。
「…女性物ですか」
「あまり詮索はしないでくれ」
「わかりました。では夕方にまた」
「待て。リヨンの店のチョコレートを買ってきてくれないか。切れているのだ」
「…チョコレート好きの居候によろしくお伝えください」
 心なしかジュールがにやにやしているような気がしたが、彼はいつものように買出しへと行ってくれた。
 今日のパリは寒い。落ち葉が何ともいえない秋の風情を醸し出しているが、そろそろ雪が降り出すだろう。アヤのコートも出番はそんなに遠くはない。私はまた地下へと戻って行った。


「ファントム、お昼何?」
 アヤは今日も寝間着だ。胸元が開いているので少し困る。
「今日はオープンサンドにしようか。サーモンマリネがいい具合に漬かっているはずだ」
「サーモン好き」
 アヤがフランス語を覚えて意思の疎通ができるのが何とも嬉しい。発音は随分とよくなっている。最近は食事全般をクロワッサンと言うことも無くなった。キッチンにもすっかり慣れ、手伝いもしてくれる。この間私がアヤのことを忘れて作曲に没頭してしまったときはホットケーキを焼いていた。晩御飯に作ったのだろう。私の分もテーブルに置いてあり、何か作ろうとキッチンにやってきた私には大変ありがたかった。少々甘すぎではあったが焼き色も味も悪くは無かった。バターが溶けかけている作り立てならもっと美味かっただろう。実際は固まりかけであったが。
「アヤ、パンを切ってバターを塗ってくれ」
「こう、横に切る?」
 最初はなんだか危なっかしいような気がして包丁を持たせる気にはならなかったが、最近ではそのようなことも無い。アヤにパンを任せて、私は横で野菜を用意する。サーモンマリネはちょうどいい漬かり具合だ。
 やっぱりこう横に並ぶと斜め上からアヤを見るわけで、そうすると彼女の谷間が…いや、野菜に集中しよう。私がこんなことを考えていると知られたらここまで築いてきた信頼関係は崩れてしまうだろう。彼女は私をどう思っているのかは知らないが仮面のことも何も聞いてくることは無い。私も彼女のことを聞かないが、彼女も私のことを聞かないという暗黙の了解が成り立っている。全く何も知られていないとは思わないが、この仮面の下の素顔を彼女に見られたらそのときはこの関係に終わりを告げるしかなくなるだろう。…あまり考えたくも無い事だが。
 アヤが切ったパンに私が野菜とサーモンを挿む。こんな手抜き料理でアヤが喜ぶのは嬉しい。女とはもっと煩い物だと思っていたが、アヤはそこらの女とは違うようだ。自分から何かをねだるようなことも無い。ねだるのはリヨンの店のチョコレートぐらいの物だ。むしろ私がアヤに喜んで欲しくていろいろなものを与えてしまう。彼女は少し困ったような顔をしてそれを受け取るが、迷惑ではないようだ。他人と暮らすということがこんなによいものだとは思ってもみなかった。私は生まれてこの方ずっと受けていた苦しみを、この一ヶ月で全部清算できたような気までする。アヤがどうやってここへやって来たかは判らないが、私は神というものに初めて感謝の念を抱いてもいいと感じている。
「ファントム、サンドウィッチ美味しい」
 アヤがサンドウィッチをほおばる。最初はマナーができていないとも思ったが、堅苦しいマナーに縛られて食べるよりも、手づかみで食べたほうが美味しいものもあると気づかされる。アヤといると本当に飽くことを知らない。
「アヤ、チーズが口についている」
 アヤは口元についたカマンベールチーズを中指で掬うとぺろりと舐め取った。
「昼食を食べたら今日は何をしようか」
 ここ数週間はフランス語を教えていたが、そろそろそんな必要も無いだろう。おかげで私の作曲時間は格段に減ったが、アヤと過ごす時間のほうが大事に思える。
「お勉強?」
「それはもういいだろう。アヤは十分上達したよ」
「じゃあ好きなこと」
 ああ…何と言う事だ。アヤが私とではなく一人で過ごす時間を選ぶとは…。しかし落ち込む私にアヤは言う。
「ファントムのオルガン聴きたい」
 私は一気に立ち直った。アヤが私の音を聞きたいと言ってくれるとは!それならば今日はお前のために心を込めて鍵盤を叩こうではないか…。
「アヤ、歌は歌わなくていいのか?」
 私が聞くと、アヤは少し悲しげな顔をした。
「いい、ファントムの音聴きたい」
 何かいけないことを聞いてしまったのだろうか。しかしそれを今掘り下げて聞くこともできない。


 アヤは昼食を食べ終わると先に席を立った。足音が館の外…湖へと向かっていく。最近アヤはぼんやりと湖を眺めることが多くなった。今日は寒い。そのまま外に出しては風邪をひいてしまうだろう。私はマントをつかむとアヤを追った。
 アヤはやはりいつものように湖を眺めていた。
「アヤ、これを羽織りなさい。風邪をひいてはいけない」
 アヤはただ頷くだけだったので、私は彼女にマントをかけた。そして、訊いてみた。
「一体最近どうしたというのだ。言ってくれなければ私にはわからない」
 アヤは少しの沈黙の後に何でもない、と小さく答えた。
「何でもない訳がない。最近のアヤは様子がおかしい。私は…お前のことが心配なのだよ」
 アヤは何も答えない。ただ寂しそうに私から目をそらすだけだ。
「帰れないのかな」
 唐突にアヤが呟く。その言葉は私にとって死刑宣告も同じだった。彼女は日本に帰りたがっている!それが彼女にとって一番いい事なのはもちろん承知だ。しかし、この一ヶ月で私の中の彼女はとても大きいものになっていた。
「…帰りたいのか?」
 私は声を必死に絞り出し、恐る恐る訊いた。彼女は頷いた。その瞬間、私の心臓は一瞬して凍りついたかのようだった。
「試験を受けなきゃ」
「…何の?」
「大学。あと3ヶ月ぐらいしかないの」
「何を学びにいくのだ」
 歌、とだけ彼女は呟く。日本にも大学があり音楽を専門に学べるとは知らなかった。
「歌ならば私が教えよう。日本への道のりは遠いし帰れる目処がつくまできちんと練習をしておいた方がいい」
「…やっぱり帰れないのね」
 彼女の瞳が潤む。私の胸は痛みを増す一方だ。
「…そんなに帰りたいのかね?」
 私の心の中にゆらり、とほの暗い炎がともる。帰さない、という思いが頭の中でこだまする。あと一歩彼女が私を追い詰めれば、きっと何かをしでかしてしまうに違いない。
「夢があるの。わたしは歌手になりたい」
「それは帰らなければできない事なのかね? ここパリは芸術の街だ。日本に帰るよりよっぽど…」
「ねぇ、わたしが落ちてきた所に行ってみたい」
 彼女は唐突に私の言葉を遮る。
「見に行ってもあそこには扉も穴も何もない」
「…嘘」
「嘘なものか。それならば確かめに行こう」


 ひどく驚いた様子のアヤを小船に乗せる。事実あそこには上から人が落ちてくるような仕掛けは何もない。ただ地底湖の上に洞窟のような天井が広がるだけだ。
「ほら、何も無いだろう」
 私は小船の中からランタンで上を照らす。暗いので見えにくくはあるが、確かにそこは何の変哲もないただの岩だった。
「何で…」
 彼女は口ごもる。
「それは私が聞きたいくらいだよ。お前は一体どうやってここに来たのだ?」
 ついに訊いてしまった。本当によかったのだろうか…。しかしアヤはぽつりぽつりと話し出すではないか!そして語られた内容は驚くべきものだった。
「学校帰りに道を歩いていたの。そしてマンホールに落ちたの。気づいたら冷たい湖の中だった」
「しかしあそこには何の仕掛けも…」
「ファントム、驚かないでね」
 彼女はそう前置きをした。しかし次の一言は到底信じられる代物ではなかった。
「わたしは21世紀から来たの」
 そんな馬鹿な話がありえるわけがない。しかしそれを話すアヤの目は真剣そのものだ。この一ヶ月アヤの精神をおかしいと思ったことはない。ということはやっぱりこの話は真実なのか…?
「…やっぱり、信じられないよね…」
 アヤが俯く。この話が本当だとすれば、彼女の知らない130年も昔のパリでは、彼女の味方は私だけなのだ。
「いや、信じてみよう。お前の目は嘘を言っていない」
 ほんとに、と彼女が小さく訊く。
「本当だ。お前は何があっても私が守ってみせる」
「ありがとう!」
 アヤが唐突に私に抱きつく。何度やられても慣れる物ではない。
「ア、アヤっボートが沈んでしまう!」
 私は揺れる小船の中で慌てふためく。アヤはそれがおかしいのか私の胸でくすくすと笑っている。私は溜息をつくとそっとアヤを引き離し、また小船を操って館へと戻った。


 寒い屋外から館へ戻ると一心地ついた気分になる。着込んでいる私と違い薄着のアヤを少し心配したが、私のマントに包まっていたおかげでそれほど寒くはなかったようだ。私の部屋からベルの音が聞こえる。ジュールが案外早く戻ってきたようだ。私はアヤを残すと地上へと上がっていった。
「買って来ましたよ、旦那」
「ご苦労だった。購入漏れは無いな?」
「もちろんです。キモノは一式そろえましたしコートは店の店員に選んでもらいました。こっちが食料でこっちがチョコレートです」
 ジュールが大荷物を私に手渡す。私はジュールにいつもどおりのチップをやると、館へと戻った。
「ファントム、お友達?」
 私の帰りを待ちわびていたかのようにアヤが聞く。
「いや、違うよ。使いにお前のものを買いに行かせていた」
 私はまずコートを取り出してアヤに渡す。
「もう冷え込みが厳しくなってくる。無いと不便だから持っていなさい」
「…ありがとう」
 またわたしのものを買ってきて、と私に非難の一つでも言いたそうな顔でアヤが礼を言う。
「羽織ってみなさい」
 アヤは私に言われたとおりにコートを羽織る。白と黒の細かいチェックで遠目にはグレイに見える布地に、ダブルのたて襟で大き目のボタン。取り外しのできる毛皮の襟までついたミドルコートだった。なかなか似合っていると思う。
「あったかい」
 着心地を確かめるようにアヤがコートを触る。私はその間に着物を出した。
「フリソデ!」
 アヤが何事か小さく叫ぶ。訊いてみると着物の種類のようだ。袖が地面につきそうなほど長いものをそう呼ぶらしい。着るのは未婚の女子に限られるようなので、アヤにちょうどいいものでもあった。
「着て見せてくれないか?」
 私がそう頼むとアヤははにかみながら頷いて、着物一式を持って部屋に引っ込んだ。
 小一時間も経っただろうか。私が夕食の支度を始めていると、キッチンのドアが開いた。私はわくわくしながら後ろを振り向いた。そこにいたアヤは、期待以上のかわいらしさだった。
 小柄な体を包む赤い着物は、彼女の黒髪と白い肌によく映える。着物の赤い生地に彼女の黒くてまっすぐな絹糸のような長い髪が流れる。まるで人形のような、という表現がぴったりだった。フランス人形とはまた違う質感の美しさがある。
「…似合う?」
「ああ、かわいらしい」
 私が褒めるとアヤは、恥ずかしそうに笑う。そんな彼女は本当に人形のようで、私はこの館から一歩も出さずに彼女を引き止めたいと密かに思っていた。
「脱いでくる」
「いや、寝るまで着物でいてくれないか?」
 踵を返したアヤを私は引き止めた。アヤは少し不思議そうな顔をしたが、素直に頼みを聞いてくれた。


「おやすみなさい」
 夕食後の談笑が大いに弾んで、いつもより遅い時間に私たちは寝室へと向かった。この着物姿を見ることはしばらく無いのだと思うと惜しい気持ちがした。
「…おやすみのキスをしてもいいかね?」
 言うが早いが私はアヤの頬に口付けを一つ落とした。アヤはたちまち耳まで真っ赤にした。
「おやすみ」
 立ち尽くすアヤを置いて、私は何かをされないうちに部屋へと引っ込んだ。明日からは歌を教えてみようと思いながらベッドへと倒れこむ。すぐに心地のよい眠気が、私の意識を闇へと引き込んでいった。