アドベントである。クリスマスまであと4週間。11月も終わりかけている。この冷え込みからすれば地上はもう雪なのだろう。湖の地下帝国の王、ファントムは暖炉に薪を投げ入れながら思った。風は無いとはいえ日の射さない湖の横の館は、暖を取らねば凍えてしまいそうな寒さだった。
――朝は昨日のスープを温めよう…。
ファントムはそう思いながら一室のドアを叩く。
「アヤ、起きなさい」
返事は無い。いつものことだ、と思いながらファントムは扉を開けた。天蓋の布をそっと掻き分け、ベッドの中で丸まっている少女の頬に触れる。小さく呻いて少女は寝返りを打った。寒くなってからというもの、アヤの寝起きが悪い。
「もう食事にするぞ」
「もぅちょっと…」
寝ぼけた声でアヤが呟く。ファントムは溜息をついてベッドのふちに腰掛けた。一気に布団をめくるとアヤは縮こまって抗議の声を漏らした。寝間着の裾ははだけて太ももが覗く。見ないふりをしてアヤを仰向けにする。
「んー…まだぁ…」
緩やかだが抵抗を続けるアヤの手を引っ張って、自分にもたれかからせる様に上体を起こす。
「ほら、体が冷えてしまう。早く起きなさい」
それでもアヤは起きようとしない。ファントムはいつものように肩に抱えて、キッチンまで運んでいった。
アヤはダイニングチェアに座らされてもまだ眠そうだった。ファントムが紅茶を入れ始めるころになって、やっと立ち上がって洗面所に行く。アヤが顔を洗って戻ってくるころには、ファントムが朝食の用意を済ませている。それでもまだ眠そうな顔をしているアヤに、紅茶を出す。寒くなってからの二人の朝は、いつもこうだった。
「もうすぐ12月になるな」
食後のコーヒーを一口飲んでファントムは呟いた。
「もうそんなに経つの? あっという間だね」
出会ってから2ヶ月ほどになる。アヤのフランス語は随分上手くなっていた。
「昨日からもうアドベントだからね。4週間後にはクリスマスだ」
最近のアヤは帰りたいということも無くなった。ファントムは諦めだと思っている。
「ねぇ、今日もレッスンするの?」
「もちろん。毎日の積み重ねが大事なのだよ」
何週間か前からファントムはアヤに歌を教えていた。語学と同じように打てば響くアヤに、ファントムはとても満足していた。
「…外に行っちゃダメ?」
――なんだと!? やはり彼女の興味を地下に留めて置くことはできないのか…。
「…どうして外に行きたいのだ」
「散歩をしてみたいの。ダメ?」
――卑怯だ…。
上目遣いで訊いてくるアヤにファントムは心の中で愚痴った。こんな訊かれ方をして許可をしないわけにもいかない。
「…どうしてもか?」
「今日がダメならまた今度でもいいけど」
ファントムは溜息をついた。言い出したらアヤは聞かないだろう。
「わかった。それならばきちんとコルセットを締めて、洋服を着なさい。もちろんコートとマフラーと手袋は忘れてはいけないよ」
「ありがとう! すぐに支度する」
アヤは軽い足取りで部屋に向かっていった。
――結局コルセットを締めるのは私なのか…。
ファントムの予測に間違いは無く、しばらくするとファントムを呼ぶ声がアヤの部屋から聞こえてきた。ファントムは重い足取りでアヤの部屋へと向かった。
――ああ、やっぱり…。
いつもどおりパニエにコルセットのアヤ。むき出しの肩とデコルテにファントムはどきどきした。
「やっぱり手が届かないの…。結んでくれる?」
「あ、ああ…」
これだけは何度やっても慣れるものではない。ファントムはできるだけアヤを見ないようにコルセットの紐を締めた。
「できたぞ」
「ありがとう。あと…服はどれが似合うと思う?」
――私に選べと言うのか!?
眼下に見えるアヤの谷間を視界に入れつつ、ファントムは適当に服を指す。
「こ…これなんかいいのではないかね?」
ファントムが指したのはピンクを基調とした裾に白いレースのついた服だった。
「ありがとう。じゃあ着替えるから出てって」
笑顔のアヤに追い立てられてファントムは部屋を出た。どっと疲れが出たファントムは、チョコレートを食べにリビングへと向かった。チョコレートを2,3粒口へと放り込んでソファにどかりと座る。女性との同居は、こうゆう時はとても面倒だとファントムは思った。
アヤの部屋のほうから靴音が響いてくる。着替えが終わったようだ。
――適当に選んでみたがまたデコルテの出た服だったら…。
ファントムの脳裏に不安がよぎる。だが予想とは裏腹に、リビングに入ってきたアヤの服装はおとなしいものだった。気になっていた胸元は、レースの立て襟で首筋まできちんと覆われていた。
「外までの行き道と帰り道を教えて欲しいの。一人じゃここから身動きできないから」
それもそうだ。通常この館にたどり着くには、ファントムが張り巡らせた多くの罠を潜り抜けてこなければならない。ファントムはアヤにコートを着せ手袋を持たせると、アヤと共に館を出た。
薄暗い螺旋階段をファントムの持つ松明が照らしてゆく。そして地上への扉までたどりつくとアヤに金の鍵を渡した。
「これは?」
「秘密の玄関の扉の鍵だよ。オペラ座の東南にある天使の像の指輪に鍵穴がある。そこで鍵を回すと像の後ろにある壁に違う鍵穴が開く。今度はそこに鍵を挿して回すと扉が現れる。扉を開けると赤い紐があるからそれを引っ張りなさい。紐は私の館まで続いていて私の部屋のベルが鳴る。万が一のことがあるといけないから帰宅はちゃんと知らせなさい。もちろん鍵を使うときは人通りを確認することだ」
――この鍵を渡したのはお前とジュールだけだ…。
「わかった。無くさないようにバッグに入れておくね」
アヤはバッグに金の鍵を大事にしまうと、扉を開けて出て行った。さむい、というアヤの声がファントムの耳に聞こえるころには、秘密の扉は閉じていた。
ファントムは一人館へと戻るとオルガンの前に座った。
――独りになるのは随分久しぶりのような気がするな。これで今日は作曲が進むだろう。
一刻ほど鍵盤を叩いていただろうか。そろそろ昼ごはんを作らねば、とファントムは我に返った。
――…アヤはいないんだったな…。
この2ヶ月近く、三食きちんと取る生活が続いていたため、体がそれに慣れてしまったのだろう。アヤの存在が当たり前になっている自分がなんだかおかしかった。独りなら食べなくてもいいと思い直し、ファントムは作曲に戻った。
――今日は随分と進んだな…。
部屋に散らばる楽譜に、ファントムは満足感を得ていた。
――今は何時だ?
ファントムは懐中時計を出すと、蓋を開けて時計盤を見た。
「7時だと!?」
一瞬自分の時計がおかしくなっているのかとも思い、部屋の置時計を見る。置時計は懐中時計と同じ7時を指していた。
――何かあったのか…?
ファントムの胸に不安が渦巻く。いてもたってもいられず、ファントムはアヤに教えた扉へと向かった。はやる気持ちを抑えきれず、ランタンを持つ手に力が入る。この階段を上りきったら扉が見える。そのとき、扉が開く音がした。はぁっと誰かが息をつく音が聞こえる。
「寒い…」
「アヤ」
「!? み゛ぎゃぁぁぁぁ!」
石造りの階段にアヤの悲鳴がこだまする。
「ふぁ…ファントム!」
「…あまり大きな声を出すな。耳が壊れてしまう」
左耳を抑えながら、顔を苦痛にゆがめたファントムが言う。
「いると思わなかったしいきなり声をかけられたから驚いて…。大丈夫だった?」
「…当分は使い物にならなさそうだ。それよりも…」
「ぅあっ」
ファントムがアヤの手をつかんで引っ張る。
「こんな遅くまで何をしていた! 今が何時だか解っているのか!?」
ついつい語調が荒くなる自分を、ファントムは自分でも解っていながら抑えられなかった。
「ご、ごめんなさ…」
「謝ればいいというものではない! お前はフランス人ではなくただでさえ悪目立ちするのだ! そんな子供のようななりで一人歩いていれば、どんな犯罪に巻き込まれるか少しは解るだろう!」
「ファントム痛…」
「うるさい! 私がどれだけ心配したと思っているのだ! お前も17なら時計ぐらい読めるだろう!」
「わたし時計持ってない…」
はた、とファントムが我に返る。そういえば女性物の服や靴は贈った覚えがあるが、時計を贈った覚えは無い。
「一応太陽の動きで予測はしてたんだけど、日本より緯度が高いせいで日没が遅かったのね…。それに19世紀のパリなんて珍しいものばっかりで…。ついつい遅くなっちゃったの。ごめんなさい…」
俯くアヤを見て、ファントムはそれ以上何も言えなくなってしまった。時計を持たせなかった自分の落ち度に気づいたがあれだけ怒鳴った手前、何も言う事ができない。固まってしまったファントムを察したのだろうか。アヤが顔を上げた。
「ファントム、お腹すいた。おうちに戻ろう。ここは屋内でも息が白いから、すぐに凍えちゃう」
アヤの笑顔につられたようにファントムも苦笑を返す。
「ほら、早く。お腹すいちゃった」
アヤがファントムの手を握って階段へと駆け出した。
「お、おい、そんなに急いでは転んでしまう」
悲鳴を上げるファントムに、アヤが笑い出した。石造りの薄暗い廊下に、二人の笑い声が響いていった。
「着替えてくるね」
館に戻ると、アヤは真っ先に部屋へと向かった。
「心配してくれてありがとう…」
扉を閉めて呟いたアヤの声は、ファントムの耳には届かなかったようだった。