早朝、ファントムは寒さで目が覚めた。暖炉の薪はとうに燃え尽きてしまったようだ。
――ここはリビングか? 昨日は随分飲んでしまったようだ…。毛布はアヤがかけたのか? こんなところで寝込んだ記憶も無いとは…。
このファントムが寝ているリビングのソファは背もたれの掛け金をはずすと、ベッドとしても使えるようにファントムが作ったものだった。割れるような頭痛とむかつきから逃れるように、ファントムは狭いソファで寝返りをうった。
「ぅぐ」
何かを押しつぶした。この館に存在する生き物は自分ともう一人しかいない。
「アヤ!?」
「ぅ…ん」
ファントムはとっさに叫んでしまった己の口を、慌ててつぐんだ。そしてがんがんと痛む頭から昨日の記憶を辿った。
――昨日は確か冷えた体を温めようとウィスキーを飲んだのだ…。アヤに勧めた果実酒が好評で、夜遅くまで二人して飲んでいたような…。
ファントムは自分がいい気分になってリビングのソファをソファベッドにして寝転んだところまで思い出した。
――そこから…アヤが毛布を持ってきて…潜り込んできたようなそうでないような…。夢だと思っていたが…。
しかし横にいるのは紛れも無くアヤである。それが夢ではない何よりの証拠だった。はたと気づいて慌てて顔に手をやったが、仮面はいつもどおりファントムの顔の一部だった。
――とりあえず何とかしなければ…。
このままアヤが起きたらどんなことになるか想像もつかない。毛布一枚では寒いのだろう。自分にぴったりとくっついて眠るアヤをそっと引き離し、毛布ごと抱え上げた。二日酔いの体がアヤの体重を支えきれずによろめく。それでも何とかアヤを起こさずに部屋まで連れて行くことに成功し、アヤをベッドに寝かすと布団をかけ、ファントムは自室に戻った。
昼を過ぎたころ、ファントムは自室の戸がノックされる音で目が覚めた。
「ファントム、起きてる?」
アヤの声だ。だが何かが違う。ファントムは跳ね起きた。頭痛は少し楽になっている。
「その声はどうしたのだ!」
乱暴にドアを開けたファントムは、少し困った顔で自分を見つめるアヤを見た。
「喉が痛いの…起きたらこんなに枯れちゃってて…」
――なんてことだ! あんな寒いところで寝たからだ!
ファントムは己を責めたが後の祭りである。
「今日は暖かくして寝ていなさい。すぐに滋養のつくものを作って持っていくから」
「でも、喉が痛いだけだから…」
「馬鹿者! 風邪はひき始めが大事なのだ! いいから部屋に戻れ!」
しょんぼりと部屋に戻っていくアヤに、ファントムは溜息をついた。
食べ物の匂いが少々鼻につくが、キッチンでリゾットとホットミルクを作る。ホットミルクに蜂蜜をたっぷり入れると、それらを盆に載せアヤの部屋へと運んだ。
「アヤ、入るぞ」
ファントムはお盆を片手にドアをノックした。部屋に入ると、アヤはファントムの言いつけどおりにベッドに入っていた。
「リゾットを持ってきた。もう昼を過ぎているしお腹もすいただろう。食べなさい」
アヤはおとなしくリゾットを食べ始めた。そんなアヤにファントムは謝った。
「さっきは怒鳴ってすまなかった。だが風邪は万病の元だから本当に気をつけなくてはいけないよ」
「ファントム…わたし大丈夫だよ?」
「そんな枯れた声では説得力も無い。いいから今日はおとなしくしていなさい」
不満そうな声を漏らすアヤの頭を撫でると、ファントムはアヤの部屋を出た。
――今日はゆっくり作曲でもしようか…。
ファントムはオルガンへと向かった。
どのくらいの時間が経っただろうか。ファントムはドアのノックで作曲の手を止めた。もう夕刻である。
「どうした?」
ファントムはドアを開けた。
「甘いもの、無い? チョコ以外のものが欲しいんだけど」
アヤの声は昼よりもずっとマシになっていた。
「生憎だが甘味を好むのはお前だけなのでチョコレート以外は置いていない。だが蜂蜜はあるからホットレモネードを作ってあげよう」
ファントムはアヤを連れてキッチンへと赴き、手際よくレモネードを作った。絞りたてのレモンの香りが部屋に広がる。
「まだ熱いから気をつけなさい」
アヤはファントムからホットレモネードを受け取ると、ふぅふぅと吹いてから一口口に含んだ。
「…おいしい」
「今日は早めに夕食を取ってゆっくりと寝なさい。その分なら明日には回復するはずだ。まだ何か欲しいものはあるかね?」
「…なんでもいい?」
アヤがこんな風に何かをねだるのは珍しい。ファントムはもちろんだとも、と請け負った。
「ほんとに?」
「本当だとも。何が欲しいのだ」
「…星を見たい」
――何だって?
「星?」
「そう、星を見に行きたいの。だめ?」
「しかしお前は風邪を…」
「ちゃんとコートも着るし手袋もつけるから」
「だが…」
「何でもお願い聞いてくれるんでしょ?」
ファントムは言葉に詰まった。確かに自分は約束をしている。にこにこと笑うアヤが、ちょっとだけ悪魔に見えた。
「…12月の夜空は凍てつくぞ」
「今日はもう寝てるのに飽きたのよ」
ファントムは溜息をつくとわかった、とだけ言い夕食を作り始めた。
食後、約束どおり精一杯の厚着をしたアヤを、ファントムは屋上に連れて行った。どうやら昨日は雪が降ったらしく人が来ることのあまり無い屋上は、床も様々な彫刻も雪に覆われていた。さくさくと雪を踏む二人の足音が響く。
アヤは屋上の柵ぎりぎりまで行くと、息をついた。吐き出された息は真っ白だった。
「…きれい」
「オペラ座より高い建物はそうは無い。よく星が見えるだろう?」
「本当。こんなに星を見たことなんてそんなに無い」
「…お前の国はそんなに星が見えないのか?」
「空がとっても汚れてる。車が出す排気ガスが空を覆ってるの」
「お前の世界では蒸気車がそんなに発達しているのか」
「蒸気じゃない。蒸気よりも新しいエネルギーで動く車。まだこの時代にはないのね」
――本当に…この時代の人間ではないのだな…。
「こんなに綺麗なものが見れなくなるなら、科学なんて発達しなくてもよかったのに」
アヤは少し寂しそうに笑った。
「もう戻らなければ。夜風は喉に悪い」
「…まだ居たい…だめ?」
上目遣いで見つめるアヤに、ファントムは弱い。ファントムは溜息をついた。
「…致し方ない」
そう言うとファントムは、アヤを自分のマントに包んだ。
「ファントム?」
「こうしていれば少しは寒くないだろう」
――私を困らせる小悪魔相手に、これぐらいは許されてもいいはずだ…。
ファントムは己の腕の中にいる少女の小ささを実感しながら、北極星へと流れていく星を見つめていた。