あと一週間でクリスマスである。このような地下に息を潜めて暮らしている自分には関係ない、と思いつつもファントムはオペラ座の浮き足だったコーラスガールたちの会話を思い出していた。やれどこかに行くだのやれ誰と会うのだの。彼女たちの楽屋は、いつも色恋話でいっぱいだった。
――今年は一人ではないのだな…。
アヤに何かしてやりたい気もしたが、彼女に気のきいたプレゼントの一つも思い浮かぶわけではない。何を贈ったらいいのか判らなかった。
――そもそもアヤの国にもクリスマスはあるのだろうか…。
それが解らないことにはどうしようもなかった。
いつものようにアヤを起こし、朝食を食べるとアヤが聞いた。
「今日は何日なの?」
「今日は12月の18日だ。あと一週間でクリスマスだな」
「こっちのクリスマスは家族で祝うものだって聞いてるけど…」
「そうだな。今頃街はクリスマス一色になっているだろう。お前の国にもクリスマスを祝う習慣はあるのかね?」
「わたしの居た日本では、ある程度の年になるとクリスマスは家族じゃなく恋人同士で祝うの。日本人はお祭りが好きだから」
恋人同士、という言葉にファントムはどきりとした。
「あ、そうだ。クリスマスまでにオーブンの使い方を教えて欲しいの」
「何故?」
「ケーキを焼きたいの。これでもお菓子作りは得意なんだよ?」
――家で手作りのケーキを食べるなんて何年ぶりだろうか…。
思い出せるのは随分と古い記憶しかなかった。少しはにかんでいるアヤが無性にかわいくなった。
「アヤ、街を見に行くかね?」
「ほんと!?」
思いもかけない申し出に、アヤはとても驚いた様子で尋ねた。
「本当だとも。ただし出かけるのは夜だけで馬車の窓から町を見るだけだが、それでもいいのなら」
「嬉しい! ファントムがそんなこと言うなんて信じられない!」
アヤはダイニングチェアから立ち上がると、ぐるりと机を回って向かいに居たファントムに抱きついた。
「いつ行くの?」
「…今日の夜だ。夕方までに支度をしておきなさい」
ファントムは勤めて冷静を装って答えた。今日はジュールが来る日なので、彼に付き合ってもらおうと決めた。
部屋に戻ったファントムに、来客を告げるベルが鳴る。ちょうどジュールが来たようだ。玄関まで出たファントムはいつも通り買出しリストを渡すと、ジュールに頼んだ。
「今日の夜は空いているかね?」
「ええ、特に用事はありませんが」
「買出しが終わるのは夕方当たりになるだろうから、その後馬車を借りてきて欲しいのだ。もちろん御者は頼む」
「それはまた珍し…いえ、急ですね」
「居候に夜の街を見せたいのだ。クリスマス一色になっている街をな」
「解りました。では6時にここまで馬車を回しておきます」
「それともう一つ。22日にパラフィン紙と生クリーム、後はフルーツを持ってきて欲しい」
「ケーキの材料ですね。解りました」
ばれたと思ってももう遅い。ジュールはいつものように買出しに行ってしまった。館に帰るとアヤの姿が見あたらない。うろうろと探し回っていると、部屋のほうから音がした。
「アヤ、入るぞ」
「あっ、ダメ…」
アヤの声が耳に入ったときには、部屋のドアを大きく開けた後だった。
そしてファントムは固まった。目の前には出かけるときの服を選んでいたのだろう、コルセットもつけず下着姿で服を持って同じく固まっているアヤが居た。
「いっ……に゙ゃあああああああ!」
「すっ、すまん!」
アヤの悲鳴で我に返ったファントムは、慌ててドアを閉めた。心臓が早鐘を打ち、脳裏には今の映像がこびりついて離れない。
――見てしまった見てしまった見てしまった!
頭をぐるぐると「嫌われた」という言葉が回る。ファントムはどうしようもなくなって、肩を落として自室に戻った。
昼飯時になってもアヤは部屋から出てこなかった。部屋の扉の前で昼食ができたことを告げてからやや経って、やっとアヤの部屋のドアが開く音がした。
食べ始めてもどちらも喋ろうともしないし視線を合わせることも無い。食べ終わってもまだ二人とも無言だった。この空気に耐えられなくなったファントムは素直に謝ろうと思ったが、沈黙を破ったのはアヤのほうだった。
「…ファントム」
アヤがぽつりと呟く。
「…なんだ?」
ファントムは自分の声が少し上ずっているのを感じた。
「…さっきの、見てないよね?」
「もちろんだとも! 私は何も見ていない!」
口から咄嗟にでまかせが飛び出した。
――あれを忘れられるわけは無いが、今ここで真実を言う勇気は私には無い…。
「…ならいいんだけど」
アヤは少しむくれて言った。
「今度からはノックしてよね」
「ああ、驚かせてすまなかった。今度からはきちんと気をつけるとしよう」
何とか乗り切った、とファントムは内心ほっとした。
その後のアヤは、夜のことを考えていつもより浮かれているようだった。外に出るなんて勇気を出して言ってみてよかったとファントムは思った。
5時ごろ、ファントムはいつものようにコルセットを締めるのを手伝い、部屋の外へ出た。アヤはまだ何を着るか迷っているようだった。
6時も近くなりかけたころ、やっとアヤが部屋から出てきた。結局、黒のベルベットと白レースでできたドレスにしたようだ。
「コートと手袋をしなさい。6時に玄関まで馬車が来ることになっている。もう行かなければ」
ファントムは右手にランタンを持ち、左手でアヤの手を取ると玄関まで向かった。
「…寒い」
アヤが呟く。吐き出す息は真っ白だった。隠し扉の横の棚にランタンを置き、炎を吹き消す。暗闇に驚いたのか、アヤが少し握る手を強めたのをファントムは感じた。扉を開けると外は雪だった。しんしんと降り積もる雪の上には馬車の車輪の後が、まだ雪に埋もれずに残っている。
「こんばんは旦那様。準備はできています。いつでも出発できますよ」
ファントムは先にアヤを馬車に入らせると、ジュールに言った。
「こんなに寒いのに済まないな。今日の分は少し上乗せして置くよ」
「礼には及びませんよ旦那様。珍しいこともあるものです。あのお嬢様のおかげですね」
「彼女のおかげか…そうかもしれんな」
ファントムは少し笑うと馬車へ乗り込み、アヤの向かいへと座った。
「この前の馬車とは違うね」
「もちろん。この前のはただの辻馬車だ。この馬車と一緒にしてはいけないよ」
馬車が動き出した。窓はすぐに曇ってしまうが、アヤはそれでも外を楽しそうに見ていた。家の灯りが曇った窓にぼんやりと映る。
「みんなクリスマスを待ち望んでるんだね」
「もちろん。キリストの生まれた日だからな」
「ファントムはクリスチャンなの?」
「私は…キリスト教の教えには深い興味を持っているよ」
「なにそれ」
アヤが笑い、つられてファントムも笑う。外は雪で相当寒いはずなのに、ファントムは心地よい暖かさを感じていた。
商店街に入り、馬車の左右をショーウィンドーが流れてゆく。服や靴、ツリーをかたどったクッキー、カラフルな包装紙に包まれた箱に埋もれるおもちゃ…。何もかもがアヤにとっては面白いのだろう。目を輝かせて外を見るアヤの横顔を、ファントムは見つめていた。
馬車が止まる。交差点の交通整理に引っかかったようだ。
「こんな寒いのに警察もご苦労なことだ」
呟いたファントムは、ふとアヤの視線の先を見た。そこはジュエリーショップのショーウィンドーで、一組の恋人達がアクセサリーを眺めながら何か話していた。
――アクセサリーか…確かにいいかもしれんな。
今まで服飾品は贈ったことがあっても装飾品を送ったことは無かった。
――アヤも女性ならアクセサリーを贈られて喜びこそすれ、怒ることはなかろう。しかし…何を贈ったものか…。
確かにファントムは、アヤの指輪のサイズもわからなけれな誕生石も知らない。腕の細さはかろうじて解るが、まさか宝飾店でそれを言うわけにもいかない。そのときファントムはふと閃いた。
――それなら作ればいいではないか! 材料も申し分のないものがそろっているし、ペルシャでくすねた宝石にいいものがあったはずだ。これでアヤが喜んでくれるといいのだが…。
ファントムは密かにほくそえんだ。馬車は大通りを抜け、街を走ってゆく。街角に植えられたクリスマスツリーは飾りが街の灯りを反射して、自ら輝いているようだった。
「きれい…」
アヤが溜息混じりに呟いた。曇った窓を通して幻想的な光を放つツリーは、夜の街で一際目立っていた。
「ブローニュの森までやってくれ」
ファントムはジュールにそう告げた。はい、とだけ返事が返ってくる。森は降り続く雪で白く化粧をしているようだった。
「止めてくれ」
ファントムは馬車から降りると、アヤの手をとった。馬車から降りた二人は歩き始めた。
「ごらん。夜の森は静かだろう。こんな夜はウサギも狼もみんな眠っていることだろう」
「狼が出るの?」
アヤが不安そうに聞き返した。
「さあ、聞いたこともないがね」
くすくすと笑いながら言うファントムに、アヤは雪玉を作って投げつけた。
「もう、すぐにからかう!」
「降参、降参するからやめてくれ」
雪にまみれて黒いマントを白くしながら、ファントムはまだ笑っている。
「雪って明るいのね」
一息ついてアヤが言った。確かに灯りを持たない二人でも、お互いの姿を確認することはできる。
「それは雪が光を反射し――…」
ファントムがバランスを崩す。木の根元の雪は、どうやら氷だったらしい。
「うおっ!」
「んぁっ!?」
ファントムは前方に居たアヤを巻き込み、派手に転んだ。幸い二人が倒れこんだところは雪の上だったが、頭上の木から雪がなだれ落ちてきた。
「おーもーいー」
ファントムの下でアヤがあえぐ。
「ああっ、すまない…」
「お願いだから潰さないで…」
慌ててファントムはアヤの上からどこうとしたが、こう覆いかぶさってみるとアヤが本当に小さいのだと実感する。自分の体にすっぽりと覆われてしまうアヤをしげしげと眺めていると、体の下のアヤが文句を言う。
「ファントムはおっきいから重いんだよ…。だから…早く……」
消え入るような語尾に、ファントムは慌ててアヤの上から退くとアヤを助け起こした。
「大丈夫だったか?」
「…重かった…」
アヤの目が上目遣いで文句を言うように睨む。ファントムにとっては全く怖くはなく、むしろ可愛らしくさえある。
「もう、おかげで濡れちゃった! 冷えてくると風邪をひくから早く馬車に戻ろ?」
「ああ、そうだな」
二人が馬車に戻ると、ジュールが待ちかねたように馬車を出発させた。
「冷えてしまったかね?」
「わたしは大丈夫。ファントムこそ手、冷えてない?」
アヤは手袋越しのファントムの右手を、両手でそっと包んだ。ファントムの心臓が高鳴る。
「ほら、やっぱり雪が滲みて濡れてる。しもやけになっちゃうよ?暖めてあげるから手袋はずしてよ」
なんだかアヤの声が遠くで聞こえた気がした。たどたどしく手袋をはずすファントムを、アヤが見つめる。ファントムの素手をアヤの両手が包み込む。アヤの手は暖かくて、雪にまみれて冷えてしまった全身が温まるようだった。
「やっぱり手、おっきいね。わたしじゃ包みきれないや」
アヤはファントムの手に息を吹きかける。
「こうすれば少しは暖かいよ」
「今でも十分だが…。お前の手は暖かいな」
「体質なの。真冬でも手だけは暖かいんだよ」
アヤは誇らしそうに笑った。
そうこうしているうちにオペラ座へついた。
「ジュール、今日はありがとう」
そう言ってファントムが渡したチップにジュールが驚いた。
「いつもより多く入ってるじゃありませんか!」
「夜の分の上乗せだ。22日にまた来てもらうことだし、これは正当な対価だよ」
それならば、と袋を胸元に入れるジュール。その間にファントムは隠し扉を開け置いてあったランタンに灯りをつけた。買いだして来た物をファントムに渡すと、ジュールは一礼して去っていった。
「予定より随分遅くなってしまった。今日はもう寝たほうがいい」
館に着いた二人はコートを脱いだ。暖炉の暖かさが冷え切った体を温める。
「そうだね、そうさせてもらう」
アヤは踵を返して部屋に戻っていったが、すぐに戻ってきた。
「忘れ物しちゃった」
「ん? 何を忘れたのだ」
アヤはファントムの頬にそっとキスを落とすとはにかみながら言った。
「今日はありがとう。わたし、最高に嬉しかった」
おやすみなさい、というアヤをファントムはぼんやりと見送った。
――彼女からお休みのキスを落としてくれる日が来ようとは! ああ、最高に嬉しいのは私のほうだ! 今年はすばらしいクリスマスの贈り物をもらったよ…!
体は冷え切っていたが、胸の中がどんどん熱くなってゆくのをファントムは感じていた。