朝餉のいい匂いが部屋に広がる。今朝はリゾットのようだ。作っているのはドレスシャツにパンツという姿をした大男。何かが奇妙なのはその顔の半分を覆っている白い仮面のせいだろう。
 ダイニングのドアが開く。入ってきたのは少女だった。小柄な体に男物のシャツがずいぶん大きく見える。
「おはよう、アヤ」
「おは、よう?」
 アヤは男に近づいて手元を覗く。
「ファントム、クロワッサン?」
「今朝はリゾットだよ。まだお前の体のことを考えると消化のいいものを採ったほうがいい」
「りぞっと」
「そう、リゾットだ。座って待ってなさい」
 ファントムがダイニングの椅子を指差すと、アヤはおとなしく座った。しばらくしてファントムが聞いた。
「アヤ、今朝は牛乳か? カフェオレか?」
「ぎゅうにゅ、お願いします」
――ほう、教えたことはきちんと学習するようだ。少し言葉を教えてみるのも悪くはなかろう。
 病み上がりの彼女にあえてコーヒーとは聞かずにファントムは思った。
「さて、リゾットができたよ。牛乳には蜂蜜を入れよう。蜂蜜は喉にいいからね」
 ファントムは皿によそったリゾットをアヤの前に置いた。アヤはまた手を合わせ、まだ熱いリゾットをふぅふぅと吹きながら食べ始めた。そんなアヤを見てファントムは思った。
――やはりアヤに服を買ってやったほうがよさそうだ。いつまでも私のシャツを着せているわけにもいかぬ。今日はアヤをつれて街に出かけることにしよう。
「アヤ、食べたらシャワーを浴びてくるがいい。汗をかいただろう」
 どうせ浴室まで連れて行くことになるのだが、と思いつつファントムはコーヒーをすすった。
 シャワーを浴びたアヤにオペラ座から失敬してきた衣装を着せ、外出する準備をさせる。問題はファントムの顔だった。どうしても仮面では目だってしまう。だから今回はアヤをつれていることを利用して包帯を巻くことにした。


 アヤの手を取りボートに乗せる。湖を滑るボートが珍しいのか、あちこちを見回すアヤをファントムは微笑みながら見つめていた。地上に出ると昼近くになっていた。アヤは太陽をまぶしそうに目を細めて見ている。ファントムは辻馬車を拾うとアヤと乗り込んだ。
「女性物の洋品店まで」
 はいよ、と答えて人のよさそうな御者は馬に鞭をくれた。走り去っていく町並みを、アヤは面白そうに眺めている。十分少々走っただろうか。馬車は洋品店の前で止まった。
「ありがとう」
 ファントムはアヤの手を取って馬車から降ろすと御者にチップを渡した。洋品店のドアを開けると人のよさそうなムッシュの挨拶に迎え入れられる。アヤはファントムの後ろに隠れるようにして店に入った。
「こんにちは、ムッシュ。今日はどういったものをお探しで?」
「最近囲った娘なのだがヒステリーで服を駄目にしてしまってね。また新しい服をこうしてねだられているのだ。この顔もひどいことにされてしまったよ」
 ファントムはそういって、おどけたように肩をすくませた。話を信じたらしいムッシュは店員のマドモワゼルを呼んだ。
「気をつけてくれ。異国で拾ってきたのでまだ言葉がわからないのだ」
 女性店員はアヤを連れてフィッティングルームに入っていった。体のサイズを測るのだろう。
「適当に何着か見繕ってくれ。後は下着と寝間着も。昨日の一件で何セットか駄目になってしまったのでね」
 さりげなく顔を撫でながら話すファントムに店の親父は苦笑いで返した。フィッティングルームからアヤと店員が出てきた。店主とファントムが何事か話している間に、店員が服を選んでいく。その間、アヤはおとなしく座っていた。
「こんなにお買い上げになるので?」
 かなりの量の衣類を選んだファントムに店の親父が尋ねる。
「ダメにした服のほかに新しいものもねだられたのだ。全く手のかかる女を拾ってしまったよ」
 大量の服と下着を包む店員を見ながらファントムは答えた。
「洋服5着に下着7セット、寝間着が3着にストッキングが4足でございます」
「ああ、ありがとう」
 ファントムは支払いを済ませると、愛想よく見送る店主に例を言い、店を後にした。
「さて、次は靴を見よう。いつまでもオペラ座のコーラスガールから拝借するわけにもいかないから」
 靴屋は洋品店の6軒隣だった。アヤは通り過ぎる店先のショーウィンドウを面白そうに覘いていた。
「この娘に見合う靴を4足ほど見繕ってくれ」
 アヤは店員が足のサイズを測ってもおとなしくしている。そのうち歩きやすそうな靴が二足とよそ行きの靴が二足持ってこられた。
「こちらでよろしいでしょうか」
「アヤ、履いて歩いてみてごらん」
 ファントムはアヤに靴を履かせると、立ち上がらせた。アヤは店内を歩き回って靴の感触を確かめている。どうやら4足とも歩きやすいようだ。
「それではこちらをいただこう」  ファントムがふとアヤを見ると「本当にいいの?」というような目で見ている。ファントムは微笑んでアヤの頭を撫でた。


「さて、ずいぶんな荷物になってしまったな。昼を食べたら戻るとしよう」
 ファントムは両手いっぱいに荷物を抱え、アヤを見た。街角の洒落たカフェが目に入ったのでそこにはいることにした。昼時のカフェはある程度混んでいたが、黒尽くめで顔に包帯を巻いた大男と異国の少女の組み合わせはどうしても目立ってしまう。店の奥の店を希望し、そこを陣取って適当にサンドウィッチを二人前頼んだ。この場所でも人の視線は気になったが、店の内部や行きかう人を興味深そうに眺めているアヤを見ていると、そんなことはどうでもいいように思えてきた。
 運ばれてきたサンドウィッチを二人で食べる。味はなかなか悪くはない。ファントムはこれが人並みの幸せなのかとぼんやりと考えた。今まで女性と買い物に行ったことなどあるわけもない。これからこのように出かけることはもう無いかもしれない。しかしこの日のことは生涯忘れることはないだろう。


 ふと気づくとアヤが見つめていた。自分とは違う真っ黒な瞳。ファントムが微笑むとアヤも微笑み返す。幸せだ、とファントムは思った。
「アヤ、ありがとう」
 ファントムはアヤの目を見て呟いた。
「ありがとう?」
 何故例を言われるのかわからないと言ったようにアヤが小首をかしげる。そのしぐさがなんともかわいらしく思え、ファントムはつい笑みをこぼした。
 昼食後、ファントムはアヤにチョコレートを買って地下に戻った。なんだかどっと疲れが出たが、気分はとてもよかった。


「アヤ、着てごらん」
 ファントムは包みを開けると中身を出した。その量に驚いたのか、アヤはやっぱり「本当にいいの?」という顔をしている。
「さて、まずはこのコルセットからだな」
「こるせっと?」
 アヤは目の前に置かれたコルセットを見て不思議そうな顔をする。
――まさかコルセットをつけたことがないのだろうか?確かに昨日の感触ではずいぶん腰が太かったような…。
 ずいぶんと失礼なことを考えているが、コルセットをつけないと服を着ることはできない。
――だが子供とはいえ女性のコルセットを私がつけるなど…!
「仕方が無い」
 ファントムはため息を一つつくとアヤを呼び、とりあえずパニエとコルセットを渡してつけるように指示した。素直に部屋に入っていったアヤは、しばらくしてファントムを呼んだ。
――ああ、やはり自分でやらせるのは無理だったか…。
 覚悟を決めてファントムはドアを開けた。
「ファントム…」
 困り顔のアヤにため息をつき、コルセットの紐を締めるためファントムは近づいた。
 そして止まった。
 アヤに胸があったのだ。どうみても大きさはローティーンのそれではない。
――どうゆうことだ…? どう見ても13ぐらいにしか見えないではないか! だがそうするとあの乳房は…。まさか小人というわけではあるまい。小人にしては大きすぎる。一体どうゆうことなのだ…。
「ファントム?」
 急に動きが止まったファントムを心配したのだろう。アヤが自分を呼ぶ声でファントムは素に戻った。
「あ…ああ、なんでもないよ。今締めるから苦しかったら言いなさい」
 己の動揺を悟られないようにファントムは勤めて冷静を装った。アヤのそれが視界に入らないようにファントムは目をそらしてコルセットの紐を締めた。
「――! ―…」
 アヤが苦しそうな声を出す。締めすぎてしまったようだ。
「あ、ああ、すまない…」
 ファントムはあわてて紐を少し緩めると、蝶々結びにして手を離す。
「さあ、これでもう着られるはずだから…」
 ファントムは適当に一着を選ぶとアヤに手渡した。
「私は出ているから…」
 ファントムは動揺を悟られないように退室した。心臓の鼓動は今までに聞いたことがないような速さで鉦を打っていた。
――…後で年齢を聞いてみよう…。私の言葉が理解できたのなら、の話だが…。それにしても妙齢だとすれば何故あんなに男に肌を見られて平然としているのだ…。まったく理解が及ばぬ。
 ファントムが手渡した服はウエストの両サイドがリボンで調節できるものだったのでアヤにも何とか着ることができた。アヤが着付けに苦戦している間にファントムは下着とストッキングと寝間着の箱をアヤの部屋に運んでおいた。
「ファントム…」
 部屋の戸が開く。アヤは恥ずかしそうに扉の影からファントムを見ていた。
 ファントムは自分を呪いたくなった。アヤが着ていた服はデコルテの大きく開いたものだったのだ。無理やり落ち着かせた胸がまた早鐘を打ち始める。デコルテが開き、パニエなどで大きくふんわりと膨らんだ桃色の服をアヤが恥ずかしそうに見せる。恥ずかしいのはこっちだ、とファントムは言いたくなったがやめておいた。
「ああ、とても似合っているよ」
 ファントムは無理やり笑みを浮かべてアヤを褒めた。どうやらアヤは気に入ったらしく、新しい靴を履いてファントムの周りを踊るように飛び跳ねる。そのたびに揺れる乳房に何とか目をそらそうとファントムは躍起になっていた。ファントムの前でアヤが止まる。アヤはファントムに微笑むといきなり抱きついた。
「なっ…! 何をする!」
 ファントムはアヤを引き剥がそうとしたが、寸でのところで理性がそれをとめた。今誰かがファントムの顔を見たら、蝋燭の炎と同じぐらい赤いと思ったに違いない。
「ありがとう、ファントム」
 ファントムの心臓がひときわ大きく鼓動を打った。誰かに礼など言われるのは何年ぶりのことだろうか。
「あ…ああ、気にしなくていい…」
 自分でも何を言っているのかわからなかった。とりあえずこの場をどう切り抜けるかでファントムの頭はいっぱいだった。
「さ…さて、こんなに歩き回ったのだ。あまりはしゃがずに部屋で休むがいい」
 アヤを半ば無理やり部屋に押し込む。ドアから数歩離れてもどうしても意識は部屋の中へと向いてしまう。
――何を動揺しているのだ私は!アヤが妙齢だったからといってこれではまるで20かそこらの餓鬼のようではないか…。
「きっと私は、彼女という侵入者に疲れているのだ…」
 そうに違いない。ファントムは一人そう愚痴って、夕食の準備をしにキッチンに向かった。


 にんじんの皮をむいているとアヤがやってきた。料理をし、冷たい水を触っていたせいで幾分頭の回転は戻ってきていた。
「ファントム、キモノ?」
 そういったアヤの声でファントムはついアヤを見た。そして絶句のあまりファントムは指の上を包丁が滑っていったことにしばらく気づかなかった。指先の熱いような痛みとともに思考が戻ってくる。アヤが着ていたのは店員が選んだ寝間着だった。そういえば最近はジャポニスムが流行だったとファントムは頭のどこかで考えた。
「ファントム、キモノ?」
 アヤがもう一度同じ質問を繰り返す。
「あ、ああそうだ。アヤはキモノを知っているのかね?」
「キモノ、オビ」
 アヤは寝間着とそれを止めている紐を指差した。
「これはジャポニスムといって最近の流行なのだよ」
 ジャポニスムという単語を出したとたんアヤの顔色が変わった。
「日本! アヤ、日本!」
 アヤは己を指してその単語を繰り返す。ファントムはピンと来た。
「…ひょっとしてお前は日本からやってきたのか…?」
 それならば納得がいく。見たことの無い顔立ち。アジア人は幼く見えると聞くがそのとおりの外見。そして着物を知っていること。そう考えてみると、アヤの着物の着こなし方は楽屋などで見たコーラスガールたちとは少し違う。ファントムはこれは着物の着方を知っていると直感した。
「アヤは日本から来たのか…?」
 己の確信を深めるためにファントムは聞いた。
「日本…」
 アヤはまだ己を指差してその単語を呟いている。突如アヤの大きな目が潤み、そして泣き出した。日本、日本と嗚咽の間に呟いているのがわかる。
 ファントムは意を決して、アヤを抱きしめた。アヤは抱きしめられた瞬間少し体をこわばらせ、そしてまたいっそう大きな声で泣き始めた。アヤの黒曜石のような瞳からは耐えることなく涙があふれ出る。それが長いまつげや頬、自分の胸を濡らしていくのをファントムはぼんやりと見つめていた。かつてこのような場面に遭遇したことはなかった。自分がどうすればアヤを泣き止ませられるのかもわからず、ファントムはただ心の底で自分の鼓動を聞かれなければいいが、とだけ思った。
 しばらくしてようやくアヤの嗚咽がやみ始めた。ファントムは相変わらずかける言葉が見つからないまま、アヤを抱きしめて立ち尽くしていた。
 アヤが大きくため息をつき顔を上げる。目は赤くまつげは濡れていたがもう泣いてはいなかった。アヤはファントムに微笑むとありがとう、とだけ言って体を離した。


 ファントムはその日、それ以降の記憶があまりない。自分がにんじんを切ったのかどうかさえ覚えていなかった。アヤがお休みと言ったのは確か9時過ぎだっただろうか。ファントムは11時を過ぎた懐中時計を見ると、おぼつかない足取りでキッチンから自室へと歩いていった。