その朝ファントムは、Das Feilchenで目を覚ました。
――これはアヤか…?
 高く低く地下に響き渡る歌声に、ファントムは胸が高鳴るのを感じた。澄んだ高音。発音はあまりよろしくはないが、それを補って余りある。ファントムは早足でアヤの元へと近づいた。
「アヤ!」
 アヤはびくりとして歌うのをやめた。
「何も怒っているわけではない。だからもう一度歌ってくれないか?」
 何を言っているのかわからないのだろう。おどおどするアヤにファントムは少し笑うとピアノの前に座ってメロディーを弾き、歌い始めた。

   一本のすみれが野原に人知れず咲いていた。
   本当にかわいらしいすみれだった。
   そこへ羊飼いの娘がやってきた。

 アヤは信じられないといった様子でファントムを見つめていた。
「アヤ」
 ファントムはアヤの名前を呼ぶと、彼女を見つめながらまた伴奏を始めた。
 今度はアヤが歌う番だった。ファントムが先ほど感じたように彼女の声には何かがあった。まだ決してうまくはないが何か人を惹きつけるものがある。まるで空から落ちてきた小石が宝石の原石だったような、そんな気持ちをファントムは抱いた。
「ブラーヴァ! マドモワゼル」
 曲が終わるとファントムは、アヤに向かって笑顔で手をたたいた。アヤの少しはにかんだ笑顔にファントムは少し嬉しくなった。
「ありがとう、ムッシュ」
――やはり何も知らないわけではなくほんの少しだが単語を解するようだ。こやつをディーヴァに育て上げるのはなんとも面白いゲームではないか…。
「そろそろ朝食にしよう。アヤ、おいで」
 ファントムは――まるで新しいおもちゃを手にした子供のように――内心ほくそえみながらアヤを食卓に手招いた。今日の朝食はパンと目玉焼きだ。
「…ファントム、クロワッサン?」
「そうだ。クロワッサンが好きなのか」
 苺のジャムを口の端につけ、アヤは美味しそうにクロワッサンをほおばっている。
「アヤ、コーヒーと牛乳とどちらが欲しいか?」
 うっかりいつもの癖で自分にだけコーヒーを入れそうになったファントムは、現物を指し示しながらアヤに尋ねた。
「ぎーにゅ? かぅひ?」
「牛乳とコーヒーだ」
「ぎゅうにゅ、コーヒー」
「そう、うまい発音だ」
 ファントムはまるで赤ん坊に言葉を教えているような自分に噴出しそうになりながらも、アヤの答えを待った。アヤは少し考えるそぶりを見せている。
「カフェオレ、お願いします…」
 今のはきちんとした会話だったな、と思いながらファントムはアヤの前にできたてのカフェオレを置いた。
「砂糖は自分で入れるがいい」
 自分の前に置かれた砂糖壷から、アヤがスプーン3杯ほど砂糖を入れるのを見て、ファントムは内心苦笑した。
――私が飲んだらさぞかし胸焼けを起こすだろう…。まったく女子供は甘いものをことのほか喜ぶものだな。
 美味しそうにカフェオレを飲むアヤを、ファントムは今まで感じたこともないような暖かい気持ちで見つめていた。
 食後、ファントムはいつものようにパイプオルガンに向かった。少し離れているところから自分を見ているアヤの視線を感じながら、今日はいいものがかけそうだとファントムは思った。


 地下の館にパイプオルガンの音色が響き渡る。彼以外の誰かが同じ曲を弾いたとしても彼ほど美しい音色は出せないに違いない。どこかで聞いたことがあるような、それでいて誰の曲とも似ていない不思議な旋律。間違いなく彼にしか紡ぎ出せない音楽だった。彼はいつもどおりに作曲に夢中だった。そう、アヤが部屋から居なくなったのも気づかないぐらいに。
 ふとアヤの気配を感じないことにファントムは愕然とした。
――しまった! 逃げられたか!?
 逃がしはせぬ、そう思いながらファントムはアヤを探した。この館から出る道は多々あれど、アヤがそれに気づくはずもない。唯一思い当たるのは湖だった。
 気配を悟られぬよう足音を立てないように湖に近づく。アヤは逃げる様子もなく湖のほとりに座り込んでいた。彼女の視線の先は、昨日彼女が落ちてきた辺りを見つめているようだった。
――やはり戻りたいのだろうか…。だが、この館の内部を知っているものを地上に返すわけにはいかぬ。
「アヤ」
 ファントムは考えを悟られないようにできるだけ抑揚のない声でアヤを呼んだ。振り向いたアヤの瞳が潤んでいることに、内心ファントムはひどくうろたえた。
――何故泣いている!? 私の予測にはこのような展開はなかった! どうすれば…。
「…ファントム」
 アヤはふらふらと立ち上がるとファントムの胸に倒れこんだ。
「アヤ? …アヤ!」
 思いもかけない状況にファントムの胸は高鳴った。しかしすぐにアヤの状況がおかしいことにファントムは気づいた。
――体が冷えすぎている。そしてこの震え…。発熱の兆候に間違いない。
 昨日湖を泳いだ後のように荒い息をしてカタカタと震えが止まらない様子のアヤを、ファントムはマントに包むと抱き上げた。予想していたよりもずっと軽いアヤに少々驚きながらも、ファントムはアヤの部屋へと急いだ。ベッドに寝かせ毛布をかける。だがアヤの震えは止まりそうもなかった。
「――――……―――…」
 アヤが何事かを繰り返し呟いている。彼女の国の言葉で「寒い」という意味なのだろうとファントムは思った。
「…致し方ない…」
 ファントムはジャケットとベストを脱ぐと、アヤのベッドに潜り込んだ。冷え切ってしまった小さな手は、片手でもすっぽりと包めてしまうような気がした。ひんやりと冷たいアヤの体を抱き寄せる。
――こんなに冷え切って…一体どれほどあそこにいたのだ…。言葉も通じないところに来て、昨日は湖を泳いでいる。体調を崩すのも無理はないことではないか…。
 私のシャツだけではなくもう少し厚着をさせておけば。そんな思いが脳裏をよぎる。自分が抱きしめるとすっぽりと隠れてしまう小さなアヤの体は、少し強く抱きしめただけで壊れてしまいそうに思えた。胸元をアヤの荒い呼吸がなで上げていく。自分と同じ石鹸を使っているのになぜこんなにいい匂いがするのだろうか。他人の体温をこんな近くで感じたことのないファントムは、なんだか頭がくらくらするような気がした。
 どのくらいアヤを抱きしめていただろうか。ふと気づくとアヤの呼吸がずっと静かになっていた。どうやら峠は越したようだった。ファントムはベッドから出て布団を整えると、タオルを濡らしにキッチンへと向かった。アヤが触れていたところがいつまでも熱いような気がする。
 冷たい水に浸したタオルを絞ってアヤの額に乗せる。心なしか心地よさそうな表情をしている気がした。地上のオペラ座では誰も彼もが自分を恐れているというのに、昨日出会ったばかりの少女にかいがいしく世話を焼いている自分がなんだかおかしかった。
――今日の作曲は中止するしかあるまい。ここで死なれると何かと後が面倒だ。
 こんこんと眠り続けるアヤの横でファントムは本を読んで過ごす事にした。これならアヤに何かがあっても即座に対応することができるだろう。


 三時間ほど経っただろうか。本は2冊目に入っていた。
「…ファントム…?」
 アヤが起きた。まだ頬も赤く目も潤んでいるが、熱も下がってきているようだった。起き上がろうとするアヤを手で制し、口元に吸い飲みを持っていく。アヤはずいぶんと喉が渇いていたようで、水を一気に飲み干した。
「ファントム…」
 アヤは潤んだ目でファントムを見つめる。ファントムはどぎまぎした。
「クロワッサンお願いします…」
 お腹がすいたということなのだろう。なんだか拍子抜けしたような気もしたが、ファントムは微笑んでアヤの髪を撫でると席をはずした。
 十数分後、ファントムは手際よくリゾットを作るとアヤの枕元に持ってきた。昼食を食べ忘れた自分の分も一緒にして。起き上がるのに手を貸し、背中にクッションを当てて負担が少ないようにする。もそもそとリゾットを口に運ぶアヤを見て、ファントムは内心胸をなでおろした。
――食欲が出てきたならもう心配は要らないだろう。これから夕方だからまた少し熱は上がるかもしれないが、明日には回復するに違いない。
 リゾットを食べ終わったアヤに蜂蜜をといた白湯を差し出す。アヤがそれを飲み干すのを見ると、ファントムはまた彼女を寝かせた。
――もう、私がついていなくてもいいだろう。今アヤに必要なのは休養と睡眠だ。
「さて、私はもう失礼するよ。おやすみ、アヤ」
 ファントムはアヤにそう言って背を向けた。だが、何かにシャツの裾が引っかかったらしい。ファントムはまた振り向いた。
 アヤだった。アヤがシャツの裾をつかんでいた。
「アヤ?」
「ファントム…」
 熱に浮かされた目でアヤが見つめる。きっと一人にされるのは不安なのだろう。ファントムは微笑んでベッド脇の椅子に座ると、アヤの手を取って子守唄を歌い始めた。
 静かな寝息を立てるアヤの頬にそっとキスを落として、ファントムが部屋を出たのはその30分程後だった。