一日目




 もう、夕暮れでした。わたしは闇が濃くなってきた道を家へと歩いていました。昼前から振り出した雨は雨脚を強め、かなりの豪雨になっていました。スニーカーはとっくに絞れるほどの水を含んでいましたし、制服はだんだんと雨水を吸い、かなり重量を増していました。
「やだな、雨は。肌寒いし風邪ひいちゃう」
――喉痛めなきゃいいんだけど。大学受験本番に声が出なかったりしたら最悪だし…。
 今日も学校帰りにレッスンに行ってきたところです。もちろん夢はディーヴァ!でもその一歩がまだまだわたしには遠いものでした。
 本当に大学に受かるんだろうか。先の見えない不安はいつもの事です。もちろん、大学に入ってもその後どうなるかは判りませんが…。どこかに逃げてしまいたいようなそんな気になりながら、わたしは家路を急ぎました。
 何かを考えて足を動かしていたほうが家に早くつく気がします。わたしは夢想に気を取られたまま一歩を踏み出し、体勢を崩して足元の闇の中へ…そう、マンホールへと落ちていきました…。


 その日も何も無い一日のはずだった。私はいつものようにオルガンに向かい、私の人生をかけた作品…『勝利のドン・ファン』の作曲にいそしんでいた。
「ふむ…やはりここはこの音のほうが響きがよいな」
 私は赤インクでその借用和音を五線紙に書き写した。私にとってこの世で唯一心安らぐときである。生れ落ちたときからこの醜い顔のせいで母にすら愛された覚えは無い。人や世間から逃げ回り、やっと私が腰を落ち着けることができたのがこのオペラ座の地下だった。この生活を乱すものは何人たりとも容赦はしない。オペラ座から私の住まいまでの道には数多くの罠を張り巡らせてある。ここまでたどり着くには私の案内が無ければよっぽど悪運の強い人間でも無理な話だ。


 その時だ。突然湖から何か重いものが落ちるような水音が聞こえた。
「ふん! 身の程知らずの侵入者か!」
 大方最後に気を抜いて湖に引き込まれたのだろう。だが念には念を入れ私はマントの中に縄の感触を確かめると、急いで湖へと走った。
 湖の真ん中に人影が見える。どうやら泳いで…いや、溺れていると言った方が近い表現だ。水面に黒い頭が浮き沈みを繰り返していた。だんだんとではあるがこちらの岸へと近づいてくる侵入者を、私は待ち構えた。
 ようやく侵入者が岸へとたどり着いた。ここまでたどり着くのに体力をほとんど使い果たした様子で、大きく肩で息をしている。
 私は驚いた。しかもその侵入者は女性だったのだ。それもこの国の者ではない。黒い髪に黒い瞳。そして象牙色の肌をしていた。それに一体この恰好はなんだ?男装のようにも見えるがスカートの丈はとても短く、太ももが露になっている。まぁいい、この様子ならすぐに殺すこともできる。話を聞いてからでも遅くはなかろう…。
「お前は何者だ?」
 返答次第ではすぐにその細い首にパンジャブの輪がかけられるように、右手で縄を握ったまま私は聞いた。侵入者はまだ荒い息を吐きながら震えている。10月のパリは肌寒い。さらには地底湖に浸かっていたのだから寒くないわけが無い。彼女は息を整え、やっと口を開いた。
「――――――――――――――…」
 聞いたことも無い言葉だ…。それに湖には小船も見当たらぬ。少女を最初に見つけたのは湖の真ん中なのだから小船が無くては湖を渡れるわけも無い。泳ごうとしても音でわかるし何よりこやつが泳げないのは一目瞭然だ。湖の上には何の仕掛けを施した覚えも無い。ならば一体どこから侵入してきたのだ…?
 その後私が何を聞いても少女は理解ができぬらしく、ただ怯えた目で私を見るだけだった。ふと湖を見ると何かが岸に漂着していた。近づいて見てみるとそれは鞄だった。見たことも無いデザインの見たことも無い布でできていたが、多分そうだろう。
「これはお前のものか?」
 理解はできないだろうと思いつつも聞いてみる。そのとたん彼女は私の手から鞄を奪い取り、半狂乱になって中身をあけた。零れ落ちてきた楽譜は水浸しで、もう到底使えそうには無かった。入っていたのはモーツァルトとベッリーニの歌曲集になんだか訳の解らないガラクタが数点。特に私に害をなしそうなものは入っていなかった。
 とたんに、私のことなどそっちのけでふやけてしまった楽譜を涙目で見つめている少女に、私は興味を引かれた。
「来い。そのままでは風邪を引く」
 彼は少女に自分のマントをかけると手招きをした。おぼつかない足取りではあるが、楽譜を離そうとしない少女がひどく面白いものに見えた。


「好きに使うがいい」
 バスルームのドアを開け少女を部屋に招きいれる。顔は蒼白で唇は紫色。歯は噛み合わせを忘れてしまったかのようにガチガチと鳴っている。顔に張り付いた髪をよけようと彼女の顔へと手を伸ばす。小さなうめき声を上げて少女の体は強張った。
「そう怯えなくともよい」
 彼女が怯えないようにとりあえず微笑むと、私は入浴を促した。
「また後で」
 背中に少女の視線を感じながら、バスルームのドアを閉める。ドアの向こうで少女は少しためらっているようだったが、そのうち水音が聞こえてきた。私は適当に見繕った洋服…といっても自分のものだが…を脱衣場に置いた。ドアの向こうでは、少女が私の気配をうかがっているようだった。
 その用心深さに、自然と笑いがこみ上げる。私はそのまま作曲に戻った。
 半刻近くが経っただろうか。バスルームのドアが開いた。男の中でも大柄な自分のシャツをもてあまし気味に着ている小柄な少女がなんだかおかしかった。先ほどとは打って変わった薔薇色のほほに唇。肌のきめはとても細かい。肩で切りそろえられしっとりとぬれた黒髪は、鴉の羽を思わせる。
「…ありがとう」
 少女は聞きなれない訛りでそう呟いた。
「フランス語が解るのかね?」
 話せないと思い込んでいた私は驚き、聞いてみた。だが少女は何を聞かれているのかわからないようだった。単語だけ知っているということだろうか…。
 私が考えあぐねていると聞きなれない音がぐぅ、と鳴った。少女を見ると顔を耳まで赤くしている。
「空腹なのかね? …ああ、もうこんな時間じゃないか。そうだね、夕餉にしよう」
 私は笑いながら懐から時計を出した。懐中時計はちょうど9時になろうとしていた。
 部屋にいい匂いが広がる。今夜はジャガイモとキャベツとベーコンのスープに魚のムニエルにした。
「ありあわせのものだが食べなさい」
 私が食卓に着くと、少女もおずおずと椅子に座った。少女は何かを呟いてそっと手を合わせ、料理に手をつけた。私は赤ワインをグラスに注ぎ少女に勧めたが、少女は頭を振って拒否の姿勢を示したのであえて無理強いはしなかった。
 きちんとナイフとフォークを使いこなす少女を見て、少なくとも西洋の文明になじみがあるところからやってきたようだということに気づく。私は少女に気づかれないように、そのまま観察を続けた。


「さて、マドモワゼル。君の名前を教えてもらおうか」
 食後の紅茶を一口のみ、私は少女に尋ねた。
「私は…ファントムと呼ばれている」
 私は自分を指差し、少女にそう告げた。
「ファントム?」
 少女は逆に私を指差し、そう呟いた。どうやら名前は認識したらしい。
「そう、ファントムだ。お前はなんと言う名前なのだね?」
 私は己を指していた指を少女に向けた。少女も何を聞かれているのか理解したのだろう。たどたどしいながらもはっきりとした声でその問いに答える。
「…アヤ…」
 聞きなれない名前だった。どこから来たのか調べようにも、これでは手の打ちようが無い。私は溜息をついた。
「もう夜も遅い。寝たほうがいいだろう」
 そう言って私は席を立ち、アヤを手招いた。素直に自分についてくるアヤを観察する。年のころは12,3。自分より40センチほど背は低く、言葉には聞き覚えも無い。
「この部屋を使うがいい」
 私は客室にアヤを案内した。そこは小ぢんまりとしてはいるが、白い壁で地下とは思えないほど明るく見えるようにしてある。
「お前に見合う服は置いていないが、しばらく寝泊りする分には不自由はないだろう。お前をこの先どうするかはまだ決めていないがな」
 どうせ言ってもわかりはしないか、と思いながら私はアヤを残して部屋を出ようとした。
「アヤ、おやすみ」
「おや、すみ?」
 私は静かに戸を閉めた。
 ――我ながら物好きなことだ。さて、あの娘をどうしたものか…。言葉も通じない娘にいろいろと仕込むのは面白そうではあるが。ここから出さなければ殺さなくてもいいだろう。
「これはあくまで監禁だ」
 私は自分の興味を押し殺すかのように小さく呟いた。