アヤが恋人となってからどのくらい経ったのだろう。もう私達はどこにでもいる普通の恋人同士のようで、甘い言葉を交わしたり、私達だけにしか判らないような合図を目でしてみたり、作曲をしているとお茶を入れてくれたりもする。こんな幸せな毎日が私に訪れるなんて、一年ほど前は思ってもみなかった。もちろんこの地底と言う制限があるにしろ、それでも充分私は幸せだった。
だが、やはりアヤは薄々感づいているらしく、私の仮面のことも過去の事も、私がどういう人間であるかも、未だ訊こうとはしない。それはアヤの優しさだと解ってはいるが、私達の間にある暗黙の了解でもある。もちろんこの掟があるおかげで私達の関係は上手く行っていると言っても過言ではない。私達の愛は真実のものなのに、その関係は嘘と隠し事と言う薄氷の上に成り立っているのだ。だが自分を抱く男の顔の全てを見てみたいと思っているには違いない。夜、閨で私の下にいるときにもアヤが仮面に触れることがある。しかし私の地獄の業火に焼かれたような醜い顔も、薄汚れた過去も、アヤが知ってしまったらもう元には戻ることはできないだろう。こんな化物のような顔をした人殺しを、アヤが選んでくれる訳が無いのだ。
私はアヤを愛している。彼女のためなら音楽も、命すらも惜しくは無い。私に触れ、私と話し、私に微笑んでくれるアヤ。アヤと過ごしたこれまでの日々は、私の人生の中で一番すばらしい時間だ。そんなアヤに私の秘密を知られるわけにはいかない。お前を抱いている男がこのような化け物だと知ったら、お前は私をどう思うだろうか? 今までの誰もがそうだったように、化物だと罵り、恐怖し、私を拒むだろうか? しかしあるいは全てを曝け出し、跪いて愛を乞うことができれば…憐れみでも、同情でも、私の傍に残ってくれるだろうか? ―――無論、今の私にそのような勇気は無い。だが出来うる限りアヤの前でだけは優しい恋人のままでいたいのだ。この幸福な時間が一分一秒でも続くように、私は毎日のように祈っていた。
秋の、夕刻だった。そろそろ夕餉の支度をしようと私は厨房へ向かって歩いていた。だんだんと夜も冷えてきた。今夜はシチューにでもしようか…。そう思っていた私の耳に、厨房からの物音が聞こえてきた。アヤが先に行っているようだ。アヤが手伝ってくれる夕食は、楽しいし、美味しい。作る時間が早く済むというのもあるのだけれど、何より二人で何かをするというのがこの上なく楽しいのだ。こんな何気ない日常でも、私はいつもその幸せを噛み締めていた。
「アヤ…」
そこにいるはずのアヤに声をかけようとして、私は目を見張った。そこで私が見たものは、椅子の上にいくつか箱を重ねた、お世辞にもバランスがいいとは言い難い台に乗ったアヤの姿だった。何かを探しているような様子のアヤは、私には全く気付いていない。
「…もう、少し…」
アヤが手を伸ばす。ほんの少し棚には届かない。
「アヤ!」
危なっかしいその姿に、私は思わず声をかけた。そしてアヤが振り返り―――台が傾いた。そこからは世界の全てが止まっているようにゆっくりだった。私はそのままアヤの元に走りより、アヤを受け止めにかかった。
酷く大きく、金属や木や様々な物が出す不協和音が厨房に響く。重く、痛い。
「いた…くない? え?」
アヤが不思議そうな声を出す。それはそうだ。アヤを受け止め損ねた私の上にアヤが落ちて来たのだから。
「怪我は、無いか…?」
アヤを上に乗せたまま起き上がる。無様な自分を自嘲しながら、私は苦痛によって歪み、閉じられていた瞼を開いた。
アヤの反応は、無い。私の目に映ったのは、呆然と私の顔を見つめるアヤの顔だった。とても嫌な予感がする。私は恐る恐る顔に手をやった。
―――仮面の感触は、無かった。
血の気が引くとはこのような事を言うのだろう。アヤを受け止めたときの衝撃で、私の顔からは仮面が…ウィッグすらも取れていたのだ! 悪夢のような出来事だった。私が一番恐れていた事がこんな形で起こってしまうなんて―――! 神よ! 貴方はどこまで私を憎んでいるのです? 私が何をしたと言うのです? 私に生れ落ちたときから十字架を背負わせ、今またやっと掴んだ幸福すらも奪い取ろうと言うのですか? 神よ! 神よ! ―――万有の父よ―――!
私も、アヤも、動くことができなかった。私の心臓は痛い程の速さで鼓動を打ち、その癖頭は妙に冷静だった。『どうするべきか』。その言葉だけが私の頭をぐるぐると回る。ここでアヤが悲鳴でも上げようものなら、私の理性は飛び、アヤをめちゃくちゃにしてしまいそうだった。
その時だ。アヤの唇が、何か言葉を紡ぎだそうとし、ゆっくりと動き出した。―――これでアヤとの日々も終わる。アヤが悲鳴を上げた瞬間、私は悪魔に変わってしまうだろう…。
だが、アヤの唇から紡ぎだされたのは、意外な言葉だった。
「何だ、想像してたよりもずっと大丈夫じゃない…」
何だかほっとしたような声。私は自分の耳を疑った。大丈夫? そんな風に聞こえる筈が無かった。
私のシャツの胸元を掴んでいたアヤの指が、そっと私の頬に触れる。その手はいつもどおりに柔らかく、温かだった。
「ウィッグだったのね」
アヤが優しく私の髪を撫でた。
「地毛の方が、きれい。きっと太陽の下で見たら金色に輝いて見えるんだね」
きれい? 私が? アヤの言葉の全てが信じられないものであり、夢としか思えなかった。
「こっちも、触っていい?」
アヤが仮面に隠されていた私の顔を指す。アヤのまっすぐな瞳に見つめられ、私はただ無言で頷くしかなかった。
アヤの指先が恐る恐る私の醜い部分に触れる。彼女の言葉は強がりが含まれているのだろう。私を傷つけないようにしているものの、指先は震えていた。
「怖く、ないから…」
アヤが私の右顔を撫でながら呟いた。私は心の中を見透かされている様でどきりとした。私の顔の引きつれを見ていたアヤの視線が私の視線とぶつかり、アヤが微笑んだ。
「これでもう、たまには隠さずにいてくれる?」
彼女が何を言っているのか、私はすぐに理解することができなかった。
「本当に、怖く、ないのか…?」
私は、やっとその言葉を搾り出した。アヤがまた微笑む。
「全く怖くないとはまだ言えないけど、そのうち見慣れるだろうし。わたしが好きになったのはファントムの中身なんだから、何の問題があるの? それに想像してたよりは、ずっと平気」
「これより酷いとは、一体どのようなものを想像していたのだ…?」
「見たら石になるメデューサみたいなの? でも別に見たら死ぬって訳じゃないんだろうし、ある程度は大丈夫だって覚悟はしてた」
私は全身の力が抜け、床に倒れこんだ。アヤが私の顔を見下ろしている。私がずっと思い悩んでいる間に、彼女がとうに覚悟を決めていたなんて! 誰が予想できただろうか? 私の恋人がここまで強い人だと。私を、ここまで愛してくれていると―――!
「ねぇ、怪我は無い? 痛かったでしょ?」
アヤが私の上からそっと退いた。言われてみれば様々な場所を打ったようだった。背中が痛い。ゆっくりと起き上がる私に、アヤが仮面とウィッグを拾い手渡してくれた。
「ねぇ、ゆっくりでいいからそのままのあなたがわたしは見たいの。…いいでしょ? そんな相手が一人ぐらいいたって」
―――そう言って微笑むアヤを見て、私は胸が一杯になった。胸が痛く、目頭が熱い。私は天を仰ぎ溜息をついた。息と共に涙が溢れ出る。手で顔を覆うが、次から次へと両頬を流れ落ちる涙は、止まることを知らない。嗚咽を漏らしている私の頭を、アヤが抱き締めた。
「ねぇ、もっと頼ってもいいんだよ? ちょっとは寄りかかってくれてもいいでしょ? あなたがわたしを大切にするように、わたしもあなたが大切なんだから…」
アヤはそう言って私の顔に…醜い右頬に口付けを落としたのだ! 生まれて初めて私は右頬に唇が触れるのを感じた。その瞬間の歓喜は、私以外の誰にも解るまい。ああ、アヤを抱きしめようとしても、身体が言う事を聞いてくれない。震える腕でやっとアヤを抱きしめると、アヤはそっと私の髪を撫でてくれた。
アヤの鼓動が聞こえて、私はだんだんと落ち着いていった。まるで幼子が母の乳房から乳を吸うとき、母の心音を聞くように。その音は随分早く、アヤがどれほどの勇気を持って私に口付けてくれたのかが解るようだった。
私の呼吸が穏やかになるのを聞き届け、アヤは私から離れた。そして夕食は自分が作るからと言い、私を厨房から追い出した。
「君を愛している…。心からそう思うよ…」
私はそっと呟いた。今の私の中には、この言葉しか存在していなかった。