「もう…!」
本当に、勝手なんだから―――! わたしは少し怒りながらリビングを出た。本や作曲に集中してしまうたちなのは知ってるけど、それでも外にも出かけられない、やることもないこの場所で一人本を読むのはどうかと思う。ピアノで遊ぼうと思ってもピアノはリビングだし、結局わたしはあの人と喋るくらいしかやる事がない。あれでピアノを弾いてもそのうち静かにしろと言いだすだろうし、なにより一人でピアノを弾いてもつまらない。仕方なく二度寝でもしようと二階に上がったところで、ふと、いつもは通らない廊下が気になった。
「………」
何とはなしに廊下を進むと、その奥に粗末で急な階段が見えてくる。
「…行っても、いいよね…」
自分から立ち入ろうとは思わないけど、あの部屋の鍵はあの人が開けたのだ。だから、たぶん、もうわたしが入っても構わない…はずだ。
狭い階段を一歩ずつ上がっていく。いけないものを見てしまうようで胸がどきどきする。きっとここで驚かされたら、心臓が止まってしまうかもしれない。扉の前に立ち、目をつぶる。ここを開けた時のあの人の顔は、深刻そうで、それでいてどこか諦めたような表情だった。
「…よし」
深呼吸をして、扉に手をかける。そっと扉を開けると、この間ほどではないにせよ、埃っぽい空気が頬をかすめる。部屋は薄暗く、寒い。天気のせいだけではなく、日当たりも良くないし小さな窓の外には大きな木が覆いかぶさっている。窓の外をちらりと眺めて、あの木に飛び移るのをいとも簡単なことだと言っていたあの人の話を思い出す。―――普通、無理だ。
あの日ここに入ったわたしは、一目でここが誰の部屋だったのかわかってしまった。薄暗い部屋にあるのは何だかわけのわからないものと、小さな机とイス、―――そして同じように小さなベッド。ここに、あの人は居たのだと思った。その瞬間、悲しくなって涙が止まらなくなった。日当たりの悪い寒いこの部屋で、小さなあの人が一人過ごしてたのだと思うと、悲しくてたまらなくなった。いろいろなニュースで親は必ずしも子供を愛するものではないと知ってはいたけど、それを目の当たりにするのはやっぱりショックが大きい。あの人のお母さんは、本当にあの人を愛さなかったのだろうか。あの人の才能を見て、何も思わなかったのだろうか。教育熱心ではあったようだけど、それは愛情とは違うものなのだろうか? 今のわたしにそれを知るすべはない。でも、何かが引っかかる。
埃をかぶった机をそっと触る。あの人の子供の頃の写真があったらよかったのに―――。きっとこまっしゃくれて生意気な子供だったんだろうとすぐに想像ができる。そこらの大人ではやりこめられていたに違いない。そう考えると、少しおかしい。たぶん今と同じように集中したら話は聞こえないし、なんだか分からないものをいろいろ部屋に集めて面白がっていたのではないかと思う。そんな様子がありありと浮かんで、わたしは頬が緩んだ。
ここで、あの人はどんな子供時代を過ごしていたのだろう。家からは出してもらえず、愛情を注いでくれたのはサシャだけだと言っていた。わたしでは想像もできないような生活だったのだろう。あの人が話す子供の頃の楽しかった思い出は、わたしにしてみれば普通のことだったりして、やっぱり切ない気分になる。「母は私ごと全てを忘れようとしたのだ」、とあの人は言った。確かにこの部屋はあの人が使っていた時のそのままなのだろう。目をつぶれば、小さな頃のあの人が見えるような気さえする。机に向って一心不乱に何かの細工をするあの人、サシャを撫でるあの人、独りで泣いているあの人―――、考えただけで胸が痛い。
ベッドの傍らにあったヴァイオリンを手に取る。ずいぶん小さなヴァイオリンだ。小さなケースを開けると、中には同じように小さなヴァイオリンが入っている。これで、あの人はどんな音色を奏でたのだろう。サシャや、お母さんに聴かせたりしていたんだろうか。きっとあの人の事だから大人顔負けの演奏をしたに違いない。素晴らしい才能をもった我が子を、あの人のお母さんはどう見ていたのだろう。何とも言えない気分になって、わたしはヴァイオリンを元に戻した。
ふと、机の引き出しが目にとまる。何とはなしに開けて見ると、雑多ないろいろなものと、スケッチブックが入っていた。スケッチブックを取り出して見ると、そこには小さな頃のあの人の作品が一杯に詰まっていた。最初のページにはサシャだと思われる犬の顔や寝姿が子供とは思えない絵で描かれている。ページをめくっていくと、サシャだけではなくこの部屋の窓から見た風景、小さな手(あの人自身のものだろうか)が数枚描かれていた。でも、そういったものはスケッチブックの最初の方だけで、後は全て同じモチーフが描かれている。―――わたしの知らない、女の人。何枚も何枚も同じ女性を飽きることなく、事細かに描いている。
「お母さん…なのかな?」
少しヒステリックな感じはするがとてもきれいな人だ。エリックの顔にどこか似ているような気もする。右から見た顔、左から見た顔、下から、上から、色々な角度で描かれている。何枚もの絵を見ていくうちに、わたしは違和感を覚えた。ページをめくる手を止めて違和感の原因を考える。しばらくスケッチブックを見つめて、わたしはやっとその違和感の正体に気が付いた。―――描かれた肖像画は、どれも横顔、よくてななめ程度で、どれも正面を向いていないのだ。
「何これ…」
どういうことなのだろう。意図して描かれたものなのだろうか。横顔の練習? でも、何かが違う。再びページをめくって見ても、やはり正面を向いた顔はない。表情はどれも厳しくて、笑っている顔もない。そして、最後のページにたどりついたとき、わたしはショックを受けた。
そこには、初めて正面を向いた顔が描かれていた。口元にはわずかな頬笑みを浮かべて。でも、その肖像画は―――顔のほとんどが黒く塗りつぶされていた。
「何これ…!」
顔のほとんどを塗りつぶされた肖像画。わずかな口元やあごのあたりからあの人のお母さんだと思う肖像画。でも、そこに顔は描かれていなかった。
「…なんで…?」
今までの絵を見ても、その絵が描けなかったはずはない。サシャの顔だって、他の横向きのお母さんの顔だって、どれも素晴らしく描けていたのに。でも、この最後の絵は、まるで途中で描くのを諦めてしまったように顔が塗りつぶしてある。茫然と絵を見ていたわたしは、ふと、一つの悲しいことに気が付いた。サシャの顔も、窓から見た風景も、きっと見たものをそのまま描いたのだろう。お母さんの横顔も、見たものを描いたのだろう。―――なら、この塗りつぶされた絵は―――。
―――それが、真実なのだろうか。だから、描けなかったのだろうか。描かなかったんじゃなくて、描けなかったんだろうか。―――見たことがないから。お母さんが笑う顔を、正面から顔を見たことがなかったから―――!!
一気に胸が熱くなり、涙がこぼれそうになる。このスケッチはただの練習ではない。小さかったあの人が自分の目で追った母親の記録なのだ。顔をそむけ、目を合わせなかった母親の―――! ―――なんて悲しいんだろう。なんて痛ましいんだろう。なんて切ないんだろう―――…。ここに書いてある絵が、あの人の目から見たお母さんだったのだ。小さな子が、この世で一番好きな相手の―――。
溢れる涙を拭う。呼吸を整えて、わたしは悲しいスケッチブックを元通りにしまい込んだ。小さかった頃のあの人の思いがつまったスケッチブックは、わたしにはショックが大きかった。どれだけ恋しかっただろう。どれだけ愛してほしかっただろう。言葉では語りつくせないほどの思いが、あの絵には込められている。
―――どうしてわたしはもっと昔にあの人に出会えなかったのだろう。小さな頃のあの人を、抱きしめたかった。守ってあげたかった。どれだけ辛い思いをして生きてきたのだろう。どれだけ苦労をしたのだろう。どうして、わたしは何もできないのだろう―――。―――無力な自分が腹立たしい。あの人の苦しみを無くしたいのに! それなのに、わたしは無力で、何もできない。
あの人に触れたい。あの人を抱きしめたい。子供の頃のあの人を抱きしめることはできなかったけど、今のあの人を抱きしめることはできる。無性にあの人に触れたくなって、わたしは元通りに部屋の戸を閉め、リビングへと向かった。階段を降りたちょうどそこに―――あの人が居た。
「いつの間にかこんな時間になってしまった。食事にしよう」
―――あの人は、強い。辛い事がいっぱいあるはずなのに、どうして今こんなに優しく笑えるのだろう。わたしは何も言えずに、あの人を抱きしめた。
「どうした? 構ってもらえずに寂しかったのか?」
優しいあの人の声。本当の事など言えるはずもなく、わたしは嘘をついた。
「…寒いだけだよ」
もっと、わたしが力になれればいいのに。こんなにも好きなのに、わたしには何の力もない。呆れたような溜息を、あの人が吐く。
「二階になどいるからだ。私の横にいれば暖かかったものを」
なぜ二階にいたのかは言えない。もし聞かれたら部屋で寝ていたとでも言うしかない。
「だってエリックが一人で本を読んでたら、わたしは何もすることないんだもん」
あの人に嘘を言うのが心苦しい。勝手に秘密を覗いてしまったようで、胸が痛い。顔も上げられない。きっとあの人に嘘がばれてしまう。そんなわたしの頭に手を置き、あの人がささやいた。
「何なら今からベッドの中で構ってやっても構わんが?」
―――いきなり何を言い出すんだこの人は。だいたいそういうところが強引で、わたしは嫌だと言っているのに話を進めてしまう。このままでは危ない。わたしは全力で話をそらすことにした。
「…それは遠慮しとく」
「どうして? 身体も温まって丁度いいじゃないか」
―――だから、そういう強引なところをどうにかしてほしい。この危険な流れを止めるために、わたしはちゃんと抗議をしようと顔を上げた。
「それでも…!」
それでも、いやだ、というつもりだった。―――口元の緩んだあの人を見るまでは。また、乗せられていた。どうしてこの人はわたしをからかうのか…。身体は大きいのに、子供のようなところがある。
「…また、からかってる…」
乗せられたことが悔しいし、恥ずかしい。顔が赤くなっているのが自分でもわかる。このままでは腹の虫が治まらない。何か仕返しをしようと思い、わたしは階段を上がった。―――そのままでは届かない。
「もう…」
どうして、こんなに明るく笑えるのだろう。もしもわたしなら、きっと耐えられない。得意そうに笑うあの人を見て、わたしは切なくなるほどあの人が愛しくなった。あの人の首を抱きよせ、自分からキスをする。自分からこんな事をするのは恥ずかしいけど、それでも自分からしたいと思えるほどあの人の事を好きだと思った。
あの人がわたしを抱きしめ、胸の高鳴りがいっそう強くなる。好き。好き。大好き。こんなに人を好きになったことはない。普段優しいところも、大人なところも、たまに子供っぽいところも少々強引なところも、何もかもが好き。あの人の事を考えるだけで心臓が速くなるし、手をつないだだけで嬉しくなる。あの人の過去も、全てが好き―――。わたしに何ができるだろうか。わたしが何の力になれるだろうか。どうしたら、好きな人を幸せにできるだろうか。何ができるかは分からないけれど、好きだという思いは誰にも負けない。
わたしを抱き上げたあの人を、また抱きしめる。大好きなあの人の苦しみを、少しでも取り除けるように―――。そんなことを思いながら、わたしはもう一度あの人の頬に口付けた。
<終>
拍手ありがとうございました!
<送られたメッセージの確認>
|
連続拍手は
10
回まで可能です。
|
- PatiPati (Ver 4.3) -