あれからしばらくして起きだしたアヤに、此処を発つ話をしようとした。アヤは無言で起きると手早く服を着、そして氷のように冷たい目で私を見据えた。


「さて…」
 寒い。この上なく寒い。
「わたしが何で怒ってるか、言わなくても解るよね?」
 ―――やはり、気づかれていたのだ。もうどうあっても、私とアヤの関係は戻らないだろう。もうすぐ私は、独りになる。独りになって、あの暗い牢獄で朽ち果てるのだ。パリに戻ろうと話をしなければいけない。パリに戻って、―――別れて欲しい、と。
「アヤ、話を聞いてくれ…」
「問答無用」
 話すら聞いてはくれないのだろうか。だが仕方ない。私はそれだけの事をしてしまったのだ。ああ、しかし寒い。私は着のみ着のまま、裏庭へ放り出されたのだ。
「…ひとつ、人が居るのにあんなことをした」
 裏庭に放り出され、日本の座り方だという『セイザ』をさせられ、私は今寒さに震えている。
「ひとつ、女の子打つなんて最低」
 この『セイザ』は今までもアヤに怒られる時にさせられたものだが、折りたたんだ脚がすぐに痛くなってしまうのだ。―――そしてこれをさせられている時のアヤは怖い。
「ひとつ、よくもあんなところ触ったね? 嫌だって何度も言ったのに!!」
 確かに優しい言葉をかけられるよりも罵られた方が幾らもマシだ。だが、本当に寒くて痛いのだ―――。もう脚と指先の感覚は無い。
「ひとつ、このコルセット可愛いからお気に入りだったのに汚したね?」
 怖くてアヤの目が見られない。あれ以外にもこんなに怒っているのだ。下手なことをすればこのまま締め出されかねない。
「…すまなかった」
 まずはアヤの怒りを鎮めることが先決だ。アヤを鎮めて、話をしなければいけない。どれほど謝っても許してはくれないかもしれない。だが、一刻も早くパリへ帰らなければならないのだ。何時また私の心に悪魔が入り込むとも限らない。今度は止めてやれないかもしれない。もし、己を止められなかったら―――その時は死んでも死にきれない。
「謝って済めば警察はいらないんだよ? 特に3番目!!」
 何故そこで警察が出てくるのだ。意味が分からないが、此処での反論は望ましくないだろう。
「すまなかった」
「すまなかったじゃないよ! すっごく恥ずかしくて嫌だったのに…!」
 これだけ怒っているのなら、私の話に同意してくれるだろうか。同意などしてくれない方がいいが、別れなければ私は何時かアヤを不幸にする。
「だいたい―――!」
 アヤと過ごした日々は、どれだけ幸せだっただろう。一年以上一緒に居て、初めての事がたくさんあった。もうすぐ二度目のクリスマスだというのに、それを祝うことはないだろう。パリに帰って話をして、アヤが出ていくのは早くとも年明けになるだろう。注文しておいたアヤの服も、私が見ることはない。新年を祝う事も何もかも、もう何もできはしない。
 アヤと一緒に居て色々な事があった。本当に―――。だがもう、あの日々が戻ってくることはないだろう。この化け物が大それた夢を見すぎたのだ。人並みの幸せなど、手に入るわけがなかった。どうして気付かなかったのか。今となっては進むことも退くことも、どちらも辛いだけなのに。ずっとアヤと二人で生きていきたいと思った。本当に、そう思っていた。だが私の過去を知ればアヤは離れていくだろう。私から真実を言う勇気はない。だが、アヤの耳に入らないとも限らない。それならばいっそ、アヤが何も知らないうちに別れた方がいいのではないだろうか。私が激情に流されないという保証もない。アヤだけは傷つけてはいけない。あんなにも優しい彼女に、悪意を向けるわけにはいかないのだ。それが私のできる人としての精一杯だと思う。
 別れたくない。ずっとアヤと一緒にいたい。だがそれは、身勝手な話だ。もう、化け物からアヤを解放してやらなければ―――。
「もう、分かった!?」
 アヤの声に思考を引き戻され、思わず顔を上げる。
「あ、あと最後に…気絶するまでしないでって何度も言ってるよね? あれ本当に苦しいんだから!」
 そこまで一気にアヤが捲し立てる。そろそろ身体が芯まで冷えてきた。肩や膝に降り積もった雪すら払う事が出来ない。
「うん? …最後だと?」
 アヤの言葉が引っかかる。
「…そうだよ。二度としないでよね!!」
「…それだけか?」
「それだけ…!?」
 口に出してから、しまったと思った。それ以上の叱責があると思っていたのだ。どうやらアヤは本当に気が付いていなかったらしい。だが私の言い方ではアヤを怒らせてしまうだけだった。
「…まだ、反省してないみたいだね」
「いや、あの…」
 アヤの目が再び怒りに燃える。火に油を注ぐことになって、私は震えあがった。
「しばらくそこで反省してれば?」
 そう言ってアヤが裏口の扉を乱暴に閉め、鍵をかけた。
「え、おい…!」
 思わず駆け寄ろうとしたが、感覚のない足では立てずに雪の中に倒れ込む。もう冷たいどころの話じゃない。
「アヤ…おい、アヤ!」
 雪の中から叫んだが、アヤは窓から顔すら覗かせない。
「ちょっと、アヤ―――!」
 アヤを呼ぶ私の声だけが、寒空に吸い込まれていった。


「くっ…!」
 ようやく雪からはい出し、裏口の戸を叩く。
「アヤ! おい、アヤ開けてくれ!」
 雪まみれのまま動けかなったため、衣服が随分と濡れてきた。これでは長く持ちそうにもない。
「私が悪かった! だから入れてくれ!」
 アヤの返事はない。扉の向こうに気配すら感じられない。
「くそっ…!」
 このままでは危ない。
「!」
 ―――そういえば、玄関の鍵は閉めていただろうか。買いだされたものもまだ運び入れてはいない。
「…よし」
 可能性に賭けるしかない。私は家の周りを回って、玄関を目指すことにした。それに動いていた方が凍えずに済む。家の周りでも走れば暖かくもなるだろう。
「うっ…」
 だが、裏口から家の周りに目をやると、うずたかく積もった雪の壁が私を阻んでいる。―――だが、行くしかない。
 雪に足を踏み出すと、思いもかけないような位置までずっぽりとはまり込む。これは難敵だ。
「くっ…」
 やはりアヤの言うとおりに雪かきをしておけばよかった。だが、あの男のために何かをしてやる気になど毛頭なれない。それにまさかこんなことになるとは思ってもみなかったのだから仕方ない。
 新雪をかくようにして、何とか玄関にたどりつく。靴をなくさないようにするのに精いっぱいだったが、その靴もとうに中まで雪が染みている。
「寒い…」
 荒い息を整え、身体の雪を払う。ここまでくれば安心だ。私はほっとした思いで玄関の扉に手をかけた。―――が。
「…うん?」
 開かない。
「何だと!?」
 よく見れば玄関わきの荷物もない。私が家の周りをまわって苦労しながらここまでたどり着く間に、アヤが運び入れたのだ。
「アヤ、私が悪かった! 心からそう思っているから開けてくれ―――!」
 思い切り扉を叩いても、何の反応もない。
「―――っ!!」
 思い切り北風が哀れな私の身体を撫でていく。駄目だ、やはり身体を動かしていないと凍えてしまう。ポーチから出て空を仰ぐと、薄暗い空に白い煙が見える。暖炉からの煙突だ。そうだ、アヤは居間に居るのでは―――? あの部屋なら窓がある。顔を見て謝ればアヤも家に入れてくれるのではないだろうか。
「…待っていろ、アヤ…!」
 来た道とは逆方向に、また新雪を泳ぐようにして居間まで向かう。子供のころよりも道のりが遠い気さえする。居間の明かりが外まで漏れだし、温かな光が私を待つ。もう少し。あそこまで行ければ私の道も開けるのだ。
「………」
 疲れた身体で、ついに居間までたどり着く。中を覗くと暖炉前のカウチでアヤがゆっくりと紅茶を飲んでいた。
「アヤ…!」
 窓を叩いた私に気づき、アヤが顔を上げる。
「私が悪かった! だから中に入れてくれ…!」
 必死で窓を叩く私を一瞥し、アヤが残りの紅茶を一気に飲み干す。ああ、今の私に暖かい一杯の紅茶をくれれば、どんな言う事でも聞いてやるのに! ―――だがアヤは楽譜へと視線を落とし―――、私を二度は見てくれなかった。
「おい! アヤ! 頼むから扉を開けてくれ!」
 外はどんどん暗くなり、もう夜がすぐそこまで来ている。これからもっと寒くもなるだろう。―――冗談じゃない。
「アヤ! 開けてくれないのならこの窓を破って―――!」
 そこまで言ったところで、アヤが私を見た。―――今日の北風よりも冷たい目で。
「あ…いや、いくらなんでも、それは…。………そんなことはいいから開けてくれ!!」
 だめだ、そんなことをしたら外に出されるだけでは済まなくなる。血が上りかけた頭が、一気に冷たくなった。何度も窓を叩いて叫んでいるうちにアヤは溜息をつき…ついに部屋を出て行った。
「!!」
 玄関を開けてくれるのだろうか!? だが、開けっ放しの居間の扉の向こうで、アヤは階段へと進んでいった。
「!?」
 二階だと―――!?
「…!!!」
 私はその時、やっとアヤの怒りの大きさを思い知った。アヤは私を中へ入れるつもりはないのだ。なんということだ―――! このままでは私の身が危ない。その時、私は一つだけ入れるかもしれない場所を思い出した。…私の部屋だ。窓枠を外してしまえば、中に入れるかもしれない。万一でもあの窓なら割っても大丈夫だろう。木から飛び移って窓枠に捕まって片手で窓を開ければ―――。
「…やるしかないな」
 私は決意を固め、踏み固めてきた場所を慎重になぞりながら玄関へと戻った。


「…よし」
 随分と育った幹に足をかけ、思い切り飛ぶ。上の枝を掴んで身体を引き寄せ―――。木に登るなど何年振りだろう。まさかこの年にまでなってこんな事をするとは思わなかった。だが、これが最後の賭けだ。もう辺りは暗いし、私の限界も近い。これで中に入れなければ本当に危ない。
「………」
 荒い息を落ち着けて、あの頃使っていた枝にまでやっと到達する。―――木登りとはこんなに大変なものだっただろうか―――。だが、安住の地はすぐそこだ。もう少しで、温かい家の中に入る事が出来る。
「…そぉい!」
 呼吸を整え、思い切り窓に向かって飛ぶ。計算は完璧だ。このまま重力に従って少し落下するが、飛距離があるため無事に窓枠に手をかけられるだろう。
 一瞬の後私の手が窓枠に届き―――そして無様に落下した。
「NOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOON!!」
 悴んだ手では力が入らないことを計算に入れていなかったと思っても後の祭り。確かに掴んだはずの近づいた安住の地が遠ざかっていくのが酷くゆっくりに見える。永遠のような一瞬の後私の身体は雪の上に落ち、―――さらに落ちてきた雪が私を包み込んだ。
「ぐわっ! …くうっ…!」
 やっとの思いで雪の下から這い出て、呆然とする。いや、だがまだ諦めるわけにはいかない。ここで諦めたら明日の朝には私は冷たくなってしまう。
「くそっ、もう一度………!?」
 木に再び足をかけたところで、私は靴を片方無くしていることに気づいた。
「…まずい」
 もうずっと前から濡れて役には立たなくなっているが、無いよりはましというもの。慌てて今這い出たばかりの雪の中を探したが、深い雪の中で片方の靴ごとき見つかるわけもない。周りはもう暗くなり、部屋の中の明かりだけが暖かい。私はまた、玄関の扉を叩いた。
「アヤ! 頼むから入れてくれ―――!」
 中からは何の音も聞こえない。
「お願いだから―――!」
 身体の芯まで冷え切って、もうずっと前から震えが止まらない。
「もう二度としないから―――!」
 だがやはり、中からは何の反応もない。
「菓子でも何でも、作ってやるから! 歌だってピアノだって何でも演奏してやるから―――!」
 私はどうしようもなくなって、その場に崩れ落ちた。ああ、どうしたらアヤは怒りを鎮めてくれるのだろう。寒い。ただ、寒い。ぼんやりと暖かなペルシャでの日々を思い出す。うだるような暑さの砂漠の国が、今の私には天国のように思い出される。この家で過ごした時の事。ジプシーで暮らしていた時の事。ロシアでの日々、ペルシャで、パリで、オペラ座の地下でアヤと暮らした日々―――。様々な思い出が頭をよぎる。私はもう、アヤに嫌われてしまったのだろうか―――。
 北風がまた私の身体を嬲り、私は寒さに身を震わせた。涙を拭って、また立ちあがる。どうにか、入れる場所を探さなければいけない。一階の窓を見て回れば、何処かに鍵のかかっていない窓、または外せる窓があるはずだ。何故、ピンの一つも持っていなかったのか―――。針金とはいかないまでもピンさえあれば、簡単に中に入れたのに! だが、無い物を思っても仕方がない。私はかき消されつつある自分の足跡に、ゆっくりとまた歩を重ねた。


 家の周りを一周して何処にも隙を見つけられなかった私は、最後の最後に駄目もとで裏口へと戻った。そこで私はついにそこの鍵が開いているのを見つけた。アヤがいつの間にか開けておいてくれたのだ。
「アヤ―――!」
 アヤの赦しに歓喜で胸が打ち震える。外に比べれば天国のように暖かな台所の床に疲労困憊した私は崩れ落ち、次に寒さで目が覚めたのは随分と夜も更けてのことだった―――。



<終>





念のため、こんな感じの間取りってことで…。






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- PatiPati (Ver 4.3) -