「ここも埃だらけ…。ほんっと掃除しないのね…」
そう溜息をついて、少女ははたきを握り締めた。ここはオペラ座の地下である。そこにひっそりとたたずむ館の主人ファントムは、芸術家が神経質か無神経かに大体分類されるように、あまり生理整頓に頓着しない性質であった。少女はそんなファントムに痺れを切らして、浴衣をたすきがけにしてハンカチで口を覆った完全掃除スタイルで、雑多なものの積み上げられた部屋に挑もうとしていた。
「溜息ついてても仕方ないから始めるか…。でもどこから手つければいいんだろ」
積み上げられたものの内訳は、本・ガラクタ・大小さまざまな箱等だ。少女はまず手近なものの大きさと分類の仕分けから始めることにした。
「本当なら窓開けて日光入れたいけど地下だからしょうがないよね…。湖近いし湿気はあるし、何かかびてキノコとか生えてそうでやだな」
キノコは無かったにしろ大量の埃と戦いながら、少女はなんとか部屋の奥まで道を作ることに成功した。
「…『冒険家がジャングルで遭難!』ってこんな感じなのかな」
道一本作るのに随分と時間がかかった気がして、少女は溜息をついた。ふと横に目をやると、埃っぽい布がかけられた大きな何かがあった。
「…何だろう」
少女はまた道を作りながらその前まで行った。
「あー、鏡かぁ…。そうだよね、あの人鏡嫌いみたいだし」
確かに他に置いてある鏡にも全て布がかかっているのを少女は思い出した。
「でも嫌って布かけるぐらいならなんでいくつも置いてあるんだろう。一個で十分なんじゃないのかな…」
とにかく掃除をしなければ。少女は鏡を覆っていた布を取った。
「きゃっ!?」
その瞬間、鏡に白いものが映って少女は悲鳴を上げた。
「何だ、わたしじゃない…」
自分に呆れるように溜息をついて、少女は鏡に手を伸ばした。
「あれ、でも何で? 映ってるわたし浴衣じゃない…」
鏡に映る自分は浴衣ではなく男物のシャツを着ている。
「あ、れ…貧血…?」
急に目眩がするような感覚に襲われ、少女は思わず目をつぶった。
「収まった…。疲れちゃったのかな」
その何ともいえない気持ちの悪い感覚が収まるのを待って少女は目を開けた。
「よし、休憩しよう。そろそろ3時だから間に合うようにお茶でも入れておこうかな」
少女はそう言うと、軽い足取りで部屋を出て行った。
私は今日も部屋に篭っている。作曲がしたいというのはもちろんあるが、ドアを開けておくといつ身の危険に晒されるか解らないからだ。作曲に集中しているときの私はいつもより周囲に気が回らなくなる。前はそこを衝かれて刺し殺されそうになったのだ。その後も少女はドアを開けると矢が飛んでくるようにボーガンもどきを作ってみたり(目測が外れて私の顔の横の壁にヒット)、紐を引っ掛けると上から鈍器が落ちてくるような仕掛けを作ったり(やっぱり私の横に落ちた)、私の家なのに気を抜くことができない。そのたびに罰を与えてはいるのだがまだ虎視眈々と機会を狙っているようだ。
最近は家の数箇所に『巣』を作っているようで、そのつもりになって少女を探しても見つけるまでに時間がかかることが多い。一度見つかった場所はすぐに片付けられ、また違う場所に巧妙に『巣』を作っている。
それは物の陰であったり、積み上げられたものを巧妙に利用して上からでは解らなくなっていたり、大きな箱の中だったりする。少女の体格が味方するのだろう。意外な場所に『巣』を見つけることが多い。少女を探している途中で見つけた『巣』の場所は絶対に覚えておき、次のかくれんぼの時に時間短縮をしている。…なんだか野生動物と暮らしているような気がするのは何故だろうか。
「そろそろ3時か…」
私は懐中時計を見て、しばし作曲の手を止めた。そのときだ。
「誰だ…?」
部屋のドアをノックされる音に、私は無意識に身構えた。今私以外にこの部屋のドアを叩くことができるのは少女しかいない。だが、少女がそんなことをするだろうか?きっとまた何かをたくらんでいるに違いない。
「ファントム」
…名乗った覚えは無い気がするのだが。だが声は間違いなく少女のものだ。私は恐る恐るドアを開けた。
そこにいた少女は別人だった。いや、確かに本人ではある。しかし着ている物は与えた覚えが無いし、何より私に対して微笑みかけている。それを『別人』以外の何と言えばいいのだ!
「もう3時でしょ。お茶にしよ?」
誰だこれは…。お茶の場所を教えた覚えはない。ジャポニスムな服から覗く首筋と胸元に私がつけた痕も無い。そもそもフランス語を喋っている…!
「あんまりがんばりすぎないで休憩しよ? ホットケーキも焼いたよ」
これが演技だとしたら世界一の女優になれるだろう。いつもと違う優しげな目で見つめられ、私は何もすることができなくなっていた。
「ほら、ホットケーキ冷めちゃうよ」
少女が私の手を握り、リビングへと歩き出した。私はされるがままそれに従った。
「今日こそは合格点もらうからね」
少女がいたずらっぽい笑みを浮かべて私を見る。そして真剣な顔をして手際よくロシア式の紅茶を淹れた。誰かに淹れてもらうのは随分久しぶりだ。
「…どう?」
私が一口口に含むのを待って、少女が問いかけた。
「…悪くは無い」
その真剣な顔に圧倒され、本当はまだまだであったが思わずそう言ってしまった。
「ほんと? やったぁ!」
心底嬉しそうに少女が私に微笑みかけた。やはりこれは私の知っている少女ではない。外見と声が全く同じ別人だ。だがそんなことがありえるのか…?
「ホットケーキは? 随分お砂糖減らしてみたんだけど」
自分が見ていないところで作られたものを口にするのは抵抗があったが、仕方ないので一口食べてみた。甘い。
「まだ甘いぞ…」
「そっか…。ごめんね、無理して食べないで」
すまなさそうに言う少女に奇妙な感覚を覚える。あまり今までに感じたことの無いこの感情はなんというものなのだろう…。
「…食べられないことは無い」
私は自分に嘘をつき、もう一口ケーキを口にした。
「ありがとう」
…誰かに例を言 われるのはどれだけ久方ぶりなのだろうか。はにかむ少女を見ながら私はなんともいえない気持ちになって、ソファにもたれかかった。
「ねぇ、大丈夫?なんだか調子が悪いみたいだけど…」
少女はそう言ってわたしの頬に触れてきた。この私が顔を触られるのを許すなど!いや、これはただ不意を衝かれたのにすぎない。決して触られて驚いたわけではない。
「ああ、大丈夫だ」
私は少女を見ないまま、そう答えた。すると少女は私の横に腰を下ろした。寄りかかってくる少女の重みと暖かさに奇妙な感情が強くなっていった。
「こうゆっくりしてるときが一番幸せ…」
…ものすごく居心地が悪い気がしてきた。いや、女は大人しい方がいいに決まっている。だが見慣れないものを見るという気味の悪さというか、予測していない行動をされる違和感というか、とにかく『大人しく笑う少女』というものに私は慣れる事ができなかった。
「ねぇ、今夜の夕飯どうするの?」
今食べたばかりなのに少女がそう訊いた。正直私はホットケーキで胸やけがしていたのであまり食事のことは考えたくなかった。
「いや、まだ何も考えてないが…」
そもそも一緒に食事を摂った事などないではないか。少女が私だと思っているのは誰なのだ?
「魚食べたい! この間作ってくれたパリっとしててソースのかかってるやつ」
間違いなくこれは私の知っている少女ではない!普段少女に何かを作ってやることなどない。私も少女も別に食事をしているのだから。だが目の前にいるのは間違いなく少女だ。顔も、声も、匂いも私は知っている。魔法か何かで誰かが化けているのでなければこれを本人というしかないだろう。
頭が混乱して考えが纏まらない。ちらりと少女を見ると私のことを寸分たりとも疑っていないような目で見ている。昔ペルシャでただ一人だけこんな目で私を見た者がいたことを思い出す。そんな目で見られたくなくて、私は話を切り上げることにした。
「わかった。魚だな」
「やった! ファントム大好き!」
言い終わるや否や少女が私に抱きついてきた。…他人とはここまで予測のつかないものだっただろうか。私の身体に回される細い腕も、押し付けられる胸の感触も、その温かさも全て知っているはずなのに、全くの別人のように思える。いつも敵意を向けられる相手に好意を見せられるというのはここまで妙な気分になるものなのだろうか?
「さて、そろそろ私は作曲に戻る」
「わかった。私もここ片付けたら掃除に戻るね」
私はそう言って少女を引き離すと、足早に部屋に戻った。ドアに鍵をかけて溜息をつく。
「一体、何だったんだ…」
少女の普段からは考えられないような行動と、数々の疑問点…演技とは到底思うことができなかった。演技で言葉が喋れるのならたいしたものだ。夢でも見ているのかと思ったが、少女が抱きついてきた感触はまだ生々しく私の身体に残っている。悪い気分ではないがとても奇妙な心持だった。
夕方、私は律儀に料理を始めた。自分でも何をしているのかと不思議に思ったが、何故かせずにはいられなかった。下ごしらえをして少女を探す。
「掃除とか言ってたな…」
鍵をかけていない部屋を一つづつ確かめる。4つ目の部屋を開けたとき、わずかだが寝息が聞こえた。
「またこんなところに巣を作りおって…」
私がそっと物をどかすと、その狭いスペースに少女が寝ていた。丁寧に毛布まで敷いてある。服はいつもどおり私のシャツで、胸元には間違いなく私のつけた痕がある。またフランス語を喋られたらどうしようかと思いながら、私は少女の頬を軽く叩いた。
「……―――!?」
少女は私を認識したとたん、いつものように後退った。…いつもの反応で少しほっとしたことは秘密だ。
「食事だ。来い」
私は腕を掴んで少女を連れて行った。いつものように散々暴れられ、食堂に連れて行ってもその警戒態勢を解こうとしない。私は仕方なく椅子に縛りつけ、料理を再開した。
「食べるがいい」
魚料理とパンを置いてやり、腕の戒めだけを解いた。少女はどうしていいかわからないと言ったように私と料理を交互に見た。
「冷めるぞ」
私はそう言って自分の分に手をつけた。少女は散々迷って、ようやく食事に手をつけた。フォークとナイフをきちんと使いこなしていることに気づく。西洋文明に馴染みのあるところから来たのだろうか? テーブルマナーも基本ぐらいは知っているようだ。
食事をし終わり、少女の縄を解く。少女は早口でありがとう、と呟いた気がしたがすぐに走って部屋から出て行った。精神的な疲労が大きいのだろう。今夜は少女に手をつける気にもならず、私は皿を片付けた。ふと見ると少女が昼に作ったホットケーキが置かれていた。一口食べてみるとやはり甘かったが、ほんの少しだけ疲れが和らぐ気がした。