クリスティーヌ、クリスティーヌ、クリスティーヌ…。この世で一番大切なもの。己の命すら投げ打っても惜しくは無いほどに愛した女の名。だが、彼女は行ってしまった。私ではない男の手を取って…。暖かな彼女の口付けに、私は身を切られるような思いで二人を赦した。同情でも、憐れみでもいい。確かにあの瞬間、彼女の心は私の元にあったのだから…!
 私を捕らえようとする警官隊を振り切るため、私は隠し通路の扉を開けた。よもやこんなところに通路があるなどとは誰も思うまい。万が一見つかったとしても、その扉の先は私しか足を踏み入れたことが無いであろう迷宮だ。大方迷った挙句に出られなくなるに違いない。松明を片手に、私は無限に続くような暗闇を一人進んだ。地上に近づくにつれ、寒さが増してゆく。だが彼女が触れた部分だけはいつまでも暖かかった。
 ここを出たらクリスティーヌとの新婚生活を始めるために手配しておいたアパルトマンに向かおう。『オペラ座の怪人』がそんな場所にいるとは警官隊も気づかないだろう。彼女との新生活を始めるつもりだった部屋に一人で住まわねばならないとは、何と言う皮肉だろうか。それも追われる身として息を殺しながら…。
 一歩踏み出した私に、暗がりから何かが体当たりをしてきた。それはあまりにも突然で、私は咄嗟に倒れこまないようにするのが精一杯だった。
「何だ、お前は…!」
 松明をかざして見るとそれは小さな少女だった。年のころは12、3といったところだろう。こんなところに人がいるわけもない。だいたい迷い込めるような入り口ではないのだ。だが私が驚いたのはそこではない。少女はアジア人だったのだ…!
「…何故こんなところにいる」
 松明に照らされる私の素顔に少女はひどく驚いたようだったが、その顔がどんどん泣き顔になってゆく。ずっと一人でここを彷徨っていたのだろう。警官隊が追ってこられないのは解っていたが、あまり時間を取られるわけにもいかない。だがここに少女を置いていく気にも何故かなれず、私は泣いている少女の手を取り、歩き始めた。
 思っていた通り、外は雪だった。もう夜も遅い。だが燃え上がるオペラ座のおかげで夜空は禍々しい赤に染まり、人の目も全てそちらに向かっていた。私の今までの人生と愛の全てをかけたオペラ座がなくなってゆく。もう、私に帰る場所は一つも残されていない…。だが、私にとって一つ計算外だったことがあった。地上への出口にマダムがいたのだ。
「…その子はなんですの」
「地下で拾ったのだ。置いてくるわけにもいかなかった」
 ようやく泣き止んできた少女を見てマダムが言う。少女は赤い夜空に酷く不安げな様子だった。
「…まあいいわ、今はそれどころじゃありませんもの。さあ、エリック、この外套を羽織って。向こうに馬車を待たせてあります」
 マダムの差し出した外套を頭から羽織り、私達は辻馬車に乗り込んだ。御者が怪しんでいるようだったので、多めに金を渡した上でアパルトマンより少し離れた所で馬車を降りた。
 ここが私達の愛の巣となるはずだった部屋。今は明かりもなくただ冷え切っている。マダムは暖炉に火を入れ、私にウィスキーを勧めた。
「ありがとう、マダム。…ところで何故あの場所に?」
「あなたが前に言っていたことを思い出したの。ムスリム街に通じる迷路を作ったって言ってたことをね…」
 そういえばいつかそんなことを言ったような気もする。
「貴女にはどこまでも迷惑をかける」
「…本当に。貴方は手のかかる弟、ですもの」
 そう言ってマダムは少し誇らしげに笑った。
「ところで、あの子はどうなさるおつもり?」
 マダムがちらりと少女を見る。少女はフランス語がわからないようで、ただソファに座っていた。本当に何時間もあの迷宮を彷徨っていたのだろう。服のそこかしこが汚れており、丈の酷く短いスカートから覗く膝頭はどちらもすりむいて血が滲んでいた。
「放っておくわけにもいかんだろう。彼女の国の大使館にでも引き渡せばいい」
「どこの国なのかはわかりますの?」
「顔立ちを見るに、大方清国か日本辺りではないだろうか」
 私がそう言ったとたん、少女が反応を見せた。
「…にほん?」
「日本、と言ったのだ。解るのかね?」
「にほん! にほん!」
 少女がその言葉を繰り返す。
「…どうやら決まりのようですわね」
「ならほとぼりの冷めたころにでも、よろしく頼む」
 その後私達はまんじりともせずに、夜を明かした。


「やっぱりものすごい騒ぎになっていますわ。外に出ないほうが身のためよ、エリック」
 昼過ぎ、買い物をしてきてくれたマダムが言った。当分の食料品と少女の衣服。…そして酒だ。
「何でも足りないものがあったら言ってちょうだい。また一週間ほどしたら来ますから」
 そう言ってマダムは帰っていった。預かれないからここに置いてちょうだい、と少女を残して。他愛も無い話をする相手がいなくなり、私は酒に溺れるしかなかった。苦い液体の中にしか、つかの間の幸せを見出すことができなかった。ソファで眠る少女を置いて、私は酒と共に寝室に閉じこもった。クリスティーヌがいるはずだった寝室に一人きりだなんて、本当にお笑い種だ。だが、私は彼女を恨みはしない。あの男だって恨む事はない。私は一人ひっそりと、彼女を想い続けて朽ちてゆくのだ…。
 どのぐらいそうして寝室に篭っていたのだろう。なんとなく部屋から出てみると、少女は林檎を剥いていた。少女は皿に盛った林檎を差し出した。
「…いらん」
 とても何かを食べる気にはならない。それよりも服の汚れが気になって、私は少女にマダムの買ってきた服を手渡した。
「着替えろ。その丈の短い服では風邪をひくだろう」
 少女は少し戸惑っていたようだったが、私から服を受けとると一番手前の部屋のノブに手をかけた。
「入るな!」
 思わず声を荒げてしまい、少女の体が強張る。
「あ、いや…そこではなく向こうの部屋を使え」
 少女は私の怒号に少し怯えたようで、大人しく私の指示に従った。そう、そこはクリスティーヌの部屋になるはずだった。そこを開ければ彼女のために私がそろえた衣装が入っている。彼女以外の誰かにそこを使わせる気は無かった。
「…クリスティーヌ…」
 とても諦められるわけがない。だが彼女のためには私が身を引くのが一番いい。こんな化け物のような顔で、血に塗れた手をした男は天使のような彼女にはふさわしくない。それは解っている。解ってはいるがこの想いを断ち切るのは到底無理な話だった。私はまた部屋に戻り、グラスに酒を注いだ。


 幾日そうしていただろう。私は酒以外のものを口にはせず、少女も勝手に何かを食べているようだった。この酒びたりの生活が身体にたたり始めたようで、夜半から胃の痛みが激しくなってきていた。このまま死ぬなら死んだっていい。私はまた酒をあおり、ベッドに倒れこんだ。
 少し眠ったようだった。ノックの音で私は目を覚ました。
「何だ」
 返事をすると少女が扉を開けた。手には水差しとグラスの乗ったお盆を持って。
「…そこに置いておいてくれ」
 サイドボードを指差すと、少女はそれに従った。少女の着ている木綿のワンピースが、昔クリスティーヌが着ていたものと似ているような気がする。そう考えるとなんだか酷く残酷な気分になって、私は部屋を出ようとする少女の手首を掴んだ。
「――!」
 少女は短く悲鳴を上げたが、私は構わずに少女をベッドに引きずり込んだ。
「クリスティーヌ…」
 そう言って少女を見て、私は愕然とした。髪の色も、肌の色も、何もかもが彼女とは違う。やはり誰もクリスティーヌのかわりにはなり得ないのだ…!
「…っ…。…クリスティーヌ、クリスティーヌ…!」
 苦い思いが涙と共に溢れてきて、私は少女の上に倒れこんだ。どれほどそうしていただろう。最初震えていたはずの少女が、そっと私の右頬に触れた。その手がクリスティーヌと同じように暖かくて、私は思わず少女を抱きしめた。少女は何も言わずに、私の髪を撫でていた。
 マダムは最初からこうなることを見越して少女を残していったのだろうか。少女のぬくもりがひどく優しく感じられ、私はまた泣いた。