その日も普段どおり、何も無い静かな一日のはずだった。私はいつものようにオルガンに向かい、私の人生をかけた作品、『勝利のドン・ファン』の作曲に勤しんでいた。
「ふむ…やはりここはこの音のほうが響きがよいな」
 私は赤インクでその借用和音を五線紙に書き写した。私にとってこの世で唯一心安らぐ時。誰も居ないこの世界に、私の生み出した音だけが響く。生れ落ちたときから、この醜い顔のせいで母にすら愛された覚えは無い。人や世間から逃げ回り、やっと私が腰を落ち着けることができたのがこのオペラ座の地下だった。この生活を乱すものは何人たりとも容赦はしない。地上から私の棲家までの道には数多くの罠を張り巡らせてある。ここまで辿り着くには、私の案内が無ければ余程悪運の強い人間でも無理な話だろう。
 誰にも咎められず、私の創り出した芸術の中だけで過ごしたい。誰かに関わり、この顔のせいで味わってきたような思いをするのはもうたくさんだ。私はここで独り朽ちていく。この呪われた生が終わる最後の一瞬まで、静かな余生を送りたい。それだけが、私の望みだった。
 その時だ。突然湖から何か重いものが落ちるような水音が聞こえた。
「ふん! 身の程知らずの侵入者か…!」
 招いた覚えも無いのに地下へと歩みを進めた愚か者。大方最後に気を抜いて、湖に引き込まれたのだろう。だが念には念を入れ、私はマントの中に縄の感触を確かめると、急いで湖へと走った。


 湖の真ん中に人影が見える。どうやら泳いで…いや、溺れていると言った方が近い表現だろう。水面に黒い頭が浮き沈みを繰り返している。徐々にではあるがこちらの岸へと近づいてくる侵入者を、私は待ち構えた。
 ようやく侵入者が岸へと辿り着いた。ここまで泳ぎ着くのに体力をほとんど使い果たした様子で、大きく肩で息をしている。
「何だこのガキは…?」
 私は驚いた。侵入者は子供…しかも女性だったのだ。年のころは12、3。それもこの国の者ではない。黒い髪に黒い瞳、そして象牙色の肌をしている。それに一体この恰好はなんだ? 上着とブラウス、リボンタイだけ見れば男装にも見えるが、穿いているスカートの丈はとても短い。足を隠さないのならスカートの意味など無いと言うほどに。このような恰好はついぞ見た覚えが無かった。
「お前は何者だ?」
 返答次第ではすぐにその細い首にパンジャブの輪がかけられるように、右手に縄を隠し持ったまま私は聞いた。侵入者はまだ荒い息を吐きながら震えている。10月のパリは肌寒い。おまけに地底湖に浸かっていたのだから寒くないわけが無い。彼女は息を整え、やっと口を開いた。
「――――――――――――――…」
 聞いたことも無い言葉だ。それに湖には小船も見当たらない。こやつを最初に見つけたのは湖の真ん中なのだから、小船が無くては湖を渡れるわけも無いだろう。泳ごうとしていたなら音で判るだろうし、何よりこやつが泳げないのは一目瞭然だ。ならば一体、どこから侵入してきたのだ…?
 その後私が何を聞いてもこやつは理解ができぬらしく、ただ怯えた目で私を見るだけだった。ふと湖を見ると何かが岸に漂着している。近づいて見てみるとそれは鞄だった。見たことも無いデザインの見たことも無い布でできていたが、多分そうだろう。
「これはお前のものか?」
 理解はできないだろうと思いつつも聞いてみる。そのとたん彼女は私の手から鞄を奪い取り、半狂乱になって中身をあけた。零れ落ちてきた楽譜と思しきものは水浸しで、もう到底使えそうには無かった。入っていたのはモーツァルトとベッリーニの歌曲集に、なんだか訳の解らないガラクタが数点。特に私に害をなしそうなものは入っていなかった。
 こやつを、どう処分するべきか。殺すのは簡単だろう。死体は湖に投げ捨てれば流れがセーヌ川へと運んでくれる。この地下五階へたどり着くというパンドラの箱を開けた、お前が悪いのだよ―――。
 子供を殺すのは少々忍びないとも思いながら、私はこの生活を守るため気づかれぬように縄を手に取った。せめて苦しまぬようにしてやろうと縄をかけようとした私よりも一瞬早く、少女が私を振り向いた。
 私は驚いて動きを止めた。気づかれたと思った。彼女が涙で潤んだ目を私に向ける。私を殺すの? と、問いかけられているようだった。過去に何度も命乞いをする相手を殺したこともある。それなのに今の私は、ただ立ちすくむだけだ。寒さに震え蒼白な顔をした小柄な少女に、私は為す術が無かった。地上のオペラ座では私を恐れぬものは誰もいないというのに、だ。
「…仕方が無い」
 私は溜息をつき、自分のマントを少女に被せた。これ以上彼女の瞳に見つめられるのが少し怖かった。彼女の漆黒の瞳は、昔見殺しにしてしまったペルシャの奴隷女に少しだけ、似ている気がした。
 少女に手招きをして館に足を向ける。少女は少し躊躇して、鞄に物を詰めると私のあとに付いてきた。少女をバスルームへ案内し扉の外で様子を伺う。水音を確認し、私はそこを離れた。


 自分の居室へと戻った私は、ぐったりとベッドに腰を下ろした。
「…何故招き入れてしまったのだ…」
 自分でも解らなかった。唯一つ解っているのは、私があの少女を殺せなかったということだけだった。私の胸中を様々な思いが渦巻き、脳裏には私を最後まで拒んで死んでいった奴隷女の事が浮かぶ。あの時私が無理矢理にでも行為に及んでいれば、彼女は死ななかったのだろうか…? いや、全ては済んだ事だ。今更思い悩んだところでどうもならない。それよりも今はあの異国人の子供をどうするかの方が大事だ。
「やはり、殺すしかないか…?」
 私の世界を守るため。私の生活を乱されないため。人間と言うものは、他人の踏み込んで欲しくないところまで平気で知りたがる。人が隠すものは見たがり、そして自分と少しでも違えば謗りの対称にする。もう罵声と侮蔑に晒されるのは二度とごめんだ。あの少女だってそうだろう。私の仮面の下を見たがり、そして私の醜い顔に恐怖するに違いない。
 だがまたあの目で見つめられたら…? 私には少女の首に手をかけることができるだろうか? いや、また私の手は竦んでしまうに違いない。どうすれば…。
「…毒薬が、あるじゃないか…」
 私の頭に妙案が浮かんだ。飲み物にでも混ぜて飲ませてしまえばいい。そうすれば私も見つめられることはないし、少女に死の恐怖を味あわせることも無い。
「そうだ、それがいい…」
 私は重苦しい気分を振り払うかのようにそう言うと、少女のところへ着替えを―――といっても私のシャツだが―――を持っていった。脱衣所に服を置き、私はその足で彼女の最後の晩餐を作るためにキッチンへと向かった。


 半刻近くが経っただろうか。私はキッチンへと向かってくる小さな足音に気づいた。きっと湯から上がったのだろう。おどおどとキッチンへと入ってくる少女は、やはりどこか怯えていた。私のシャツを持て余し気味に、袖を折って着ている。蒼白だった頬にも赤みが差し、怯えてはいるが震えてはいなかった。濡れた髪から一滴、水が肩へと滴り落ちる。私が怖いのか目を合わせようとはしない。
「…ありがとう」
 少女は聞きなれない訛りでそう呟いた。その言葉を聴いた瞬間、私の胸に太い杭が刺さったような衝撃が走った。誰かに礼を言われたことなど久しくなかった。とうの昔に忘れてしまったような痛みが胸を刺す。―――苦しい―――…。私はくらくらする頭の中を整理できず、混乱したまま彼女に椅子に座るように指示した。
 もう少し。この毒薬を飲ませてしまえばもう少しで私の日常は戻ってくるのだ…。スープを皿によそい、パンをバスケットに入れて机の中央に置く。私は少女に食べるように指示した。彼女はまた「ありがとう」と言い…今度は私の目を見て微笑んだ。よほど腹が減っていたのだろう。少女はすぐに夕食を平らげた。そしてまた私に礼を言い、微笑んだ。


 そう、私は結局彼女を殺すことができなかった。何故なのかは自分でも解らない。彼女を客室に案内し、私は自室へ戻って溜息をついた。あの少女をどうにかしなければ、私はこの平穏の地を奪われてしまうかもしれない。だが彼女を殺すことは私にはできない…。
「手元に置くしかないのか…」
 少女を手元に置き常に監視する。外と連絡を取るようなことがあれば―――最も私の案内なしには地上へ出ることもできないだろうが―――そのときこそ非情な心を持って彼女を殺せばいい。それしか今の私には手立てが残されていなかった。
 先ほどの不思議な胸の痛みを思い出しながら、私の意識は眠りへと引き込まれていった。