眠れなかった。己の中の悪魔が怖くて、眠る事ができなかった。私は悪魔に抗いきれず、いつかアヤを傷つけてしまうかもしれない。それを避けるためにはアヤに触れないのが一番いい。だが、アヤに触れていないのは、怖い。アヤに触れて、アヤが確かに私の傍に居るのだと確かめなければ怖くて仕方が無い。アヤを傷つけることは出来ないし、アヤに触れないでいる事も出来ない。―――もう、どうしていいか判らなかった。
 ベッドの上で何時間も悩みこんでいた私の耳に、ドアを叩く音が聴こえる。慌てて時計を見れば、とうの昔に朝になっていた。
「ファントム、起きてる?」
 アヤの声。急いで仮面とウィッグを着け、ドアに向かう。いきなりドアを開けられては堪らない。少し痛む頭でドアを開けると、真っ先にアヤの笑顔が目に飛び込んでくる。
「…どうした」
「朝ごはんだよ! もうすぐできるから、呼びにきたの」
 珍しいこともあるものだ。いつもとは逆に、アヤが私を起こしに来るなんて。
「…お前、身体は?」
 初めての夜を思い出せば、アヤの身体が気にかかる。あくる朝は起き上がれもしなかったのだ。私がそう訊くと、アヤの顔が蝋燭の炎でも判るくらいに赤くなった。
「だから、身体はだいじょうぶだって…」
 羞恥で伏目がちに、アヤが答える。
「とにかく! もうすぐできるから早く来てね!」
 私に二の句を繋げさせまいとでもするかのように早口でそう言い、アヤは小走りに駆けて行った。アヤの身体が無事であることに安堵しつつ、私はぼんやりとした頭を振った。


 鼻腔を擽る珈琲の匂い。テーブルの上には作りたてのスクランブルエッグと、焼いたベーコンと、パンとジャムが並んでいる。
「コーヒー淹れるだけだから、ファントムは座ってて?」
 アヤにそう促され、私はぼんやりと椅子に座りながら朝食の支度をするアヤを見ていた。朝だ。確かに朝だ。だがここは地の底であり、差し込むべき朝日など微塵も無い。昼も夜も変わらぬ、蝋燭だけの明かり。テーブルの料理を見なければ、朝か夜かも判らない。昔は今が何時だろうがそう大して気にも留めなかったのに、今は規則正しい生活をしているのだと思うと、少し可笑しくもある。
「はい、ファントムのコーヒー」
 アヤが前よりは手馴れた手つきで私の前にカップを置き、私の目の前に座った。何時もと同じように食事に手をつけるアヤをぼんやりと見ていると、アヤが私が食事に手をつけていないことに気付いた。
「…ひょっとして、食欲無い? だいじょうぶ?」
「いや、何でもないよ」
 普段と何も変わらない朝。だが私の心は晴れる事は無い。アヤを裏切ろうとした、その事実が重く圧し掛かってくる。アヤに気取られないように食事に手をつけたが、あまり喉を通らない。アヤの態度が普段どおりなのが余計に心苦しい。アヤが笑いかけているのは、心根まで腐った悪魔なのだ。ただ過ぎ去る事を待つような朝食は、アヤと何を話したのかも良く覚えては居ない。
 毎日しているレッスンも、今日ばかりはあまりアヤの近くに居たくは無かった。だが、そんな事をアヤに言うわけにもいかない。例え体調が悪いと嘘をついたとしても、アヤは私の世話を焼きたがるだろう。どちらにせよ、それは得策ではない。それならば平静を装った方がましだった。
 アヤと仲違いをした後から、普段どおりのレッスンではなく好きなものを歌わせるようにしている。日数を開けてしまったので身体を慣らすのが目的だったが、好きな曲を歌えるということでアヤは嬉しそうだった。私の膨大な楽譜の山から、毎日のように何かを引っ張り出してくる。昨日はモーツァルト、一昨日はつい最近発表されたばかりのフォーレという作曲家の曲だった。私個人の好みは置いておいても、アヤにやる気があるのは好い事だ。
 アヤが今日持ってきたのは、随分と古い曲だった。私のオペラ座バレエ団とも関係の深い、ジャン=バティスト・リュリと同じぐらいの年代の作曲家、ヘンリー・パーセルの曲だ。歌曲ではなくオペラのアリアになる。もっとも、『魔笛』や『アイーダ』のようなフル・オペラではなく、セミ・オペラという一人何役もこなす初期のオペラの曲。歌劇『オイディプス』からのアリアだ。三声で奏でられる伴奏が3小節。バロックそのものの音がする。
「Music, music for a while ―――…」
 アヤの声には少し低い曲。あと3度程高いほうが、アヤの声の魅力がよく出るのにと思う。しかし―――…。―――パーセルの曲は主に短調が多い。よりにもよってこんな日に…と思う。気分が沈む一方だった。
 どうして私はこんなにも意思が弱いのだろう。ことアヤに関しては我慢が効かない。アヤを見ていると自分を抑えられなくなってしまう。少なくとも、昔はこんな人間では無かった筈なのだが。アヤに触れたい。アヤに口付けたい。アヤを抱きしめたい。その思いが止められないのだ。このまま流されては、アヤを傷つけてしまうかもしれないのに。
 ―――私は今まで、色々なものを諦めてきた。どれも手に入れようとしても私の手から零れ落ちてしまうものばかりで、諦めざるを得なかった。私の名を残すようなものを発表する事も、安住の地も、―――母の愛も。どれも、諦めざるを得なかった。だが、昨夜アヤが居なくなる事を思うと、駄目だった。アヤのことだけは諦め切れなかったのだ。アヤがいずれ居なくなってしまう事はわかっているのに、どうしてもアヤだけは諦められない。そして、万一アヤが私の元を離れるとなった時に、いや、離れた後でも私を忘れないで居て欲しいとも思うし、逆に私を嫌いになって私を忘れてしまった方がアヤの為だとも思う。アヤが居なくなるのは嫌だ。だが、もしアヤが私の元を去ると言うのなら、笑顔で送り出してやらなければいけないのだろう。行くな、という言葉を胸に秘めたままで。もう、どうすればいいのかが判らない。欲望に流されるままアヤに触れていたい。だがその思いが強すぎて、アヤを傷つけてしまうかもしれない。アヤの為だとは思うが、アヤに嫌われるのはやはり嫌なのだ。私が選ぶべき最良の道は、どうやっても見えてはこなかった。


「…ファントム?」
 アヤが私を呼ぶ声で我に返る。
「どうした?」
「あの、歌い終わったんだけど…?」
「!?」
 いつの間にか、曲が終わっていた。無意識のうちに伴奏だけはしていたらしい。
「ねえ、本当にだいじょうぶ? やっぱりちょっと変だよ?」
 アヤが私の元に駆け寄ってくる。
「熱は無い? それならレッスン止めて寝てて?」
 心から私を思う、心配そうな目。私は、お前が心配する程価値のある男では無いのに。
「ね? 一日くらいレッスンお休みしてもだいじょうぶだよ。ちゃんと譜読みはしておくから」
 アヤの気遣いが痛い。だが、それと同時にアヤが愛しくて仕方が無い。今アヤに触れたら、また私の中の悪魔が目を覚ますだろうか。それでも、目を離した次の一瞬にアヤが消えてしまいそうな気がして、アヤの存在を確かめなければ気がすまなかった。
 恐る恐る、アヤの両手を握る。―――胸がざわめくが、悪魔の気配は感じない。
「…アヤ…」
「きゃぁ!」
 思わずアヤを抱き寄せ、きつく抱きしめた。何時もと同じ、華奢で小さな身体。確かに温かく、アヤがここに居るのだという感触がする。何もいらない。何も求めない。アヤが居れば、ただそれだけでいい。
「ファントム…?」
 愛しい。堪らないほど愛おしい。アヤの全てに触れていたい。私の記憶に焼き付けてあるアヤと、寸分の狂いも無いように確かめていたい。
「アヤ…」
 ―――願わくば、二度と悪魔が現れぬように。
「…愛している…」
 何があっても、この言葉だけは真実なのだ。例えアヤが居なくなってしまっても、私の心が変わることは無いだろう。いつか、私はまた独りになってしまうだろう。今腕の中にあるぬくもりが、永遠に掻き消えてしまう時がくるのだろう。その時が、私たちにとって覚悟の上なのか、ふいに訪れるものなのかは判らない。覚悟はして居ても、割り切れない事には違いない。もしそうなったら、私はどうするのだろう。今までアヤと過ごしたこの地底で、また独りで生きていく事など出来るのだろうか。
 背筋を寒いものが走り、私はまたアヤを抱きしめる腕に力を籠めた。
「…わたしも、あなたが好き」
 小さな、アヤの声。
「ずっとこうしていたいぐらい好き。何があっても好き。全部好き」
 アヤが私の腕に手を回す。
「あなたが、大好き」
 優しい言葉。不思議とアヤの言葉なら全てが信じられる。声を聞くだけでも胸が掻き乱され、また楽の音の様に耳から私の官能を刺激する。
 ずっとアヤに歌を教えているのは、手慰みだと思っていた。アヤに才能があると言うのもあるのだけど、その才能を私が伸ばすことに快感を覚えているのだと。だが、それは間違いだったのだと今なら思う。私は単純に、アヤの声が好きなのだ。岩屋に響く歌声も、私を呼ぶときの明るい声も、少し笑ったときの転がるような声も、私の下で漏らす声も。私を好きだと言ってくれる声が、堪らなく愛しいのだ。


「…レッスンを、続けよう」
 唐突に、アヤの歌が聴きたくなった。アヤはまだ何か言いたそうではあったが、私に促されて大人しくもとの位置に戻った。
「もう一度、最初から…」
 アヤの歌を少しでも引き出してやれるように鍵盤を叩く。
「Music, music for a while ―――…」
 アヤの澄んだ声が岩壁に響き、空へと溶けていく。アヤの歌を聴いていると安心する。このときばかりは、悪魔の気配など爪の先程も感じる事は無い。


   暫し楽の音に耳を傾け、全ての悩みを忘れ去ろう
   痛みは奇跡のごとく消え去り、軽薄な娯楽など見ることもせず
   女神アレクトが死者達を、永久の枷から解き放つまで
   彼女の頭より蛇が落ち、手から鞭が滑り落ちるその時まで


 アヤの歌は、オルフェウスの竪琴の音のようだ。だから悪魔よ、眠りから目覚めるな。私はただ、平穏な日々が欲しいだけなのだ。アヤと私の二人しか居ない、平穏な日々が。
 歌い終わったアヤが私を見てにっこりと微笑む。私はそれを見て、少し複雑な気持ちで微笑み返した。