僕は今、海の上でこの日記を書いている。出航するまでが随分と慌しく、久しぶりの日記になってしまった。…日記を書かなかったのはそれだけではないが。日本からの手紙をもらって、色々な事がありすぎたのだ。父上が倒れるだなんて夢にも思っていなかった事、下宿を引き払わなければならなかった事、港のある馬耳塞に移動して、乗船券を手配しなければならなかった事、―――綾さんと別れねばならなかった事―――。


 僕が手紙を受けとった二日後、綾さんが出て行った。
 あの男と対峙した次の日、綾さんは泣き腫らした目のまま仕事へ出かけて行った。結局僕は何もできやしなかった。勢いに任せてしまうつもりだったのに、泣きじゃくったままの綾さんにどうしても手を出す事ができなかった。僕はどうしようもない気持ちのまま、綾さんを抱きしめて夜を明かした。
 どれ程時間が経ったのか、ふと泣き声が止んだことに気付くと、綾さんは泣き疲れて寝てしまっていた。僕はその頬に、そっともう一度口付けた。それだけだ。あの男に心を残したままの綾さんに僕が出来たのは、たったそれだけ…。次の日帰ってきた綾さんは僕に仏蘭西人が雇われて解雇された事、そして―――あの男の許に戻る事を告げた。その顔は家を出たときよりもずっと嬉しそうだった。今しか無いと思うの、と綾さんは笑っていた。僕はそのとき完全に敗北を悟った。僕では綾さんにあんな嬉しそうな顔をさせることはできないだろう。無理にでも連れ帰ろうかとも思っていたけれど、それが綾さんのためかは判らない。それなら、綾さんがずっと笑顔でいれる場所にいるほうがいいはずだ…。
 その夜、僕たちは語り合って夜を明かした。綾さんが明日には僕の元から居なくなってしまうのは解っているのに、昨晩よりもずっと穏やかな気分だった。最後だから、と食堂の女将が持たせてくれたほんの少し豪華な食事とぶどう酒で、僕らは取りとめもないことを朝まで話した。今までのお給金を置いていくという綾さんをなだめてそれを持たせ、醤油もあげた。帰国する僕が持っているよりもずっと有意義に使ってくれるだろう。
 昼になり、僕たちは重い腰を上げて部屋を出た。ただただ無言で、セーヌ川沿いを歩いていく。綾さんを帰したくなかった。行くな、と言って引き止めたかった。でも僕にはどうすることもできないのだ。綾さんの心が何処にあるのか、知ってしまった僕には―――。


「あの、もうここで充分です」
 ドゥーブル橋の袂で綾さんが言う。確かに、これ以上一緒にいては別れが辛くなってしまう。綾さんと別れたくは無い。だが、仕方の無い事なのだ―――。僕は心のうちを顔には出さず、右手を差し出した。
「…気をつけて」
「透悟さんも、無事に日本へ帰れるように」
 綾さんが僕の手を握る。小さく、温かな手。しっかりと握手をして、綾さんは歩き出した。何度も何度も僕の方を振り返り、小さくお辞儀をしたり、微笑んだりする。僕は綾さんが見えなくなるまで見送った。
 それからの日々は怒涛のようだった。部屋を引き払うにも旅券を手配するのも一苦労で、僕が仏蘭西を出発できたのは手紙を受けとってから一月近くも後の事だった。だが、忙しいうちはまだよかった。こうしてすることが何もなくなってしまうと、浮ぶのは綾さんのことばかりだ。僕はもう、巴里には戻って来られないだろう。そしてきっと日本でも巴里のことを思い出すのだろう。巴里での忘れえぬ日々を、ほろ苦い思い出と共に。