…何度、時計を見たことだろう。そして先程からちっとも進んでいない時計の針に、何度溜息をついただろう。やれるだけのことはした。もし、これでアヤが帰ってこなくても、心残りは―――無い訳が無い。だが、私にはもうどうすることも出来ない。私がアヤを追い出してしまったその日、とうの昔に賽は投げられていたのだから。私の運命を握る者はただ一人、アヤだけなのだ…。
 ここのところろくに寝ていないせいでぼんやりとする頭を振り、また溜息をつく。アヤがいつ帰ってきても出迎えてやれるように、起きていたかった。ああ、だが本当にアヤは私を赦してくれるのだろうか? あんな酷い言葉を投げつけた私を…! もしアヤが帰ってこなければ、私は自分の生が終わるその日まで、アヤを想ってこの地下で過ごすのだろう。アヤが居てくれたはずのこの暗い牢獄に、独りきりで。考えただけで気が狂いそうだった。だが、それは自業自得と言うものだ。アヤの手を離してしまったのも、アヤを傷つけてしまったのも全て私なのだから―――。
 もっとアヤのことを考えてやればよかった。アヤが祖国の人間に会ってどれだけ嬉しいかを考えてやればよかった。話し込んだって無理はない。友人になるのも当たり前だ。そして、恋人であろうとも無理矢理身体を奪うような事をすれば怒るだろう。出て行けと言ったのも私だし、そうすれば行き場の無いアヤはただ一人の知り合いを頼るしかないだろう。本当に、全て私が悪いのだ…。
 ああ、そしてアヤは本当にあの男に身体を許したのだろうか? アヤが許さなくても、よもや無理矢理されたりはしていないだろうか…? 十日以上も一緒にいて、間違いが起こっても不思議ではないのだから。例えもし間違いが起こっていたとアヤの口から聞かされても、私は多分アヤを赦すだろう。アヤがアヤでいてくれるなら、きっとそれだけで私には充分すぎるほどの赦しなのだ…。
 アヤを愛していたはずなのに。ずっと大事にしてやりたいと思っていたのに。だがあの時、私はアヤが私以外の人間の事を考えているのが嫌だったのだ。いや、ずっとそう心のどこかで思っていたのだろう。『私を捨てるのではないか』、と。アヤが愛を注ぐ相手が、私でいて欲しかった。私だけでいて欲しかった。アヤがずっと、私だけを愛してくれればいいと思っていた。そしてアヤも、私だけを見ていてくれると思っていた。私にとってアヤが全てであるように、アヤも私だけが全てだと。
 ふと、古い友人の…私にとってただ一人友だと言える人物の顔が浮ぶ。彼なら今、私に何と助言をしてくれるだろう? こんな私を見て、彼は笑うだろうか? それとも………。


 その日、日付が変わるまで待ってみても、アヤは戻ってはこなかった。


 深夜まで待っていたが、いつの間にか眠り込んでしまったのだろう。ふと目が醒めて置時計を見れば、夕刻に差しかかろうとしていた。ここ数日の疲れで、随分深く眠り込んでしまったようだった。眠気をこびり付かせたまま身体を起こすと、昨日と全く代わり映えのしない居間。そしてただ一つ昨日と違うもの。―――眠っていた私の身体に掛けられていた毛布。
 私はソファから飛び起きて、部屋を出た。廊下に漂う暖かな食事の匂い。走って台所に向かえば、湯気の向こうに見える人影。
「アヤ…!」
 夢だろうか。私の願望が見せた幻ではないのだろうか。ああ、だが私の叫び声に振り向いたのは、紛れも無くアヤだった。
「…もうすぐ、できるから」
 少し照れくさそうに目を伏せ、私にそれだけ言うとアヤはまた、何かを煮込んでいる鍋に向き直る。私はふらふらとアヤの所までゆき、そのまま彼女を抱きしめた。久しぶりのアヤの匂い。その柔らかさと温かさは私の身体が覚えている。紛れも無く、私のただ一人の恋人の感触―――!
「…ほら、危ないよ?」
「アヤ」
「もう少し煮込んだらできるから」
「アヤ」
 私が少し腕に力を籠めると、アヤは観念したように鍋の様子を見るのをやめた。
「………もう、帰ってはこないと思っていた…」
「だって…そんなにすぐは帰れないでしょう? 仕事先にも、M.サカガミにも話をしなければいけないし」
「いや、あんなに酷い事を言った私を赦してはくれないと思っていた…」
 私がそう言うと、アヤは溜息をついた。
「…それは、怒れたけど…でも、ちゃんと反省して、謝ってくれたからそれでいい」
 アヤがそっと私の腕に触れる。
「わたしも、いけないところはあったし、怒って出てっちゃったし…ごめんなさい」
「いや、悪いのは私のほうだ。お前の立場を解ってやれなくて…」
「今日だって早く帰ろうと思ってたけど、お買い物で手間取ってこんな時間になっちゃったし…」
「…そんな買い物などしなくてよかったのに」
「だって…ファントム、ちょっと痩せたでしょう? だから何か美味しいものを作りたくて…」
 ああ…、本当に私は、何と優しい恋人を突き放してしまったのだろう…。そんないじらしい事を言ってくれるアヤが嬉しくて、心の底から愛しかった。私の視界がぼやけるのは、湯気のせいだけではないに違いない。
「…ありがとう……」
「だから、ね? こんな話はおしまい! 座ってて?」
「…うん…」
 私がアヤを解放すると、アヤは私を振り返り、初めて笑顔を見せてくれた。
「今日のは自信あるんだから!」
 そう言って笑うアヤの額に軽く口付ける。アヤはくすぐったそうに、少し笑った。


 久しぶりのアヤとの食事。十日ちょっとアヤが居なかっただけなのに、もう何十年も独りでいたような気さえする。今夜の夕餉は見たことのない色と、初めて嗅ぐ匂いの物。具はじゃがいもと豆と肉。全体的に色が黒っぽいのが気にかかるが、不快な匂いではない。 「これは…」
「え、日本料理だよ?」
「見覚えの無い調味料のようだが…」
「多分それ、ショウユ」
「は?」
 何だそれは。
「M.サカガミが日本に帰るからってくれたの。大豆を醗酵? させて作ってたような気がする」
 あの男は帰国するのか…。よかった。いや、それよりも私は未知の料理に手を付けなければいけないわけだが…。
「ずっとショウユがあればファントムにも日本料理を食べさせてあげれるって思ってたの」
 こんな優しい事を笑顔で言ってくれる恋人の料理を、食べずにはいられようか…。私は、アヤの腕を信用することにした。
「…どう?」
 不味くは無い。それどころか美味い。少し甘いのが気にかかるが、塩気と出汁が具に染み込み、煮崩れたじゃがいもが程よいとろみをつけている。
「美味しいよ。お前の作るものなら尚更だ」
 私がそう褒めると、アヤが嬉しそうに微笑んだ。温かい食事。その湯気の向こうのアヤの笑顔。この数日で身につまされた、私の掛け替えの無いもの…。この緩やかな時間を守りたい。私がこの世界で独りきりだったように、アヤもまた、何処にも帰る場所が無いのだから。アヤが私を愛してくれるように、私もアヤの拠り所となろう。もう、何があってもアヤの手を離してはいけない…。


 そんな事を考えながらも、心の奥底に引っかかるあの男の影。事実を問いただす勇気も無いまま、私は何事も無かったようなそぶりでワイングラスに口をつけた。