あの忌まわしい跡を見つけてしまってから数日、僕はろくに綾さんの顔を見ることができないでいた。綾さんもそんな僕の態度に薄々気付いているようで、ここのところあまり話もしていない。だが、いつまでもこんな事をしていてはいけない…。綾さんはそれでも、僕を頼ってきてくれたのだ。その男ではなく、僕の許へ。今夜、綾さんと話しをしてみよう。いや、もっと早い方がいいだろう。昼にでも、綾さんの店へ行ってみよう。僕が顔を見せれば、綾さんも少しは安心してくれるだろう…。


 昼になり、僕は例の食堂へ向かった。僕があそこへ行くのはあの夜以来だ。綾さんに会おうと思ったもののなかなか決心が付かず、サン・ミッシェル広場から随分と遠回りな道を歩く。本当に久しぶりのお店…。食堂は昼時で賑わっているらしく、少し離れたところからでも店内の喧騒が聞こえてくる。
「あ、透悟さん…!」
 僕が一歩店に入ると、綾さんが何も無かったような笑顔で出迎えてくれた。
「食べにきてくれたんですか?」
「うん、たまにはここで昼食を取るのも悪くないと思ってね」
 綾さんに案内され、やや奥まった席に付く。僕から簡単に品書きを聞くと、綾さんはすぐにまた仕事へ戻っていった。あまり階級の高くないであろう労働者や、繕い物の服を着た学生らしき集団…。街でもブルジョワを見かけることもあるが、こういった場所の方が気兼ねが無くて僕は好きだ。女性の姿はあまりなく、居たとしても白粉臭い職業の女性のようだ。綾さんを見ればそういった人々の間で忙しく立ち働いている。こんなお世辞にも清潔とはいえない場所でも、綾さんだけは美しく見えた。
「…これ、頼んでいないのだけど」
 僕の前に運ばれてきた皿には、頼んだ覚えの無いものが乗っている。
「わたしの『お兄さん』だから特別サービスなんですって!」
 こぼれるような笑顔で綾さんが言う。綾さんはここ数日のことを気にはしていないようだ。…よかった。そして僕が見てしまったものは、彼女には話さないほうがいいだろう。彼女がその相手を忘れて僕に心を開いてくれる日が来れば、きっと自ずから話してくれるだろう…。
 昼食を取り終え、薄い珈琲で一息ついていると、綾さんが笑顔で僕のところへやってきた。
「『お兄さん』が来てくれたなら今日は早く帰ってもいいって…! だから帰りましょう?」
 どうやら女将が気を利かせてくれたらしい。思わず綾さんと過ごす事のできる時間が出来たのは嬉しいが、何を話せばいいのか判らず少し気まずい。特に何を話すわけでもなくゆっくりとサン・ミッシェル広場に差し掛かろうとしたときだった。
「しまった…! どうやらお店に帽子を忘れたようだ」
 ふと気付けば被ってきたはずの帽子がない。
「すまないがこの辺りに居てくれないかい? すぐに戻ってくるよ」
「なら広場にいますね」
「うん、すまないね」
 綾さんを広場に残し、僕は急いで店に戻った。


「えっと、綾さんは…」
 女将が僕の帽子を避けておいてくれたため、探す事も無くすぐに僕は広場に戻ってきた。だが、綾さんの姿は無い。
「いったいなんだったんだろうね、あの奇術師は…」
「いつもは夕方までいるのになぁ」
 奇術師、という単語に聴き覚えがある。確か数日前に綾さんが話をしていた。いつもは居るはずなのにいなくなった奇術師、そして同じように姿の見えない綾さん…。…なんだか嫌な予感がする。僕は急いで綾さんの姿を探した。
 広場を見渡しても綾さんは見当たらない。僕はもう少し範囲を広げて広場の周りを探してみる事にした。広場の南側を探し、西側を探し、北側へ少し道を入った時だった。
「…――――…!!」
 男の、怒声が聞こえた。僕は綾さんではないようにと祈りながらそこへ走った。曲がり角を曲がると、少し遠くに見慣れた後姿。綾さんだ。そして綾さんを見下ろしている、随分と上背の高い仮面の男―――!
「何をしている!」
 僕は思わず仏蘭西語でそう叫んでいた。叫んだ刹那に男が僕に目を向ける。その怒気を孕んだ氷のようなその眼…!
「…綾さんを離してください!」
 綾さんと男の間に身体を割り込ませ、綾さんを庇う。
「透悟さん、なんで…!」
 綾さんが僕の後ろで心配そうな声を上げたが、僕は仮面の男から目を逸らす事はなかった。
「…お前には関係の無い話だろう…!」
 男は怒りを一層増したように、死を突きつけるような低い声でそう吐き捨てた。ぴりぴりとした感じが首筋を伝う。そう、これは間違いなく殺気だ。綾さんがいなければ、この男は間違いなく何の躊躇もなしに僕を殺すだろう…! こんな感触は、昔酷く悪戯をして父に抜き身の日本刀を突きつけられて以来だった。
 逃げ出してしまいたいような、絶対的な恐怖。僕が綾さんを護っているのではない。綾さんがいるから僕はかろうじて手を出されないだけだ。僕を睨みつける燃えるような眼は、人を殺す事などちっとも厭わないように燃え滾っている。そうだ、これは人殺しの眼だ…! 僕よりもずっと背も高く、腕力では絶対に敵わないに違いない。今にも震えてしまいそうになるのを必死に堪え、僕は男を睨みつけた。
 膠着状態が続き、男もだんだんと焦れてきたようだった。ああ、こんな事なら柔道でも剣道でも習っておけばよかった! そうしたら綾さん一人を逃がすぐらいの時間は稼げただろうに!
 そのときだった。
「…なの…」
 僕の後ろでずっと震えているようだった綾さんが、何かを小さく呟いた。
「じゃあ、あなたはわたしがどこに行けば満足だったって言うの…?」
 胸を裂かれるような小さな呟き。…やはり綾さんの心にはずっとこの男が居たのだ。僕と暮らしていても、あの食堂で働いていても、今の今まで、ずっと―――! もう一言綾さんが何かを言ったが、僕の耳にはもう入らなかった。
「アヤ…」
「…―――…!」
 いきなり綾さんに腕を掴まれ、思考が一気に現実に戻る。綾さんに連れられるまま路地を抜け、広場を過ぎ、カルチェ・ラタン地区へと走る。途中で綾さんは僕の腕を離してはくれたが、その大きな目からは絶えず涙が溢れ出ていた。
 部屋に入り、息を整える…と、綾さんはついに座り込んで泣き出した。かける言葉が見つからず、ふと床を見れば手紙が一通。どうもばつが悪く、手持ち無沙汰に手紙を手に取ると、それは日本からの手紙だった。
「…綾さん、少しベッドに横になったほうがいいよ」
 手紙を上着のポケットに捻じ込み、綾さんの肩に手をかける。
「君とあの男の間に何があったのかは知らないが、横になったほうが少しは気も楽になるだろうし…」
 綾さんは何も言わない。僕は仕方なしに綾さんを抱き上げると、ベッドへ運び、寝かしつけた。
 ずっとしゃくり上げている綾さんに背を向け、僕はソファに座った。この重苦しい空気をどうにかしたかったが、僕には到底無理な話だった。何とはなしに先ほどの手紙をポケットから出し、封を開ける。久しぶりの日本からの手紙。紫陽花の押し花が一つ、便箋に紛れて転がり落ちてくる。―――その手紙の内容は、僕にとっては思わしくないものだった。


 夕方になっても、綾さんは泣き止もうとしなかった。僕はベッドの脇のランタンに火をつけるふりをして、綾さんの様子を窺いに行った。
「綾さん」
「…ごめん、なさ…」
 小さな声で綾さんが呟く。
「どうして君が謝る必要があるんだい? 君は何も悪くないじゃないか」
「だって、だって…」
「あの男の事かい?」
 僕がそう聞くと、綾さんはまた激しく泣き出した。
「…ねえ綾さん」
 僕は綾さんの肩を掴み、無理矢理僕の方を向かせた。泣き腫らした眼にまだ涙を溜めている綾さんは、それでも美しかった。
「恋の痛みを知らない者は幸福だけど、また不幸なんだよ」
 そうだ。これが僕の答え。
「…綾さん、僕と一緒に日本へ戻らないか?」
 びくり、と綾さんの身体が震え、ゆっくりと濡れた瞳が僕を見つめた。
「…父上が倒れたと手紙が来た。日付は約二ヶ月も前だから、急いで帰っても間に合わないかもしれないが…」
 綾さんの頬に濡れて張り付いた髪を優しく払ってやる。
「だから、僕と一緒に日本へ帰ろう…? もちろん僕の家族にも紹介する。君のご実家にも頭を下げにいく」
 綾さんの肩を押さえ、上を向かせる。綾さんは僕から視線を離さなかった。
「僕なら絶対に君を泣かせない。だから、だから―――!」
 僕はそのまま綾さんに口付けた。綾さんは身体を強張らせたが、僕は気付かないふりをした。
「だから、僕と…。……綾…」


 僕はそっとベッドの脇のランタンを、消した。